(6)凶気と脆弱と
施設の仮入浴室は、夜になるとほとんど人が来ない。元は泊まり込みの職員用に作られた設備で、白いタイル張りの浴場に小さな更衣室があるだけだった。
モニカは肩まで湯に浸かると、浴槽の縁へ頭を預けた。
「疲れた……」
天国センターへ配属されて半年。少し前までの仕事といえば、幸福指数や適応率、人格波形を確認して報告書へまとめる程度だった。それが本部から白嶺が来て一変した。年齢も経歴も非公開、それでいて施設長以上の権限を持ち、必要と判断すれば被験体の人格にまで平然と手を加える。
「……幸せな最期でしたね、か。意味分かんない……」
マリアが喰われた直後に白嶺が口にした言葉を呟き、顔へ湯をかけたところで浴場の扉が開いた。
反射的に胸元を隠して振り返る。
湯気の向こうから入ってきたのは、つい今しがた考えていた本人だった。
「ああ、モニカさん。どうも」
「どうもじゃないですよ! 何してるんですか!?」
「シャワーです」
「見れば分かります!」
白嶺はモニカの反応など気にした様子もなく、シャワーを出して温度を調節している。
「ここ、私が入ってるんですけど」
「ええ」
「ええ、じゃなくて! 普通入ってきます!?」
「私も職員ですし、空いていましたから」
「私がいるでしょう!」
「ああ、そういうことですか」
本当に今まで問題に気づいていなかったらしく、モニカは呆れながら浴槽の端へ寄った。
「距離感おかしいですよ、先生」
「よく言われます」
「なら直してください」
「それは難しいですねぇ」
少なくとも、こちらを盗み見るために入ってきたわけではないらしい。白嶺はシャワーの温度ばかり気にしており、それがかえって意味不明だった。
やがてシャワーを止めると、白嶺は浴槽へ視線を向けた。
「モニカさん」
「なんですか」
「先ほどから、ずっと私を見ていますね。入口も三回確認しました。私が近づけば身体を引き、呼吸も少し速くなる。タオルを握る力も、最初より強くなっています」
モニカが自分の手を見ると、確かに指が食い込むほど強く握っていた。
「……何なんですか」
「観察ですよ」
白嶺は浴槽の縁へしゃがみ、湯へ指を入れた。水面に小さな波紋が広がり、その指が近づいただけでモニカの身体がわずかに後ろへ動く。
「ほら。私はお湯に触れただけです。それでもモニカさんは離れた」
「私で遊んでます?」
「まさか。興味深いだけですよ」
「同じです」
白嶺は否定せず、水面へ視線を落としたまま続けた。
「頭で考えるより先に身体が危険を避ける。視線や距離、呼吸、筋肉の緊張まで、本人が意識していなくても反応するんです。マリアさんにも、これがありました」
その名前が出た途端、モニカの表情が変わった。
「誰かの言葉も視線も好意も疑う。彼女自身を苦しめていた性質ですが、同時に危険から身を守っていた」
「それを先生が消した」
「ええ」
「だから、あの化け物を疑わなかった」
「キリトさんが『大丈夫』と言いましたからねぇ」
マリアは身体を喰われながら、それでも恋人の言葉を信じ続けた。
「……やっぱり、先生が殺したようなものじゃないですか」
「そういう見方もできますね」
あまりにも簡単に認められたため、モニカはしばらく白嶺を見ていた。
「後悔してないんですか?」
「していますよ」
「嘘。そんな顔してないからです」
「後悔とは、どんな顔をするものなんでしょう」
「……そういうところですよ」
人の感情が分からない男には見えない。むしろ本人すら意識していない呼吸や視線、指先の力まで拾ってしまうほど他人を見ているのに、自分自身の感情について尋ねられた途端、白嶺の答えは曖昧になる。
「先生って、人間が好きなんですか?」
「好き、ですか」
白嶺は少し間を置いた。
「嫌いではありませんよ」
「それ、好きじゃないですよね」
「では、好きなのかもしれません」
「適当……」
「ただ、人間は不思議なんですよ。苦痛を嫌うのに、それがなければ危険を知れず、不安を消したがるのに、それがなければ生き残れない。忘れたいほど嫌な記憶が、次に同じ目に遭わないため、その人を守っていることだってあります」
白嶺の指が湯を滑り、崩れた水面へ新しい波紋が重なった。
「不要に見えるものを一つ取り除いただけで、別の何かまで失われる。では、どこまで取り除けば、その人はその人ではなくなるのでしょうねぇ」
「……先生は、それを知りたいんですか?」
「どうでしょう」
「自分のことなのに?」
「自分のことだから、分からないこともありますよ」
白嶺はそこで立ち上がり、浴場を出ようとしてから一度だけ振り返った。
「ただ、一つだけ確かなことがあります。私は一度見たものを、なかなか忘れられないんです」
「……それ、自慢ですか?」
「さあ」
そのまま湯気の向こうへ姿を消し、扉が閉じる。
「ほんと……何なの、あの人」
モニカは身体を沈め直したものの、白嶺が指を入れた辺りへ戻ることはなく、消えてしまった波紋の跡をしばらく眺めていた。
◇
入浴を終え、モニカが更衣室で髪を乾かしていると、端末に赤い通知が浮かび上がった。
【緊急新収者有り 対応せよ】
「……マジかよ。今日は帰ろうと思ってたのに」
すでに日付は変わっている。濡れた髪をまとめて白衣を羽織り、廊下へ出たところで、同じシフトの職員がその顔を見て声を掛けてきた。
「顔に出すぎ」
「この時間の緊急新収って、“確定”でしょ」
「しかも配信型」
「もう見飽きた……」
二人が搬入口へ向かう頃には、施設内の医療システムも受け入れ準備を開始していた。
歩きながらモニカが新収者の記録を開く。
『死刑確定者 ヴァネッサ・レイン』
事件の発端は、世界共通型SNS《Lync》で起きた画像の無断使用を巡るトラブルだった。被害者は十九歳。配信やモデル活動で知られていたヴァネッサは、普段から裏社会との繋がりを匂わせる発言を繰り返しており、「話し合い」と称して少女を山岳保護区域へ呼び出していた。
当初は謝罪を要求するだけだった行為は、やがて暴行と撮影へ変わった。少女が泣けば笑い、怯えればカメラを向け、逃げようとして足を骨折しても救助しない。その一部始終は配信され、残された映像にはヴァネッサたちの声まで記録されている。
『ねぇ、今どんな気分?』
『自分が主役だね』
『配信伸びてるよ』
氷点下の山中で、負傷した少女が雪の上を這っている間も配信は止まらなかった。
『死ぬなよ。まだ配信終わってないから』
モニカはそこで一度だけ画面から顔を上げた。
少女はその後、失血と低体温症で死亡。押収された端末からは、恐怖に歪む様子を楽しみながら《どこまで壊れるか》を競っていたチャットまで発見されていた。
《Lync Murder》
事件名の横には、世界中へ拡散された映像の再生数が表示されている。
「うわぁ……またこのタイプか」
「最近多いよな」
「殴るだけじゃ足りないのかな。なんでわざわざ人に見せるんだろ」
「見てくれる奴がいるからじゃね?」
隣を歩いていた職員はそれだけ言って先へ進んだ。
モニカも端末を閉じて後を追う。その途中、なぜか先ほどまで白嶺と話していたマリアの映像が頭をよぎったものの、搬入口の隔壁が開く音で意識をそちらへ戻した。
大型輸送ユニットが施設内へ入り、透明な医療カプセルが運び出される。内部には金髪の女が固定され、職員たちが“確定”と呼ぶ死刑確定囚の受け入れ情報が周囲の端末へ一斉に共有された。
「ヴァネッサ・レイン……」
死刑確定後に与えられる選択期間は一週間。そのまま刑を執行されるか、天国センターへ移住するか。ヴァネッサは後者を選んでいた。
「適合検査、始めます」
「了解」
カプセルが処置室へ運ばれていく。
脳波を同期させ、移植可能な組織を振り分ける。この先の工程をモニカは何度も見てきた。本人が天国で新しい人生を始める頃には、現実側の身体はほとんど残っていない。
十九歳の少女を笑いながら死なせた人間にも、自分だけの幸福が与えられる。
モニカは処置室の扉が閉じるまでカプセルを見送り、小さく呟いた。
「……この人も、天国に行くんだ」
閉じた扉の上では《処置準備中》の表示が点灯している。
「先生、これ見たら何て言うんだろ……」
今回の話は、心理学でいう進化心理学とかパーソナルスペースとか、その辺をつまみ食い!
人って不安になると、勝手に相手との距離を取ったり、逃げ道を探したり、目だけキョロキョロしたりするんですよ。
しかも本人は、ほとんど気づいてません。
逆に、お風呂みたいな「あ〜極楽〜」って場所だと、警戒心がゆるんで、つい本音が出ちゃったりもします。
不安ってイヤなものだと思われがちですが、昔の人類からすると「ヤバい!逃げろ!」って教えてくれる超高性能アラームみたいなものだったわけです。
白嶺は、そんな人間の無意識のクセを見つけるたびに、「へぇ〜、人間って面白いなぁ」とニヤニヤしてる、ちょっと変な先生なんです




