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天国白書  作者: 凛1129
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2章 支配 (4)福音

 白い庭園には、柔らかな風が吹いていた。

石畳は磨き上げられ、花壇には季節の区別なく花が咲いている。遠くでは水の流れる音がしていた。空は青く、陽射しは暖かい。どこを見ても、美しかった。


 マリアは裸足のまま庭を歩いていた。

白いワンピースの裾が風で揺れる。

庭園の池に、自分の姿が映っていた。

マリアは足を止める。

風に揺れる髪。

何も飾っていない指先。


しばらく見つめて、また歩き出した。


「最近、変わりましたね」

 隣を歩くキリトが穏やかに言う。

「そう?」

「ええ。前はもっと、周囲を見ていました」

 マリアは少し笑った。

「まぁ、疲れてたんだと思う」


マリアは胸元へ手を当てた。

何かを確かめるように。


「ねぇ、キリト」

「はい」

「私さ」


そこで言葉を飲み込んだ。

キリトは優しく微笑む。

 

「魅力的でしたよ」

「いや、そうじゃなくて」

マリアは苦笑する。

「なんか、もっと嫌な奴だった気がする」

「今も素敵です」


 また会話が噛み合わない。

マリアは小さく息を吐いた。

 

まるで世界全体が、自分を傷つけないよう慎重に作られているみたいだった。

 

 その時だった。

 庭園の奥で、木々が揺れた。

 マリアは視線を向ける。


 白い影が、ゆっくりこちらへ歩いてきていた。

 動物?

 近づくにつれ、身体の奥が妙にざわつく。

 

 巨大。白い毛並み。

 異様に長い六肢。

 骨格がどこか歪んでいる。

 顔だけ、人間に少し似ている。

 黒い目が濡れたみたいに光っている。


 それなのに、不思議と怖くない。

 キリトが平然としている。

 周囲の使用人たちも、誰一人動かない。


「……大きいね」

 マリアは目を見開き少し笑う。


 獣は静かに近づいてくる。

 巨大な身体なのに、ほとんど足音がしない。

「懐いてるんじゃないですか」

 キリトが穏やかに言う。

 獣はマリアの目の前で止まった。

 黒い目が、じっとマリアを見つめる。

 

「触っていい?」

「ええ」

 マリアは笑いながら手を伸ばした。

 毛並みは温かく柔らかい。


「へぇ……かわい──」


 その瞬間。

獣の口が裂ける。

骨が軋む音。

人間ではあり得ないほど大きく開いた口の奥で、赤黒い肉が蠢いている。


 マリアは一瞬だけ目を丸くする。

「……え?」


 獣はマリアの頭部ごと肩へ噛みついた。

 湿った破裂音が庭園へ響く。

 白い石畳に、赤黒い液体が飛び散った。

 腕が宙を跳ね、千切れた指が花壇へ転がる。


「あ゙あ゙……」

 獣は恍惚の表情を浮かべ静かに咀嚼していた。

 獣が顎を動かすたび、湿った骨の音が庭園へ響いた。赤い液体が白い石畳をゆっくり流れていく。

 それでも風は穏やかなままだった。

 マリアの身体はまだ立っていた。


 脚が痙攣している。

 喉の奥から壊れた空気音が漏れる。

 だが逃げない。逃げられない。

 違う。

 

 マリアの残った片目が、ゆっくりキリトを見る。

 血が噴き出している。

 肩から先が消えている。

 

「……キリ……ト?」

助けを求めるような声をだす。

 キリトは穏やかに微笑む。

「大丈夫ですよ」

 

「そう……よかった」

 その言葉を、マリアは信じた。

 獣は再び噛みつく。

 腹が裂け、赤い臓物が石畳へ零れ落ちる。

 白い庭園に、内臓が滑った。


 使用人たちは騒がない。誰も逃げない。

 マリアの下半身が崩れ落ち映像はそこで止まった。


モニター室。

 モニカは息を呑んだまま動けなかった。

 画面の中では、獣がまだ肉を喰っている。

 脳波。幸福指数。快楽反応。

 それらの数値だけが、異様なほど安定している。


 モニカの顔から血の気が引いた。

「……まだ、生きてるんですか」

「いいえ」

白嶺は静かに答える。

 

「なんで……逃げないんですか……」

 モニカの声は震えていた。

 白嶺は少しだけ考える。


「彼女は、ずっと疑って生きてきました」

「疑う?」

「ええ」


 画面の中で、獣が内臓を引きずり出す。


「笑顔も、優しさも、愛情も。すべて一度疑う人でした」

 モニカは何も言えない。

「だから先回りできた。だから傷つけられる前に、相手を傷つけられた」

 白嶺は数値へ視線を向ける。


「人間は、疑うことで危険を避けています」


「でも……」

「天国では、その必要がなくなった」

 白嶺は静かに続ける。

「誰も裏切らない。誰も嘘をつかない。誰も彼女を傷つけない」

 モニカの顔から血の気が引く。


「だから、彼女は信じられるようになった」


 白嶺は画面を見つめたまま言った。

「そして、喰われた」


 モニカは息を呑む。


 「皮肉ですね」

 白嶺は小さく呟く。


「彼女を救った天国が、彼女から最後の防御本能を奪った」


 モニカの背筋に寒気が走る。

 白嶺は目線を落とす。

「人を疑わなくなった人間は、驚くほど簡単に喰われるんですよ」


 モニカはモニターから目を離せなかった。


 白い庭園。青い空。穏やかな風。

 なのにモニター上では、幸福指数だけが高いままだった。


 白嶺はその数値を見つめながら、静かに呟く。

「……幸せな最後でしたね。マリアさん」

白嶺はそう呟きながら、幸福指数の推移グラフを静かに閉じた。

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