2章 支配 (4)福音
白い庭園には、柔らかな風が吹いていた。
石畳は磨き上げられ、花壇には季節の区別なく花が咲いている。遠くでは水の流れる音がしていた。空は青く、陽射しは暖かい。どこを見ても、美しかった。
マリアは裸足のまま庭を歩いていた。
白いワンピースの裾が風で揺れる。
庭園の池に、自分の姿が映っていた。
マリアは足を止める。
風に揺れる髪。
何も飾っていない指先。
しばらく見つめて、また歩き出した。
「最近、変わりましたね」
隣を歩くキリトが穏やかに言う。
「そう?」
「ええ。前はもっと、周囲を見ていました」
マリアは少し笑った。
「まぁ、疲れてたんだと思う」
マリアは胸元へ手を当てた。
何かを確かめるように。
「ねぇ、キリト」
「はい」
「私さ」
そこで言葉を飲み込んだ。
キリトは優しく微笑む。
「魅力的でしたよ」
「いや、そうじゃなくて」
マリアは苦笑する。
「なんか、もっと嫌な奴だった気がする」
「今も素敵です」
また会話が噛み合わない。
マリアは小さく息を吐いた。
まるで世界全体が、自分を傷つけないよう慎重に作られているみたいだった。
その時だった。
庭園の奥で、木々が揺れた。
マリアは視線を向ける。
白い影が、ゆっくりこちらへ歩いてきていた。
動物?
近づくにつれ、身体の奥が妙にざわつく。
巨大。白い毛並み。
異様に長い六肢。
骨格がどこか歪んでいる。
顔だけ、人間に少し似ている。
黒い目が濡れたみたいに光っている。
それなのに、不思議と怖くない。
キリトが平然としている。
周囲の使用人たちも、誰一人動かない。
「……大きいね」
マリアは目を見開き少し笑う。
獣は静かに近づいてくる。
巨大な身体なのに、ほとんど足音がしない。
「懐いてるんじゃないですか」
キリトが穏やかに言う。
獣はマリアの目の前で止まった。
黒い目が、じっとマリアを見つめる。
「触っていい?」
「ええ」
マリアは笑いながら手を伸ばした。
毛並みは温かく柔らかい。
「へぇ……かわい──」
その瞬間。
獣の口が裂ける。
骨が軋む音。
人間ではあり得ないほど大きく開いた口の奥で、赤黒い肉が蠢いている。
マリアは一瞬だけ目を丸くする。
「……え?」
獣はマリアの頭部ごと肩へ噛みついた。
湿った破裂音が庭園へ響く。
白い石畳に、赤黒い液体が飛び散った。
腕が宙を跳ね、千切れた指が花壇へ転がる。
「あ゙あ゙……」
獣は恍惚の表情を浮かべ静かに咀嚼していた。
獣が顎を動かすたび、湿った骨の音が庭園へ響いた。赤い液体が白い石畳をゆっくり流れていく。
それでも風は穏やかなままだった。
マリアの身体はまだ立っていた。
脚が痙攣している。
喉の奥から壊れた空気音が漏れる。
だが逃げない。逃げられない。
違う。
マリアの残った片目が、ゆっくりキリトを見る。
血が噴き出している。
肩から先が消えている。
「……キリ……ト?」
助けを求めるような声をだす。
キリトは穏やかに微笑む。
「大丈夫ですよ」
「そう……よかった」
その言葉を、マリアは信じた。
獣は再び噛みつく。
腹が裂け、赤い臓物が石畳へ零れ落ちる。
白い庭園に、内臓が滑った。
使用人たちは騒がない。誰も逃げない。
マリアの下半身が崩れ落ち映像はそこで止まった。
モニター室。
モニカは息を呑んだまま動けなかった。
画面の中では、獣がまだ肉を喰っている。
脳波。幸福指数。快楽反応。
それらの数値だけが、異様なほど安定している。
モニカの顔から血の気が引いた。
「……まだ、生きてるんですか」
「いいえ」
白嶺は静かに答える。
「なんで……逃げないんですか……」
モニカの声は震えていた。
白嶺は少しだけ考える。
「彼女は、ずっと疑って生きてきました」
「疑う?」
「ええ」
画面の中で、獣が内臓を引きずり出す。
「笑顔も、優しさも、愛情も。すべて一度疑う人でした」
モニカは何も言えない。
「だから先回りできた。だから傷つけられる前に、相手を傷つけられた」
白嶺は数値へ視線を向ける。
「人間は、疑うことで危険を避けています」
「でも……」
「天国では、その必要がなくなった」
白嶺は静かに続ける。
「誰も裏切らない。誰も嘘をつかない。誰も彼女を傷つけない」
モニカの顔から血の気が引く。
「だから、彼女は信じられるようになった」
白嶺は画面を見つめたまま言った。
「そして、喰われた」
モニカは息を呑む。
「皮肉ですね」
白嶺は小さく呟く。
「彼女を救った天国が、彼女から最後の防御本能を奪った」
モニカの背筋に寒気が走る。
白嶺は目線を落とす。
「人を疑わなくなった人間は、驚くほど簡単に喰われるんですよ」
モニカはモニターから目を離せなかった。
白い庭園。青い空。穏やかな風。
なのにモニター上では、幸福指数だけが高いままだった。
白嶺はその数値を見つめながら、静かに呟く。
「……幸せな最後でしたね。マリアさん」
白嶺はそう呟きながら、幸福指数の推移グラフを静かに閉じた。




