2章 支配(3)進化脳
モニター室には、いつものように白い光だけが満ちていた。
モニカは、中央の画面に映る女を見つめている。画面の端には、被験体番号、脳波、幸福指数、攻撃性、疑念反応が小さく表示されていた。
「これが、例の被験体ですか」
「えぇ、そうですね」
白嶺は、机に片手を置いたまま答えた。
マリアの身体は、天国センターへ来てからまだ日が浅い。それでも、現実側の肉体はすでに人間の形を保つことをやめつつあった。
維持装置へ接続された脳だけが、薄い液体の中で静かに活動している。
身体の大部分は、移植用、培養用、研究用として処理され、残されたものは管理データ上の数字になっていた。だが、モニターの中のマリアは美しかった。
若く、細く、白いドレスを着ている。大理石の床には赤い絨毯が敷かれ、巨大なホールには、彼女へ頭を下げる人々が並んでいた。
モニカは少し眉を寄せた。
「……でも、みんなと同じように幸せそうですね」
「はい。お金、名誉、若さ、美しい容姿、成功。最初にそれを望む方は多いですから」
白嶺は別の被験体のデータを操作しながら淡々と言った。
実際、天国センターに来る人間のほとんどは、最初に似たような世界を作る。
自分が愛される世界。
自分が成功する世界。
自分を傷つけた人間が謝罪する世界。
自分を見下した者が、ひざまずく世界。
マリアも例外ではなかった。
画面の中で、マリアは玉座に座っていた。
「もういい。あなたは死刑」
彼女の前には、一人の男がひざまずいている。かつてマリアの投稿へ反論した男に似た顔だった。
男は震えながら床に額をつける。
「マリア様、どうかお許しください。私が間違っていました」
「許すわけないでしょ」
マリアは退屈そうに爪を見る。
「あなたみたいな人間が、女を苦しめてきたの。だから一番残酷な死刑にして」
周囲の人々が一斉に頷く。
「マリア様は正しい」
「社会を守るためです」
「彼女の痛みを理解できない者に、生きる資格はない」
男は刑務官のような者たちに連れていかれた。
扉の向こうで悲鳴が聞こえる。
マリアは眉一つ動かさない。
すぐ隣には、美しい顔立ちの男が立っていた。
黒髪で、整いすぎた顔をしている。
マリアが望んだ理想の男だった。
名前はキリト。
どこかの物語から借りてきたような名前だった。
マリアはキリトの顎へ指を添える。
「キリト。あんたも裏切ったら、ああなるからね」
「僕がマリア様を裏切るわけないじゃないですか」
キリトは迷いなく答えた。
マリアは満足そうに笑う。
「当然よね。私を選ばない男なんて、見る目がないだけだし」
ホールに拍手が起こった。
モニカは画面を見ながら、少しだけ顔を曇らせた。
「見ていて気持ちのいい天国ではありませんね」
「ええ」
「でも、本人は幸せそうです」
「そうでしょうか」
白嶺はモニターを見たまま、少しだけ眉を動かした。
モニカは白嶺を見る。
「違うんですか」
「彼女は、まだ幸せの形を掴んでいません」
「これだけ望み通りなのに?」
「望み通りだからです」
白嶺は端末に指を置いた。
「彼女が作った天国には、常に処刑台があります。称賛があり、罰があり、服従があります。ですが、安心がない」
モニカは画面へ視線を戻した。
マリアは笑っている。人々は彼女を称え、キリトは彼女の横にいる。
それでも、マリアはキリトの視線の動きを見ていた。
一瞬でも他の女を見ていないか。 返事が遅れていないか。 笑顔が薄くなっていないか。
「疑っている……?」
「ええ」
白嶺は静かに答えた。
「マリアさんにとって、他人は信じるものではありません。動かすものです。だから、相手が従っていても安心できない。従っている理由を疑う。愛されても、演技ではないかと疑う。支配しても、裏切りを探す」
「それじゃ、どこまで行っても疲れませんか」
「疲れますよ」
白嶺は、どこか楽しそうに言った。
「だから観察に向いている」
モニカは眉をひそめた。
「先生」
「少しだけ、変えてみましょう」
白嶺は端末の上で指を動かした。
画面の中のマリアが、ふと笑った。
「なーんてね」
キリトが目を瞬かせる。
「え?」
「私がキリトを疑うわけないじゃん」
マリアは立ち上がり、キリトの手を取った。
「ずっと信用してるよ。だって、あなたは私の味方でしょ」
キリトは戸惑いながら頷いた。
「もちろんです」
その日を境に、マリアの天国は変わった。
処刑台は消え密告用の部屋も消えた。
そして過去に自分を傷つけた者たちを裁く裁判所も消えた。
マリアは、誰かの言葉を疑わなくなった。
使用人が食事を運べば、素直に礼を言った。
キリトが遅れても、問い詰めなかった。
女性たちが笑い合っていても、自分の悪口だとは思わなかった。
誰かが失敗しても、すぐに裏切りだとは考えなかった。
ホールは静かになった。誰も罰されない。 誰も吊し上げられない。 誰もマリアの機嫌を取るために怯えない。マリアは庭で、キリトと紅茶を飲んでいた。
「今日は静かだね」
「はい」
「悪くないかも」
マリアは微笑んだ。
モニカは画面を見つめた。
「性格を変えたんですか」
「性格というより、進化させました」
「それは……本人ですか?」
白嶺はすぐに答えなかった。
「安全な場所には、疑念は必要ありません」
「でも現実の人間は、そんなに簡単に疑うことをやめられません」
「だから天国なのです」
モニカは言葉を失った。
画面の中のマリアは、穏やかだった。さっきまで人を裁いていた女とは別人のように見える。
だが、モニカにはその穏やかさが少し怖かった。
「彼女は幸せになりますか」
白嶺はモニターを見つめたまま言った。
「しばらくは」
「しばらく?」
「疑念を失えば、争いは減ります。ですが、彼女の幸福は、疑い、試し、勝つことで成立していました」
モニカは画面を見る。
庭で笑うマリア。
優しく微笑むキリト。
何も起きない午後。
「では、疑わなくなった彼女は」
「ええ」
白嶺は穏やかに笑った。




