(5)福音
観測室の中央モニターには、天国へ移住したマリアの世界が映し出されていた。
現実側の管理画面へ切り替えると、維持装置へ接続された脳と身体利用の進捗が表示される。
『移植利用 完了』
『培養利用 継続中』
『脳維持 正常』
モニカはその表示を確認すると、すぐに天国側へ画面を戻した。
そこにいたマリアは、現実にいた頃より若く整った姿を与えられ、巨大な宮殿の玉座に腰掛けている。白亜の床には何十人もの人間がひざまずき、その中央には、現実で彼女の投稿へ反論していた人物を基に作られた男がいた。
「これが、例の被験体ですか」
「ええ。マリアさんです」
『被験体 MRA―13』
『幸福指数 八九%』
『疑念反応 高』
「マリア様、私が間違っていました。どうかお許しください」
男が頭を下げても、マリアは玉座から動かなかった。
「もういい。あなたは死刑」
「そんな……」
「あなたみたいな人間が女を苦しめてきたんでしょ。一番残酷な死刑にして」
周囲から一斉に「マリア様は正しい」と声が上がり、男は衛兵たちに連れ出されていった。
モニカは眉間に皺を寄せた。
「これが天国?」
「彼女にとっては」
「気持ち悪いですね」
「お金や名誉、若さ、美しい容姿を望む人は珍しくありませんが、マリアさんの場合は報復も幸福を構成する要素に含まれているようですねぇ」
宮殿では、彼女が理想とする容姿と性格を与えられた恋人、キリトが常に傍らへ控えていた。裏切ることのない存在として作られているにもかかわらず、廊下ですれ違った女性へ彼が一瞬視線を向けただけで、マリアの声色が変わる。
「今、女見てたよね?」
「偶然、視界に入っただけですよ」
「嘘」
『疑念反応 上昇』
白嶺が現実での行動記録を呼び出すと、速水への執着、吉住への嫌がらせ、匿名投稿といった記録の横で、疑念反応と攻撃性がほぼ連動して上昇していた。
「天国へ来ても同じなんだ……」
「むしろ制限がなくなっています。現実では、気に入らない相手を死刑にすることまではできませんでしたからねぇ」
「最悪じゃないですか」
「それでも幸福指数は八十九%ありますよ」
「じゃあ、残りの十一%は?」
白嶺は《疑念反応 高》の表示を拡大した。
「おそらく、これでしょうね」
モニカはしばらく二つの数値を見比べたあと、マリア自身の人格データを開いた。
「だったら、マリアさんの方を変えたらどうです? 誰も疑わなくなれば、もっと幸せになるんじゃないですか?」
白嶺の指が止まった。
「なるほど。試してみましょうか」
「え?」
◇
白嶺が変更したのは、マリアの疑念に関係する反応だけだった。
効果はすぐに現れた。キリトの帰宅が遅れても問い詰めることはなくなり、周囲から笑い声が聞こえても、自分のことを話しているのではないかと確認しない。宮殿からは処刑場や裁判所まで姿を消し、数日後には庭園でキリトと紅茶を飲む姿が映し出されていた。
『幸福指数 九四%』
『疑念反応 低』
「上がった……」
「うまくいったようですねぇ」
モニカは変更前後の映像を並べた。
「先生。この人、性格を変えられたんですよね?」
「疑念に関係する部分だけですよ」
「それって、もう本人じゃなくないですか?」
「では、どこまで変えたら別人になるのでしょう」
白嶺が人格データを重ねると、記憶、嗜好、愛着対象などに大きな変化はなく、目立って低下しているのは疑念に関連する反応だけだった。
「安全な世界に、現実で身につけた性質をすべて持ち込む必要はないでしょう。本人を苦しめている原因そのものを取り除けるのも、天国の利点です」
「なんかズルくないですか?」
「天国ですからねぇ」
ところが、一か月ほど経つと別の数値が上がり始めた。
『幸福指数 九一%』
『退屈反応 上昇』
画面の中で、マリアはソファへ身体を預けたまま、キリトが提案する映画や買い物、旅行にもほとんど反応を示さなくなっていた。
「……つまんない」
「退屈してません?」
「していますねぇ」
「疑わなくなって、幸福指数も一度上がったのに?」
白嶺は現実にいた頃の脳活動記録を呼び出した。
買い物を繰り返していた時期よりも、速水へ執着し、吉住を敵視していた時期の方が脳活動は明らかに高い。疑うことや怒ることが苦痛である一方、それらが強い刺激にもなっていたことが数値として残っている。
「どうやら、余計なものまで取り除いてしまったかもしれませんねぇ」
◇
しばらくして、白い庭園をマリアとキリトが並んで歩いていた。
以前のように誰かを裁くことはなくなり、最近では過去の自分について口にすることも増えている。
「私、もっと嫌な奴だった気がする」
そんな話をしながら庭園の奥へ進んでいた時、一頭の獣が姿を現した。
白い毛に覆われた巨体には六本の長い脚があり、骨格は不自然に歪んでいる。顔には人間を思わせる造形が残り、ゆっくりと二人へ近づいてきた。
「……大きいね」
キリトも周囲の使用人も逃げる様子を見せない。
「懐いてるんじゃないですか」
「触っていい?」
「ええ」
マリアは目の前まで来た獣へ手を伸ばした。
白い毛並みに触れ、何度か掌を滑らせる。
「へぇ……かわい――」
獣の口が大きく裂けた。
次の瞬間、巨大な顎がマリアの頭から肩へ食い込み、身体ごと地面へ叩きつける。骨の砕ける音とともに白い石畳へ血が散り、千切れた片腕が花壇の中へ転がった。
それでもマリアは逃げようとしなかった。
残った片目だけをキリトへ向ける。
「……キリ……ト?」
「大丈夫ですよ」
キリトは普段と変わらない声で答えた。
「そう……よかった」
獣が再び身体へ食らいつき、腹部を引き裂く。マリアは地面に倒れたまま、最後までキリトの方を向いていた。
◇
観測室には、獣が肉を噛み砕く音だけが流れていた。
モニカは中央モニターへ顔を向けたまま動かない。
「……なんで逃げなかったんですか」
白嶺は答えず、マリアが襲われる直前からの反応記録を遡った。
『恐怖反応 微弱』
『逃避行動 なし』
『疑念反応 低』
さらに変更前の人格データを重ねると、新しい項目が表示された。
『危険回避反応 著しく低下』
「……なるほど」
「何がですか?」
「我々が、彼女から疑念を取り除いたからですよ」
「でも、あれは誰かを疑うとか、そういう話じゃないでしょう」
「危険ですよね」
白嶺は疑念反応と危険回避反応の推移を同じ画面へ並べた。疑念だけを下げたつもりだった処置は、相手の言葉や周囲の状況へ違和感を抱く反応まで大きく弱めていた。
「相手の言葉は本当か。近づいて安全か。何かがおかしくないか。マリアさんの場合、それらが過剰だったのでしょう」
「それを消したから……」
「キリトさんが大丈夫だと言えば、それを疑う理由がなくなった」
モニカが白嶺へ顔を向ける。
「じゃあ、先生が疑念を消したせいで死んだんですか?」
「そういうことになりますねぇ」
「そんな実験みたいに……」
「実験ですよ」
白嶺は、マリアが襲われている間もほとんど変化しなかった幸福指数を表示した。
『幸福指数 九四%』
「人を疑いすぎれば、誰も信じられない。しかし何も疑わなければ、自分を守るための違和感まで失う」
疑念反応、攻撃性、危険回避反応、幸福指数が一つの画面へ並び、それぞれが異なる動きを見せている。
「どうやら天国に不要なものを選ぶのは、思っていたより難しいようですねぇ」
モニカは白嶺を見たあと、再び中央モニターへ顔を戻した。
停止した映像には、最後までキリトへ視線を向けていたマリアと、《幸福指数 九四%》という数字が残されている。
「幸せな最期でしたね。マリアさん」
この話は、進化心理学やネガティビティ・バイアス、シグナル検出理論なんかをヒントにしています
人を疑う性格って、生きづらそうに見えますよね。
でも昔は、疑い深い人の方が詐欺や裏切りを避けられて、生き残りやすかったとも考えられています。
逆に、安全な世界でその警戒心だけ消してしまうと、今度は危険そのものに気づけなくなる。
つまり、人間の「欠点」は、見る環境が変われば「才能」にもなるということです。
結局、人間ってアップデートすれば強くなるほど単純じゃないんですよね(笑)




