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天国白書  作者: 凛1129
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2章 支配 (2)侵食


 翌日の昼休み。

 マリアは給湯室で、同僚二人と並んでいた。


「吉住さんってさ」

 紙コップへお茶を注ぐ。

「悪い子じゃないんだけど」

 そこで言葉を切る。


 二人が顔を上げた。

「男の人との距離、近くない?」

「そう?」

「私だけかな」

 マリアは視線だけ落とした。


「新人なのにね」

 二人は顔を見合わせた。


「まぁ……そういう見方する人もいるかもね」


別の日。

「吉住さん、前の研修先でも何かあったらしいよ」

「誰が言ってたの?」

「いや……聞いただけ」


さらに数日後。

 匿名アカウントが投稿する。

【新人なのに男の先輩にだけ懐いてる人って苦手】

【距離感おかしい人いるよね】

【女に嫌われる人って理由ある】


 マリアは昼休みにその投稿を見て、小さく笑った。

通知は、ゆっくり増えていく。

画面を閉じた。


——————


「おはようございます」

 吉住が頭を下げる。

「……おはよう」

返事は一拍遅れた。


——————


昼休み。

「三人で行こう」

 誰かが言う。

 吉住は席を立ちかけた。

 三人は、そのまま給湯室へ向かった。

 吉住は座り直す。

 引き出しから、小さなパンを取り出した。


——————


会議。

「こちらですが……」

 吉住が説明を始める。

 誰かが呟く……

 吉住は言葉を止める。


「続けて」

 部長が促す。

「……はい」


——————


「速水さん、吉住さんに甘くない?」

「教育担当だからだろ」

「へぇ」


——————

移動用ポッド。

以前なら、吉住の方から話しかけていた。

今日は、窓の外を見たままだった。

 

 

ある日

 吉住は会社へ来なかった。

三日目

 紺野部長が朝礼で言った。

「吉住さんはしばらく休職する。理由は聞くな」

 誰も何も言わなかった。

 速水はその日、ほとんど喋らなかった。

 マリアは、それを見ていた。


 その夜。

「速水くん、大丈夫?」

マリアは会社の出口で声をかけた。

 速水は立ち止まる。

「……大丈夫ですよ」

「嘘。顔、死んでる」

速水は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。

 

 マリアは少しだけ声を柔らかくした。

「飲みに行こ。今日は一人で帰らない方がいいよ」

「いや、今日は……」


——————

 

「……飲みすぎじゃない?」

 マリアが笑いながら、速水のグラスを引いた。

「いや、平気です」

「全然平気そうじゃないけど」

 速水は苦笑する。

 笑うたび肩が触れる。


 たまに顔を覗き込んでくる。

「速水くんってさ」

「はい?」

「真面目すぎるよね」

 マリアは氷を揺らしながら笑った。

 

「もっと適当でよくない?」

「そうですかね」

「うん。絶対損してる」

 速水は曖昧に笑う。

 マリアはその顔を見て、小さく笑った。

「そういうとこ」



 店を出る頃には、雨が降っていた。

「うわ」

 マリアが空を見上げる。

「最悪」

速水は端末を取り出す。

「タクシー呼びます」

「今日、うち来る?」

 速水が止まる。

 マリアは、まるで大したことじゃないみたいに続けた。

「だって、その状態で一人無理でしょ」

「いや……」

「変な意味じゃないよ?」

 マリアは笑う。

「なんか今にも死にそうな顔してるし」

 速水は端末を握ったまま動かなかった。

 マリアはその沈黙を確認するみたいに、少しだけ速水の袖を引く。

 

「ほら、行こ」



——————  

 

 朝、速水は、頭痛で目を覚ました。

 知らない風景。

 横を見る、マリアが裸で寝ている。

 速水は呼吸を止めた。

 「……え?」


 マリアが薄く目を開ける。

「おはよ」

「いや、俺……」

「昨日すごかったよ?」

 速水の顔が青くなる。

 マリアは端末を持ち上げた。

 画面には、ベッドの中で撮られた写真があった。

 速水は言葉を失った。

 

「安心して。誰にも見せないから」

 速水は何も言えなかった。


 朝は、それ以上何も話さなかった。

 翌週も、速水はマリアの部屋にいた。

 その翌週も。

 マリアの部屋へ行くたびに、速水は少しずつ疲れていった。


 開封されていない段ボール。同じようなバッグ。

 使われていない美容家電。マリアはそれらを片づけない。


 それどころか、次の物を欲しがった。

「ねぇ、これ買って」

「また?」

「え〜、速水くん冷たくなった?」

「そういう意味じゃなくて」

「じゃあ買ってくれる?」

 速水は黙る。

「あの日の写真、まだ消してないよ?」

 速水は目を逸らした。

「……分かった」


 マリアは満足そうに端末を閉じた。


ある日。

紺野部長へ、一通のデータが届いた。

動画、録音、裏アカウント、チャット履歴の全てがあった。

吉住に関する匿名投稿。

マリアが周囲へ流した噂。

そして、マリアが誰かへ送っていた相談。

【あいつ孤立させれば終わりじゃん笑】

【鬱っぽくなってきた】

【泣いたら勝ちなんだよ】


 昼休み後。

「マリアさん、ちょっと」

 紺野部長が言った。

 声は低かった。


 会議室には、紺野部長と人事の職員が座っていた。

 机の上には資料が並んでいる。


 マリアは椅子へ座る前に、それが自分のものだと分かった。

「……何これ」

「全部確認済みだ」


 動画も再生された。

 マリアは息を止めた。

 見覚えのある映像だった。

 

「一応フェイク動画チェックはしてある」

なにかを見透かしたように紺野は言った。

マリアは口を開きかけた。

「違います。これは」

「処分が決まるまで自宅謹慎」

「待ってください」

「待たない」

「私だけじゃないです」


 紺野部長は大きく息を吐き初めて、マリアをまっすぐ見た。

「そこが問題なんだよ」

 マリアは何も言えなかった。

 

 椅子を引く音だけが、静かな会議室へ妙に響く。

「失礼します」

 自分でも驚くほど、小さな声だった。

 扉を閉める。

 途端に、息が苦しくなる。

 フロアへ戻ると、空気が少し止まった。

 キーボードの音。

 誰かの咳払い。

 なのに皆、マリアを見ていた。

 すぐ目を逸らす。

 誰も話しかけない。

 マリアは早足で席へ向かった。


 その途中で、速水と目が合う。

 ただ少しだけ、困ったみたいな顔をし速水は目を逸らした。


 荷物をまとめる手が震える。

 バッグへ化粧ポーチを押し込み端末を入れる。

 その時、一人の男性社員が、皆に聞こえる声で言った。

 

「俺なら、この時代生きていけねーわ」

 誰かが鼻で笑った。

 マリアは何も言わず、唇を噛み会社を出た。


 帰宅した瞬間、マリアはバッグを床へ叩きつけた。

「クソがッ……!」


 玄関に転がっていた空き缶が蹴り飛ばされる。

 部屋の奥では、つけっぱなしだった間接照明が白く光っていた。


 マリアはそのままソファへ座り込み、乱暴に端末を開く。

「絶対あいつだ……」

速水のアカウントを開き写真を遡る。

マリアの指が、苛立ったように画面を滑っていく。

「絶対なんかあるでしょ……」

 

速水の投稿を遡る。


同期との写真。

取引先との写真。

部長との写真。


どの写真でも、同じように笑っていた。


「……ほんと、いい人ぶって」

 

 女。金。裏垢。違法視聴。店。愚痴。

 何でもよかった。

 指が止まらない。


 マリアは酒を飲みながら、速水の過去投稿をさらに遡る。

「ほら」

グラスをゆっくり回す。

 

 写真の端に、 知らない女のネイルが映っていた。

「やっぱり」

マリアは端末を見つめたまま、 ゆっくり笑った。

「人のこと裏切ったんだから、これくらい当然でしょ」


 その時、1件の通知が鳴った。

『文明局救済運営課 天国移住センター』

マリアの指が止まった。

『あなたに最適化された新しい人生をご案内します』

画面には、白い街が映っていた。

『もう、傷つかなくていい』

マリアはしばらくそんな画面を見ていた。

口元だけが少し動いた。


「……馬鹿ばっか」

白い街が、画面いっぱいに広がる。

マリアは指を止めなかった。

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