(3)天国創生主
「お願いします。僕を天国へ連れて行って下さい」
文明局救済運営課――通称《天国センター》。
その日、御厨凍矢と鏑木ミヤビは、別々の受付で同じ契約書に署名した。凍矢は離婚後、子どもと離れて暮らし、養育費を払いながら最低限の生活を続けていた。一方のミヤビは、仕事で上へ行けない現実と、自分の言葉を否定され続ける日々に疲れていた。
二人が最後に望んだのは、《天国》だった。
「二度と現世には戻れません。それでもよろしいですか?」
「はい。もう、生きていく意欲がありません」
契約が成立すれば、脳は本人だけの仮想世界へ接続される。残された肉体は臓器移植や再生医療、細胞培養などに利用され、財産や保険金、身体利用権、人格データに関する権利も施設へ移る。
職員は契約内容を読み上げるだけではなく、残された人体がどのように利用されるのか、解体工程を含めた参考映像まで二人に見せた。それでも凍矢とミヤビは署名を撤回しなかった。
「御厨凍矢様、ご契約ありがとうございました。そして、お疲れ様でした」
「鏑木ミヤビ様、ご契約ありがとうございました。そして、お疲れ様でした」
凍矢の端末には、最後まで《養育費 月八万円》の通知が残っていた。ミヤビの端末には《またフェミか》《現実見ろ》《ありがとう。救われました》と、互いに相反する反応が流れ続けている。
二人は、それぞれ端末を伏せた。
◇
天国センターが提供するものは単純だった。
現実で手に入らなかった人生を、脳の中で与える。愛されたい者には愛を、成功したい者には成功を与え、失った家族を取り戻したい者には家族を、世界から認められたい者には、その者を認める世界そのものを作り上げる。
制度開始当初こそ《人間牧場》《脳の家畜化》と激しく批判されたものの、二十年後には世界中から希望者が集まる巨大事業へ成長していた。
その《天国》を観測する部屋には、先生と呼ばれる男とモニカがいた。
二人の前には、これまで観察してきた世界とともに、『MYB―01 幸福指数 九三%』『TYA―01 幸福指数 九四%』という数値が並んでいる。
「本当に幸せなんでしょうか」
「脳はそう判断していますよ」
「でも、現実じゃありません」
「では、現実とは何でしょう」
「それは……」
モニカの言葉が止まったところで、先生は二つの世界を並べた。一方ではミヤビが母体を最優先する社会の中心に立ち、もう一方では凍矢が世界を救う存在として誰からも必要とされている。
「人は幸福を求めていると思いますか?」
「……違うんですか?」
「確かめてみましょう」
先生が端末を操作すると、二つの世界にわずかな変更が加えられた。
◇
ミヤビの世界から消されたのは、母体保護制度でも、出産時に支給される三億円でもなかった。教育制度や母体を優先する社会構造もそのまま残され、変更されたのは、ミヤビ本人を特別扱いする部分だけだった。
街から彼女の像がなくなり、学校教育から偉人としての扱いが消え、世界中から集まっていた称賛も途絶える。
ミヤビが日記を投稿すれば、《そういう考え方もありますね》《参考になりました》《あなたの経験は理解します。ただし、それが全ての人に当てはまるとは限りません》と、以前とは違う反応が返ってきた。
攻撃する者も、罵倒する者もいない。しかし、彼女を崇める者もいなかった。
「私は……ずっと戦ってきたのに」
ミヤビは端末を握ったまま、画面に並ぶ反応を何度も読み返す。
「どうして、誰も私を見ないの?」
その言葉とともに、『幸福指数 九三%』だった数値は八九%、さらに八五%まで低下した。
◇
「下がった……母体中心の社会は残っていますよね?」
「ええ」
「だったら、ミヤビさんが望んだ世界のはずです」
「そのはずですねぇ」
「何を変えたんですか?」
「彼女が特別ではなくなった。それだけです」
モニカは八五%まで落ちた幸福指数を見たあと、もう一方の世界へ視線を移した。
「凍矢さんも?」
「見てみましょう」
今度は凍矢の世界から、文明貢献値と世界を動かす権限が取り除かれた。
戦争も飢餓もなく、四人の妻と子どもも、これまでと変わらず凍矢を愛している。ただ一つ変わったのは、世界が彼を必要としなくなったことだった。
「今日の世界法会議は?」
「もう終わったよ」
「陰陽は?」
「使わなくても合意できたみたい」
「……そっか」
凍矢はその後も仕事を探し、問題を見つけては手を貸そうとしたが、返ってくるのは「大丈夫です。こちらで対応できます」「お気遣いありがとうございます」といった言葉ばかりだった。
拒絶されているわけでも、嫌われているわけでもない。凍矢が何もしなくても、世界は問題なく回っていた。
「俺は……ちゃんとやっただろ。真面目に働いた。逃げなかった。ちゃんと生きてきただろ」
誰もいない部屋で呟く凍矢の横で、九四%だった幸福指数が八九%、さらに八三%まで落ちていった。
◇
「先生、もう分かりました。この二人が欲しかったのは、幸福そのものじゃなかった」
「では?」
モニカは並んだ二つの世界を指しながら、ミヤビが欲しかったのは自分の考えが世界に認められることで、凍矢が欲しかったのは自分が必要な人間だと証明され続けることなのだと答えた。
先生はそれを否定せず、二つの世界へ視線を向けた。
「彼らは幸福だったというより、自分が正しかったと証明される世界を生きていたのでしょうね」
「それを先生が壊したんですか?」
「いいえ。壊したわけではありません」
先生が取り除いたのは、ミヤビを崇める称賛と、凍矢を世界に必要不可欠な存在にする権限だけだった。二人が望んだ社会も家族も残され、誰かに傷つけられるようになったわけでもない。
「現実を、一滴だけ混ぜたんです」
◇
それから数日が経ち、ミヤビが日記を書く回数は以前より明らかに減っていた。
世界はもう彼女を崇めていない。その代わり、以前なら見向きもしなかった日常が残っている。
「ママ、今日のご飯は?」
「そうだねぇ。野郎チャーハンだ!」
「また?」
「いいじゃん。美味しいんだから」
大皿に盛られたチャーハンを子どもが頬張り、「ママ、おいしい」と言うと、ミヤビの手が止まった。
「そう?」
「うん」
その日、ミヤビは日記を開かなかった。
一方、世界を救う必要がなくなった凍矢は、公園のベンチに座って子どもたちが遊ぶ姿を眺めていた。やがて転がってきたボールが足元で止まり、一人の子どもが駆け寄ってくる。
「あっ、ごめんなさい」
「はい」
凍矢がボールを拾って渡すと、子どもは「ありがとう、おじさん。また遊ぼうね」と言い残して仲間のもとへ戻った。
その背中が遠ざかってから、凍矢は小さく呟いた。
「……ありがとう」
◇
観測室では、二人の数値が大きく変化していた。
『御厨凍矢』
『幸福指数 六四%』
『人生満足度 九二%』
『現実受容 九八%』
『鏑木ミヤビ』
『幸福指数 七二%』
『人生満足度 八六%』
『現実受容 九八%』
「幸福指数は下がったのに……人生満足度は高い」
モニカが二人の結果を見比べる。
「不思議ですねぇ」
「先生は分かってるんでしょう?」
「幸福と満足は、同じものではない。それくらいですよ」
その直後、観測結果を押し退けるように警告表示が開いた。
『御厨凍矢 身体利用可能率 限界値接近』
『鏑木ミヤビ 身体利用可能率 限界値接近』
『脳維持コスト 利益率基準を下回ります』
『標準規約により、維持停止処理を推奨』
「……維持停止? どういう意味ですか?」
「天国の終わりですよ」
「終わり?」
「肉体から得られる利益がなくなり、財産移転も完了した。脳を維持する方が高くつくようになったのでしょう」
「でも、天国では生き続けられるって……」
「契約書には維持停止条件も書いてあります」
モニカは先生へ向き直り、声を強めた。
「人生に絶望してここへ来た人が、あんな契約書を全部読めるわけないでしょう! 詐欺じゃないですか!」
「そう思う人もいるでしょうね」
画面には『維持停止処理まで 三十秒』と表示され、数字が一秒ずつ減り始める。
「先生、止められますよね?」
「止められますよ」
「なら止めてください!」
「見届けましょう」
「なぜですか!」
「これが、彼らの現実だからです」
◇
ミヤビは、いつもと変わらず子どもと夕食を食べていた。
「明日は何食べたい?」
「カレー」
「また面倒なの選ぶなぁ」
「作って」
「はいはい」
もう一方の世界では、凍矢が公園のベンチに座り、子どもたちがボールを追いかける姿を眺めている。
「これで良かったのかもな……」
『維持停止処理 実行』
二つの脳波がゆっくりと細くなっていく。
ミヤビはもう誰にも崇められておらず、凍矢も世界から必要とされていない。それでも二人は、それぞれが見つけた何気ない日常の中にいた。
やがて波形が一本ずつ消え、二つの天国も同時に暗転した。
◇
「先生……これで、救われたんでしょうか」
「分かりません」
「分からない?」
「人の人生に、私が正解をつけることはできませんから」
二人の天国が消えた観測室では、既に別の世界が次々と起動していた。
空を飛ぶ者もいれば、勇者として世界を救う者もいる。失った家族との生活を取り戻す者、永遠に愛され続ける者、自分が正しかったことにする者――現実では叶わなかった無数の願いが、それぞれの《天国》として壁一面に広がっていく。
「人は、天国を求める」
先生は無数の世界を見渡しながら、隣に立つモニカへ続けた。
「けれど本当は、自分の痛みを分かってくれる誰かがいれば、それでよかったのかもしれませんね」
その言葉が終わる頃、新しいモニターが点灯した。そこには、また一人の人間が作り上げた天国が映し出されている。
「さて、次の被験体を見ましょうか」
この話、実は心理学を結構こっそり混ぜてます(笑)
承認欲求。「認められたい」「必要とされたい」って気持ち。
自己正当化。「自分の人生、間違ってなかったよな」って思いたくなる心理。
快楽順応。どんな幸せも、毎日続くとだんだん当たり前になっちゃう現象。
自己決定理論。人は「自分で選んだ」「誰かとつながってる」「自分にも価値がある」と感じられると、心が満たされやすいと言われています。
現実受容。幸せな気分でいることと、自分の人生を受け入れられることは、実は別物だったりします。
そんな心理学をつまみ食いしながら、「人って結局、何があれば幸せなんだろう?」を、この物語なりに考えてみました。




