1章 理想郷(3)天国創生主
「お願いします。僕を天国へ連れて行って下さい」
一人の男が、静かにそう呟いた。
擦り切れた襟。
黄ばんだシャツ。
色の抜けたジーンズ。
膝の上で組まれた両手だけが、微かに震えている。
受付の事務員は、端末から目を離して男を見た。
「二度と現世には戻って来られません。よろしいのですか」
「はい。もう、生きていく意欲がありません」
事務員は少しだけ眉を寄せた。
「なんとか考え直せませんか。打開策はあるかもしれないじゃないですか」
その目は、決して事務的ではなかった。
だが、男は小さく笑った。
「いえ……もういいんです。子どもも妻に奪われ、養育費も取られ、生きていく最低限の生活です。今後も楽しい未来が見えないのです」
男は淡々言った。
事務員は数秒沈黙したが口を開く。
「御厨さん。天国へ行くということは、当然ご存じだと思いますが、所謂“養分”になるという事です」
事務員は静かに説明を続けた。
「脳だけで仮想世界に接続し、生き続ける技術は完成しました。しかし肉体は、臓器移植、再生医療、細胞培養、ナノマシン燃料などへ利用されます。また、契約後は全財産権、保険金請求権、身体利用権、人格データ利用権が、当施設および提携法人へ移転します」
御厨は頷いた。
「知っています」
「規約ですので、参考映像をお見せします」
部屋の照明が少し暗くなる。
空間に映像が映し出された。
そこにあったのは、“死体”だった。
首から下を分解され、機械へ接続され、臓器は摘出され、皮膚を剥がれ、骨格だけになった物。
御厨は映像を見終わっても、顔色一つ変えなかった。
「えぇ……もう良いんです」
事務員は喉が少しだけ詰まった。
——————
御厨の隣では、一人の女性が座っていた。
年齢は三十代前半ほど。
顔立ちは整っていたが、目だけが死んでいた。
「えっと……私、天国に行きたいのですが、できますか」
別の女性事務員が淡々と答える。
「えぇ、可能です。契約書へサインを頂ければ、即日執行可能となります」
「鏑木様、最終的には、このような状態になりますが、よろしいでしょうか」
女性事務員が言うと、再び映像が浮かび上がる。
鏑木は一瞬だけ顔を歪めた。
だが、すぐに諦めたような顔へ戻った。
「えぇ。もういいんです。私には、今世は無理だったかなって」
小さく笑う。
「私は仕事で上には行けない。それが分かりましたから」
女性事務員は電子契約端末を差し出した。
「ご理解頂けたのであれば、こちらへサインを」
鏑木は迷わず名前を書き始める。
御厨も続けてサインを終える。
事務員らは、ほんの数秒だけ黙った。
そして、微笑む。
「では御厨凍矢様、ご契約ありがとうございました。そして、お疲れ様でした」
「では鏑木ミヤビ様、ご契約ありがとうございました。そして、お疲れ様でした」
『養育費 月八万円』
端末の通知が消える。
凍矢は画面を閉じた。
机の上には、子どもが折った折り紙だけが残っていた。
『またフェミか』
『現実見ろ』
『ありがとう。救われました』
通知が流れ続ける。
ミヤビは端末を伏せた。
文明局救済運営課。
世間は、その施設をただ「天国センター」と呼んでいた。
白い外壁。
柔らかな音楽。
待合室には、穏やかな笑顔の老人や子どもの映像が流れている。
『あなたは、もう十分頑張りました』
『これからは、幸福だけを感じて下さい』
『第二の人生を、ここから』
受付番号が静かに切り替わる。
御厨と鏑木は立ち上がった。
どちらも泣いてはいない。
怒ってもいない。
ただ、少し疲れているように見えた。
天国。
誰もがそう呼んでいた。
脳だけで生き続ける世界。
自分だけの家族。自分だけの恋人。自分だけの成功。自分だけの幸福。
現実では手に入らなかった人生が、そこにはあった。
代償は、肉体と人生のすべて。
契約後、身体は文明維持資源として再利用される。
臓器は移植され、細胞は培養され、人格データは学習へ利用される。
本人は、その続きを知らない。
脳だけが幸福を見続けるからだ。
制度開始当初、日本は世界中から批判された。
「人間牧場」
「脳の家畜化」
「尊厳の破壊」
だが二十年後、その声は消えた。
希望者が世界中で急増したからである。
施設が映すのは幸福だけだった。
『もう、傷つかなくていい』
『あなたに最適化された幸福を』
『人生に疲れた方へ』
処理室は映らない。
契約書には全て書かれている。
身体利用権。
財産権。
人格データ利用。
だが最後まで読む者は、ほとんどいない。
奥の通路から笑い声が聞こえた。
これから天国へ向かう人たちだった。
皆、穏やかな顔をしている。
事務員は、その背中を見送った。
本当に救済なのだろうか。
その答えは受付にはない。
もっと奥。
もっと白い部屋にいる者だけが知っていた。
——————
その奥には、一般職員の立ち入りを禁じられた観測室があった。
白い壁。白い床。白い照明。
部屋を埋め尽くす無数の映像が浮かんでいる。
そこには、それぞれの天国が映し出されていた。
笑う者。
恋をする者。
許される者。
復讐を遂げる者。
英雄として称えられる者。
誰かに愛され続ける者。
すべてが、一人だけの世界。
画面の隅では、幸福指数が静かに更新され続けている。
中央の大型映像には、二つの世界が並んでいた。
一つ。
少女たちが笑う街。
母親たちは尊敬され、一人の女性へ歓声を送っている。
世界中の視線は、その女性だけに向けられていた。
もう一つ。
摩天楼を見下ろす一人の男。
誰もが彼の判断を待ち、文明は静かに従っている。
その世界に、飢えも戦争もなかった。
画面の下で、二つの数値が静かに更新される。
『MYB―01 幸福指数 九三%』
『TYA―01 幸福指数 九四%』
白いモニターに囲まれた部屋。
一人の男が、小さく笑った。
「やはり、よく出来ていますねぇ」
文明局救済運営課特別監察官。
誰も役職では呼ばない。
皆、ただ――先生と呼んでいた。
隣でモニカが画面を見つめる。
「先生」
「はい」
「本当に……幸せなんでしょうか」
男は答えない。
ミヤビが笑っている。
凍矢も笑っている。
男はしばらく二つの世界を眺めてから、小さく口を開いた。
「脳は幸福だと判断していますよ」
「でも」
モニカは画面から目を離さない。
「現実じゃありません」
「現実とは、何でしょう」
モニカは言葉に詰まった。
男は静かに笑う。
「人は幸福を求めていると思いますか」
「……はい」
「違います」
モニカが先生を見る。
「人は、自分が正しかったと思える世界を求めるんです」
再び沈黙が流れる。
男は端末へ手を伸ばした。
モニカの表情が変わる。
「先生」
「何をするんですか」
「確認です」
「確認?」
男は画面を見つめたまま答えた。
「幸福は、本物か」
その指が、静かに端末へ触れた。
最初に変わったのは、ミヤビの世界だった。
街頭モニターから、ミヤビの名前が消える。
歓声はない。拍手もない。
誰も彼女を特別扱いしなかった。
母体中心文明も変わらない。
ただ一つ。
ミヤビだけが、世界の中心ではなくなった。
「……え」
演説が終わる。誰も拍手をしない。
端末を開く。
『そういう考え方もありますね』
『参考になりました』
『一つの意見として受け止めます』
ミヤビの指が止まる。
「違う……」
もう一度投稿する。
もっと強い言葉で。
もっと鋭い言葉で。
男を責める。
社会を責める。
過去を語る。
返ってきたのは、静かな文字だけだった。
『あなたの痛みは理解します』
『ですが、それは世界全体の痛みではありません』
ミヤビは画面を見つめる。
「私は……」
声が震えた。
「私は、ずっと戦ってきたのに」
誰も反論しない。誰も嘲笑しない。誰も怒らない。
ただ、静かに受け止めるだけだった。
「どうして……」
ミヤビは小さく首を振る。
「どうして、誰も私を見ないの」
画面の端で数値が変わる。
『幸福指数 九三%』
『八九%』
『八五%』
モニカが息をのんだ。
「先生……」
「下がっています」
男は黙って画面を見つめていた。
次に変わったのは、凍矢の世界だった。
貢献値が消える。文明評価もない。
共同体スコアもない。
世界は、突然曖昧になった。
「……待ってくれ」
凍矢は周囲を見回した。
誰も彼を否定しない。
だが、誰も彼を求めない。
「俺は……ちゃんとやっただろ」
返事はない。
「真面目に働いた」
「怒鳴らなかった」
「逃げなかった」
「ちゃんと、生きてきただろ」
静寂だけが返ってきた。
世界は、凍矢を中心には回らない。
「なんでだよ」
——————
「先生」
モニカが息をのむ。
『幸福指数 九四%』
『八九%』
『八三%』
「止めてください」
男は画面を見つめたままだった。
「まだです」
「壊れてしまいます」
「いいえ」
男は静かに首を振る。
「見えるようになっただけです」
モニカは先生を見る。
「これは実験なんですか」
「ええ」
「人間ですよ」
「もちろんです」
少しだけ沈黙が流れた。
男はモニカへ視線を向ける。
「モニカさん」
「はい」
「彼らは幸福だったと思いますか」
「……思います」
先生は小さく笑った。
「私は違うと思います」
画面にはミヤビ。
もう一方には凍矢。
二人とも、静かに苦しんでいる。
「幸福だったのではありません」
先生は画面を見つめたまま続ける。
「自分が正しかった世界を、生きていただけです」
モニカは何も言えなかった。
先生は静かに端末を閉じる。
「だから最後に」
「現実を、一滴だけ混ぜました」
数日後
幸福指数は下がり続けた。
ミヤビは何度も投稿した。
誰も敵にならない。
誰も味方にならない。
凍矢も何度も働き、何度も貢献しようとした。
誰も止めない。
誰も褒めない。
世界はただ、そこにあった。
ミヤビは、誰からも崇められない世界で泣いている。
凍矢は、正しさが報われない世界で膝をついている。
「本当の幸福は、自分が正しい世界に閉じこもることではない」
モニカは震える声で言った。
「そんなこと、今さら知って何になるんですか」
男は少しだけ微笑んだ。
「夢だけを見たまま終わるよりは、ずっと良かったと思いますよ」
「残酷ですよ」
モニカは映像から目を逸らし言った。
凍矢は大きな公園に一人で座っている。
子どもがボールを追いかけてくる。
「あっ、ごめんなさい」
凍矢はボールを拾う。
「はい」
「また遊ぼうね、おじさん」
凍矢はボールを見つめた。
「……ありがとう」
ミヤビの映像にはミヤビの子どもと部屋で二人っきりでいた。
「ママ、今日のご飯は」
「そうだねぇ。野郎チャーハンだ!」
大きな皿に大量のチャーハンが盛られている。
「さっ、出来た。よそって食べて」
「多いよ……」
「大丈夫、大丈夫。これくらい」
「ママ、おいしい」
その一言で、ミヤビは少し黙った。
「そう?」
「うん」
子どもは夢中で食べている。
ミヤビは、少しだけ笑った。
————————
その時、施設管理AIから通知が入った。
『御厨凍矢 身体利用可能率 限界値接近』
『鏑木ミヤビ 身体利用可能率 限界値接近』
『脳維持コスト 利益率基準を下回ります』
『標準規約により、維持停止処理を推奨』
モニカの顔色が変わった。
「維持停止……?」
男は他の映像を確認している。
施設は、永遠の天国を売っていた。
だが実際には、永遠など存在しない。
身体が資源として利用できなくなり、財産移転も終わり、脳を維持するコストが利益を上回れば、施設は静かに処理を終える。
本人は気づかない。
家族も知らない。
記録には、自然な神経活動停止とだけ残る。
「こんなの……詐欺じゃないですか」
モニカが呟いた。
「契約書には書いてあります」
「読めるわけないでしょう。あんな状態の人達が」
「ええ」
男は別の映像を手前へ引き寄せ、淡々と数値を入力していた。
モニカは、涙をこらえるように唇を噛んだ。
「先生は……良いことをしたつもりなんですか」
男は映像から天井へと目線を向けた。
そして、穏やかに言った。
「つもり、という言葉は便利ですね」
「答えてください」
男は、二つのモニターを見つめた。
「彼らは最後に、自分が本当に欲しかったものを知った」
モニカは黙った。
別の画面で、凍矢が震える声で言う。
「これで良かったのかもな……」
モニカは目を閉じた。
施設管理AIが、再び通知する。
『維持停止処理まで、三十秒』
男は端末へ手を置きデータを出した。
『御厨凍矢』
『幸福指数 64%』
『人生満足度 92%』
『現実受容 98%』
『鏑木ミヤビ』
『幸福指数 72%』
『人生満足度 86%』
『現実受容 98%』
「こんなところですよね」
男は呟いた。
モニカが叫ぶ。
「先生!」
男は、画面から目を逸らさなかった。
「見届けましょう」
「なぜ」
「これが、彼らの現実です」
白い部屋に、二つの脳波が映っていた。
乱れていた波形は、少しずつ静かになっていく。
ミヤビは、誰にも崇められない部屋で、チャーハンを食べ終わり窓の外を見ている。
凍矢は、誰にも評価されない世界で、公園で子どもたちがボールで遊んでいる姿を見ていた。
『維持停止処理 実行』
二つの波形が、ゆっくりと細くなった。
モニカは何も言えなかった。
男は、最後まで穏やかな顔をしていた。
「人は、天国を求める」
男は小さく呟く。
「けれど本当は」
男は静かに言った。
「自分の痛みを分かってくれる誰かがいれば、それでよかったのかもしれませんね」
白い部屋のモニターでは、また別の天国が起動していた。
飛んでいる者。
勇者になっている者。
愛されたい者。
正しかったことにしたい者。
救われたい者。
人類は、今日も天国へ向かう。
男は、静かに笑った。
「さて、次の被験体を見ましょうか」
モニカは、その横顔を見つめた。




