1章 理想郷 (2)神の平等世界
「……〒%#¥$♪くん。起きて——」
優しい声。
薄っすらと目を開けると、そこには聖母と見間違えるほど美しい女性がいる。
柔らかな金色の髪。
透き通るような肌。
慈愛に満ちた笑顔。
「凍矢くん、起きて!」
「……おはよう」
凍矢は眠気の残る身体を起こした。
白い天井。 静かな空調。 窓の外には、朝日に照らされた海上都市アマテラスが広がっている。
上空を火星移住船がゆっくり横切り、海上道路では無人輸送車が音もなく流れていた。
壁面モニターには今日の文明指数が並ぶ。
『世界紛争件数 0』
『飢餓発生率 0・001%』
『出生率 安定域』
『文明貢献値上位者 更新済』
「朝食できてるよ」
リビングから別の女性が声を掛ける。
「今日は和食にしてみたの」
「ありがとう」
「パパー!」
小さな足音が駆け寄ってきた。
「遊ぼ!」
「仕事なんだよ」
「五分だけ!」
凍矢は苦笑した。
「じゃあ五分だけな」
「やった!」
その様子を見ていた女性が微笑む。
「本当に凍矢くんには甘いんだから」
「あなたもでしょ」
キッチンから別の女性が笑う。
「昨日だって、肩揉んでって一番最初に甘えてたじゃない」
「それは仕事で疲れてたから」
「私は毎日疲れてるもん」
三人が笑い合う。
すると奥の部屋から、髪をまとめたもう一人の女性、秘書兼第四夫人が顔を出した。
「もう。みんな朝から凍矢くんを困らせないの」
「だって優しいんだもん」
「全部聞いてくれるし」
「お願いしたら断らないし」
三人は当然のように頷いた。
凍矢は頭を掻く。
「そんな大したことしてないって」
四人は顔を見合わせる。
「「「「また始まった」」」」
一斉に笑い声が重なった。
『個体R-八八一 恋愛適性停止』
『理由:共感性不足および依存傾向上昇』
映像の中で、一人の男が泣き崩れていた。
「嫌だ……もう改善した……」
「お願いだ……もう一回だけ……」
凍矢はパンをかじりながら眺める。
「再判定は?」
第四夫人がすぐ答えた。
「本来は半年後です」
「ふーん」
凍矢はコーヒーを一口飲む。
「本人、子どもいる?」
「はい。一人です」
「共同体への貢献は?」
「平均以上です」
凍矢は少しだけ考えた。
「じゃあ一か月後に前倒しで」
第四夫人は静かにうなづいた。
「承知しました」
壁面モニターの表示が静かに書き換わる。
『再判定予定 一か月後』
映像の男は何も知らない。
凍矢はもう興味を失ったようにパンへ手を伸ばいた。
「半年も待たせるほど悪いやつには見えないし」
「優しいのですね。私の旦那様は」
「僕は別に苦しめたくてやっているわけじゃないよ」
1人の妻が笑う。
「凍矢くんらしいですね」
「泣いてる人を見るの、あんまり好きじゃないんだ」
「今日は何をするんだっけ」
既にスーツへ着替え終えた女性が、淡々と予定を伝える。
「今日は八時から世界法会議です。その後、各地域代表との昼食会。午後からは火星移住区の出生率報告、夕方からAI倫理調整会議です」
「昼食は人が作ったやつ?」
「はい。文明貢献値九一以上の料理人を手配してあります」
「おー流石。ありがとう。いつも助かるよ」
「いえ。凍矢くんの秘書兼、妻ですから当然です」
そう言うと、女性は少しだけ目線を逸らした。
「なぁ、今日の会議長い?」
「現在予測では六時間三十二分です」
「えー長ぇなぁ……」
凍矢は露骨に嫌そうな顔をする。
凍矢は、それを見ながらパンをもう一口かじった。
「ねぇ凍矢くん」
秘書の女性が小さく言った。
「んー?」
「今日、火星移住区から出生率報告が届いています」
「あー、見る見る」
凍矢は報告書を流し読みしながら、少し眉をひそめた。
「出生率は戻ったけど、創造性が落ちてるな」
「はい。安定性を優先した結果、挑戦行動が減少しています」
「だよなぁ。人間、安定させすぎるとつまんなくなるんだよ」
妻達は苦笑した。
「まぁでもさ」
凍矢はぼんやり窓の外を見ながら言った。
「平和になりすぎると、人ってちょっとバカになるよな」
部屋の空気が少しだけ止まった。
「……なんか、人間っぽさ減ったよなぁ」
誰も答えなかった。
凍矢はパンを食べ終えると、何気なく窓の外へ目を向けた。
「そうだ」
ぽつりと呟く。
「今日の会議、やっぱり揉める?」
第四夫人が端末へ視線を落とした。
「現在予測では、東アジア連合と火星自治評議会が予算配分で対立します」
「また?」
凍矢はため息をつく。
「人類って放っておくとすぐ揉めるよな」
「陰陽を使用しますか?」
「うーん」
「まぁ、僕がやった方が早いか」
軽く指を鳴らした。
その瞬間。
壁面モニターの予測値だけが静かに変わった。
『合意確率 二八%』
『七四%』
妻たちは誰一人驚かない。
「ありがとうございます」
「今日も世界が救われましたね」
妻たちは自然に笑った。
凍矢は照れくさそうに笑う。
「大袈裟だって」
「でも本当です」
第四夫人が真面目な顔で言う。
「凍矢くんがいなければ、今頃また会議は決裂しています」
「そうかなぁ」
「そうです」
「凍矢くんは、自分を過小評価しすぎです」
凍矢は少し嬉しそうにコーヒーを飲んだ。
「まぁ……」
「僕がいなくなったら、結構困るとは思うけど」
四人は笑顔で頷く。
「もちろんです」
「世界中が困ります」
「そんなことないって」
そう言いながらも、
凍矢の口元は少し緩んでいた。
「でもまぁ……」
「期待されるのは嫌いじゃないかな」
「まぁ」
「誰かがやらなきゃいけないし」
凍矢は満足そうに窓の外を見る。
———————
『被験体TYA-01』
『文明貢献値 人類最高』
『軽度虚無感 発生』
壁一面の映像には、無数の人生が映し出されている。
白い部屋の中央で、一人の男が静かに笑った。
「面白いですねぇ」
男は、眠たげな顔でパンをかじる凍矢を見つめていた。
「ここまで文明を最適化しても、まだ虚無が残る」
隣に立つ女性が、少し眉をひそめる。
「先生……この人も、なんですか」
男は目を細めた。
「ええ」
「被験体TYA-01」
女性は画面を見る。
「凍矢さん、ですね」
「モニカさんは彼がお嫌いですか」
男は助手のモニカに尋ねる。
「……正直、少し気持ち悪いです」
男は何も言わない。
モニカは続けた。
「自分が世界を救ったと思っていて」
「周りもそれを信じていて」
「現実が思い通りにならなければ、陰陽で少し直せばいいと思っている」
「それで、みんな幸せだと思っている」
男は小さく笑った。
「人間らしいじゃないですか」
「人間らしい、ですか」
「ええ」
男は凍矢のデータを指先で拡大する。
膨大な数値が並ぶ。
その中央に、『救世主』というラベルが表示されていた。
「陰陽は存在します」
「ですが、面白いのはそこではありません」
モニカは男を見る。
「では、どこですか」
「人類は、自分が特別である理由を欲しがる」
男は穏やかに言った。
画面の中で、凍矢は妻たちに囲まれて笑っている。
「その方が、自分を嫌いにならずに済みますからねぇ」
モニカは少しだけ顔をしかめた。
「……幼稚ですね」
「ええ」
男は頷いた。
「とても」
モニカは意外そうに目を向ける。
男は画面から目を離さない。
「ですが、その幼稚さで世界は平和になった」
「努力しても報われない」
「善人でも愛されない」
「正しくても負ける」
「そういう現実に、人類は長く耐えられません」
モニカは黙っていた。
「だから彼の世界では、理由が与えられている」
「優秀だから愛される」
「特別だから必要とされる」
「力があるから世界を救える」
「実に分かりやすい」
「それは……綺麗なんですか」
男は少しだけ天井を見上げる。
「綺麗ですよ」
モニカは眉を寄せた。
「先生、本気ですか」
「ええ」
男は静かに笑った。
「人間は、自分を納得させる物語がなければ生きられません」
「凍矢さんは、それを少し大きく作りすぎただけです」
モニカはモニターの中の凍矢を見る。
「でも、この世界は成功しているように見えます」
「成功しています」
男は即答した。
「戦争は消え、飢餓もほとんどない」
「多くの人が笑っている」
「ですから、失敗ではありません」
「では、何が問題なんですか」
男は画面の中の凍矢を見つめた。
「幸福が、比較によってしか実感できないことです」
モニカは黙る。
「安全を求めながら、刺激を求める」
「平等を求めながら、特別扱いを求める」
「愛されたいのに、自由でいたい」
男は楽しそうに目を細めた。
「人は、矛盾しているんですよ」
モニカは小さく呟いた。
「……まるで、欠陥品みたいですね」
「いえいえ……」
静かな声だった。
「それが、人の美しさです」
モニカは息を呑む。
「完全な生物なら、とっくに文明なんて止めていますよ」
そして壁一面の映像を見渡し、小さく呟いた。
「実に愛おしいですねぇ」
男は少し微笑んだ。




