(1)完全幸福
観測室の壁一面に、朝日に照らされた海上都市アマテラスが映し出された。
海面から伸びる高層建築の間を火星移住船がゆっくりと横切り、その遥か下では無人輸送車が幾筋もの海上道路を音もなく流れている。街の上空に浮かぶ文明指数には、世界紛争件数ゼロ、飢餓発生率〇・〇〇一%、出生率安定域と、現在の社会状況が次々に表示されていた。
映像が高層住宅の一室へ切り替わる。
「……〒%#¥$♪くん。起きて――」
柔らかな金色の髪をした女性がベッドを覗き込み、もう一度「凍矢くん、起きて」と声をかけた。
御厨凍矢が目を開ける。
「……おはよう」
「朝食できてるよ」
リビングへ向かう途中で、幼い子どもが凍矢の足元へ駆け寄った。
「パパー! 遊ぼ!」
「仕事なんだよ」
「五分だけ!」
「じゃあ五分だけな」
「やった!」
そのやり取りを見ていた金髪の女性が「本当に凍矢くんには甘いんだから」と笑うと、別の女性がテーブルへ朝食を運びながら口を挟んだ。
「あなたもでしょ。昨日だって肩揉んでって甘えてたじゃない」
「それは仕事で疲れてたから」
「私は毎日疲れてるもん」
さらに奥の部屋から、髪をまとめた女性が顔を出す。
「みんな朝から凍矢くんを困らせないの」
「だって優しいんだもん」
「全部聞いてくれるし」
「お願いしたら断らないし」
「そんな大したことしてないって」
凍矢が手を振ると、四人の女性が一斉に笑った。
◇
観測室で映像を見ていたモニカが、そこで再生を止めた。
「……今、女性が四人いましたよね?」
「いましたねぇ」
「全員、奥さんですか?」
「確認してみましょう」
先生が制度情報を呼び出すと、《複数婚姻制度》の文字とともに、この世界では文明への貢献値によって婚姻可能人数が変動することが表示された。
『御厨凍矢 婚姻上限――十二名』
「十二人!?」
モニカが数字を指差す。
「文明に貢献すると、結婚できる人数まで増えるんですか?」
「そういう制度のようですね。凍矢さんは現在四名と婚姻関係にあります」
「しかも全員美人……」
「そこは制度とは関係ないでしょう」
「分かりやすい人ですね」
「ええ。非常に」
先生が映像を再生する。
凍矢が家族と朝食を取っていると、壁面モニターに一人の男が映し出された。
『個体R―八八一 恋愛適性停止』
『理由――共感性不足および依存傾向上昇』
「嫌だ……もう改善した。お願いだ……もう一回だけ……」
男は画面の向こうで何度も頭を下げていた。
凍矢はパンをかじりながら資料を開き、男に子どもが一人いることや、共同体への貢献値が平均以上であることを確認すると、再判定までの期間を六か月から一か月へ変更した。
「半年も待たせるほど悪いやつには見えないし」
「優しいのですね。私の旦那様は」
「僕は別に苦しめたくてやってるわけじゃないよ。泣いてる人を見るの、あんまり好きじゃないんだ」
女性が微笑み、変更された再判定日が画面から消えていった。
◇
「恋愛するのにも資格が必要なんですか?」
モニカが停止した映像の横へ制度概要を並べる。
「共感性、依存傾向、暴力性など、複数の項目を社会が審査しているようですね。基準を下回れば恋愛適性が停止される」
「それを凍矢さんの一言で半年から一か月に変更できる?」
「少なくとも今の映像では、そうなりました」
「自分たちで半年にしておいて、短くしたら『優しい人』って褒められるんですね」
「そこは確かに面白いですねぇ」
モニカが先生へ顔を向ける。
「面白いですか?」
「ええ」
「私、この世界も嫌な予感しかしません」
「まだ朝食ですよ」
「もう結構濃いですよ」
再び映像が動き出す。
食事を終えた凍矢の予定には、午前八時から世界法会議、その後に各地域代表との昼食会、午後には火星移住区の出生率報告、夕方にはAI倫理調整会議まで組まれていた。
「今日の会議、長い?」
「現在予測では六時間三十二分です」
「えー、長ぇなぁ……」
凍矢は椅子へ深く座り、火星移住区から届いた報告書を開いた。
犯罪率、失業率、出生率、精神安定度はいずれも良好だったが、創造性に関する数値だけは前年から低下している。安定性を優先する政策が長期間続いたことで、危険を伴う挑戦的行動が減少したという分析結果も添えられていた。
「やっぱりなぁ。人間、安定させすぎるとつまんなくなるんだよ」
凍矢は報告書を何枚か送り、創造性の推移を示したグラフで手を止める。
「平和になりすぎると、人ってちょっとバカになるよな……なんか、人間っぽさ減ったっていうか」
女性たちから返事はなかった。
代わりに観測画面の端へ、新しい文字が浮かぶ。
『軽度虚無感 検出』
◇
「虚無感?」
モニカが表示を拡大した。
「奥さんが四人いて、子どももいて、世界中から必要とされてる人ですよね?」
「ええ」
「それで虚無感が出るんですか?」
「凍矢さん自身が、安定しすぎるとつまらないと言っていましたからねぇ」
「でも、その安定した世界を作ってる側でしょう?」
「もう少し見てみましょう」
次の映像では、世界法会議を前にした凍矢がコーヒーを飲みながら資料を眺めていた。
東アジア連合と火星自治評議会が予算配分を巡って対立しており、事前予測では合意確率二八%。決裂した場合には複数の移住計画へ影響が及ぶという警告まで表示されている。
「陰陽を使用しますか?」
「また? 人類って放っておくと、すぐ揉めるよな」
凍矢はカップを置き、指を鳴らした。
『合意確率 二八%』
表示が揺らぎ、瞬く間に数字が書き換わる。
『合意確率 七四%』
「ありがとうございます」
「今日も世界が救われましたね」
「大袈裟だって」
凍矢は笑いながら手を振った。
「でも本当です。凍矢くんがいなければ、会議は決裂していました」
「そうかなぁ」
「凍矢くんは自分を過小評価しすぎです」
「まぁ……僕がいなくなったら、結構困るとは思うけど」
「もちろんです。世界中が困ります」
「そんなことないって」
否定しながらも凍矢の口元には笑みが残り、四人の女性に囲まれたまま「でも、期待されるのは嫌いじゃないかな」と付け加えた。
◇
先生が凍矢の個体情報を開いた。
『御厨凍矢』
『文明貢献値 人類最高』
『世界法特別決定権 保有』
『陰陽適合率 一〇〇%』
「……本当に世界最高なんですね」
「そのようですね」
「美人の奥さんが四人。世界最高の権力者。指を鳴らせば国家間の問題まで解決できて、みんなから必要とされてる」
モニカが凍矢の情報を上から下まで指で追う。
「盛りすぎじゃないですか?」
「誰にです?」
「凍矢さんにですよ」
「天国ですからねぇ」
「便利な言葉ですね、それ」
先生は笑いながら、凍矢の一日を早送りした。
世界法会議では決断を求められ、昼食会では各地域の代表者が意見を聞きに集まり、火星移住区からも問題解決を求める連絡が入る。凍矢が判断を下すたびに予測値は改善し、感謝の言葉と文明貢献値が積み上がっていった。
夕方になり、凍矢が窓際でアマテラスを眺める。
「凍矢くん、そろそろ次の会議です」
「あー……行くか」
「今日もお願いしますね」
「はいはい」
立ち上がった凍矢の横へ観測結果が表示された。
『被験体TYA―01』
『文明貢献値 人類最高』
『幸福指数 九四%』
『軽度虚無感 発生』
◇
「九四%……」
モニカが先ほどのミヤビの観測結果を隣へ並べた。
一方には、自らの思想が世界の常識となり、巨大な像まで建てられたミヤビ。もう一方には、人類最高の文明貢献値を持ち、世界中から判断を求められている凍矢が映っている。
「先生、この二人って似てません?」
「どこがです?」
「ミヤビさんは、自分の考えを世界中から認めてもらってる。凍矢さんは、自分自身を世界中から必要とされてる」
先生は二つの映像を見比べた。
「なるほど」
「どっちも、自分に都合が良すぎるんですよ」
「天国ですからねぇ」
「またそれ!」
モニカは先生を指差したあと、凍矢の映像へ向き直った。
「しかもこの人、『大したことない』って何度も言うのに、褒められると嬉しそうじゃないですか」
「笑っていましたね」
「本当に世界から必要とされなくなったら、どうするんでしょう」
「どうすると思います?」
「私に聞くんですか?」
「モニカさんが言い出したので」
モニカは口を閉じ、もう一度映像を見た。
世界中から届く要請を処理する凍矢の姿が、いくつもの画面に映っている。
「……世界を平和にしたいんじゃなくて、世界を平和にできる自分でいたい、とか?」
「なるほど」
「先生、絶対最初から分かってたでしょ」
「何のことでしょうねぇ」
「そうやってすぐ逃げる」
モニカが頬を膨らませると、先生は凍矢の観測結果を閉じずに、背後へ並ぶ無数の《天国》へ視線を移した。
「先生は、この世界も美しいと思います?」
「もちろん」
「四人の奥さんも、世界最高の権力も、特殊能力も?」
「全部込みですよ」
「幼稚ですね」
「ええ。とても」
モニカが先生へ顔を向ける。
「そこは否定しないんですね」
「幼稚な願いが、醜いとは限りませんから」
先生は凍矢の映像を指した。
「自分を必要としてほしい。褒めてほしい。愛してほしい。できれば特別な人間でありたい。実に分かりやすいでしょう?」
「言い方が酷いですよ」
「違いますか?」
「……否定はしませんけど」
先生は薄く笑った。
「だから愛おしいんですよ」
「愛おしい?」
「ええ。矛盾だらけで」
モニカは数秒間その顔を見たあと、何も言わず凍矢の映像へ向き直った。
画面の中では今日も世界中から助けを求められた凍矢が、次々と問題を解決している。その横では《幸福指数九四%》という高い数値を維持したまま、《軽度虚無感》の表示だけが消えずに残っていた。
設定資料 中枢化ユニット イメージ画像付き
https://x.com/i/status/2074114616905609475
この話は、フェミニズムや快楽順応など、実際の心理学・社会学の考え方をヒントにしている。
快楽順応とは、どれだけ恵まれた環境にいても、その幸せに慣れてしまい、やがてそれが当たり前になってしまうという心理現象のこと。
「誰もが幸せな世界」を突き詰めた先に、本当に理想郷はあるのか。
そんな問いを、一つの物語として描いてみた。




