1章 理想郷 (1)完全幸福
「今回の対象は、この方ですか」
「はい、先生」
男はモニターを見つめた。
「これはまた……」
口元が静かに緩む——
「実に、美しい世界ですねぇ」
——————
画面には白い街が映っていた。
街頭モニターが切り替わる。
『母体精神安定率 九八・二%』
『旧時代的暴力発言検知数 十二件』
『教育矯正完了率 一〇〇%』
教師に連れられた子どもたちが、その前を歩いていく。
「先生」
一人の少女が足を止めた。
「生理痛って、本当に甘えって言われてたの?」
教師は少しだけ目を伏せる。
「そういう時代があったの」
「痛いのに?」
「ええ」
教師は静かに頷いた。
「妊娠も、出産も、育児も。女性が我慢するものだと考えられていた時代よ」
少女は街頭モニターを見上げる。
「ひどいね」
「だから今は教育矯正があるの」
教師はそう言って歩き出した。
ミヤビは、その様子をぼんやり眺めながら欠伸をした。
「ミヤビ様。一通、メッセージが届いています」
部屋の隅で待機していたアンドロイドが告げる。
ミヤビは目を閉じたまま、小さく返事をした。
「うん。読んで」
「パートナー様より、ご連絡です。本日の朝食は用意しております。お子様を幼稚園へ送ったあと出勤し、十八時頃に帰宅予定です……以上です」
ミヤビは小さく息を吐いた。
「ありがとう。でも今日は生理で気分が乗らないから、午前中で切り上げてって返して」
「かしこまりました」
「パートナー様より返信です。"もちろんです。すぐ調整します。無理だけはしないでください"とのことです」
「うん」
ミヤビは再びベッドへ身体を沈めた。
――午後十二時三十分。
玄関のロックが解除される。
「ミヤビさん、大丈夫?」
凍矢が少し息を切らして部屋へ入ってきた。
上着を片手に抱えたまま、真っ直ぐベッドへ向かう。
「うん。そっちこそ会社、大丈夫だった?」
「大丈夫。商談中だったけど事情を話したら、『早く帰ってあげて』って」
「そっか」
ミヤビは少しだけ笑った。
「じゃあ腰、お願い」
「もちろん」
凍矢はベッドの脇へ腰を下ろす。
そっと両手を添えた。
壁面モニターが静かに点灯する。
『パートナー対応評価 九六点』
『帰宅判断 適切』
『母体保護行動 優良』
凍矢は表示を見て、小さく笑った。
「お客様には悪いことしちゃったね」
「何言ってるの」
凍矢は即座に首を振る。
「子どもを産んだ人が最優先でしょ」
「国から三億円も支給されたんだから、もう働かなくてもいいんだよ」
「もちろんミヤビさんがやめろって望むなら、小生は明日にでも会社へ辞表を出すよ」
「え〜、当方のせい?」
ミヤビは少し笑った。
「いやいや、実は小生も前からそう思ってた。でも毎日いたら鬱陶しいかなって。大丈夫ならすぐに会社はやめるよ」
「そっか。じゃあ、やめちゃおうか。鬱陶しい時はちゃんと言うから、その時はしばらく外にいてくれれば問題ないと思うから」
ミヤビは笑顔になった。
街頭スクリーンでは歴史教材が流れていた。
『男性社会期』
教師が足を止める。
「ここはテストに出ます」
子どもたちが一斉に端末を開いた。
「先生」
一人の男の子が手を挙げる。
「どうして昔の人は、女の人を怖がらせたんですか」
教師は少しだけ考えた。
「怖がらせようとした人もいたでしょう。でも、そうじゃない人もいたわ」
「じゃあ、どうして?」
「昔の人は、それが普通だと思っていたの」
子どもたちは黙って聞いている。
「だから私たちは歴史を学ぶの」
教師はそう言って歩き出した。
「同じことを繰り返さないために」
「来年も更新してもらえるよう頑張るね、ミヤビさん」
「うん」
ミヤビは笑う。
「凍矢さんで五人目だからね」
「今のところ問題なし」
凍矢は何度も頷いた。
「昨日の日記の結果を教えて」
ミヤビが声を掛ける。
アンドロイドが静かに近づいた。
「かしこまりました。どの項目ですか」
「数字だけ」
「昨日の閲覧数は十億件です」
「そっか……」
ミヤビは少しだけ眉を寄せる。
「思ったほど伸びなかったね」
凍矢は悔しそうに唇を噛み、ミヤビへ言った。
「みんなどれだけミヤビさんが苦労されているか、まるで分かっていない。日記の内容も世界のために慈愛に満ちた御言葉だという事が、全くもって理解されていない。今日、文部省に連絡して、世界のリテラシーがどうなっているのか抗議する」
ミヤビは少しため息をついた。
「抗議は止めないけど、やりすぎないようにね。凍矢さん、私の事になると熱くなっちゃうから。みんなも忙しかっただけだと思うし、まだ書いてから八時間しかたってないからさ」
凍矢は納得していない顔をしている。
「全く分かっていないよ。子を産み育てることのできる唯一無二の存在を。今、西暦何年だと思っているんだよ」
ミヤビは苦笑しながら、話題を変えた。
「それより凍矢さん。幼稚園のお迎え」
「あっ」
凍矢は目を見開いた。
「ありがとう。子どもを迎えに行く時間まで教えてくれて。ミヤビさんが言ってくれなかったら忘れていたよ」
「じゃあ後でね」
凍矢は慌てて家を飛び出していく。玄関が閉まり、
部屋に静寂が戻った。
「ミヤビ様」
アンドロイドが告げる。
「現在の幸福指数は九三%です」
「そっか」
ミヤビは天井を見つめた。
しばらく黙る。
「……ねぇ」
「はい」
「たまに思うんだ」
ミヤビは小さく笑った。
「この世界って、完璧すぎて気持ち悪くない?」
アンドロイドは一秒だけ沈黙した。
「その質問の意図が理解できません」
ミヤビは答えなかった。
外では母体保護ドローンが変わらず巡回している。
街頭モニターが切り替わる。
『母体精神安定率 九八・二%』
『文明維持指数 良好』
『ミヤビ様関連投稿 拡散中』
白い街の中央広場。
少女が像を見上げた。
「先生」
「なんでしょう」
「どうして、この人は世界を平和にできたの?」
教師は像を見上げる。
しばらく黙ってから、小さく笑った。
「一つの質問を、諦めなかったからよ」
「質問?」
「ええ」
教師は像の台座へ目を落とす。
『子を産む者を軽んじる文明は、必ず滅びる』
少女も、その言葉を読んだ。
「難しい……」
教師は頷く。
「大人になったら分かるわ」
少女はもう一度像を見上げた。
その時だった。
『被験体 MYB―01』
『幸福指数 九三%』
『軽度違和感 発生』
空間に浮かぶ壁一面の映像。
その中央には、ミヤビの部屋が映し出されている。
男は静かに画面を見つめていた。
その時、画面の右下に新しい表示が浮かんだ。
『被験体 MYB―01』
『幸福指数 九三%』
『軽度違和感 発生』
「先生……今のは」
女性が小さく尋ねる。
男は目を細めた。
「ええ」
「出ましたね」
「何がですか」
「違和感です」
女性は画面へ目を向ける。
「九三%しかありません」
『軽度違和感 発生』
「たった七%ですよ」
男は首を横に振った。
「違います」
「そこではありません」
しばらく沈黙が流れる。
男は静かに笑った。
「完璧な幸福を与えても」
「人は、自ら穴を探す」
助手は言葉を失う。
男は画面から目を離さなかった。
「実に興味深い」
「やはり幸福とは、完成形ではないのかもしれませんね」
画面の中では、ミヤビが静かに眠っている。
男はその姿を見つめたまま、小さく呟いた。
「さて」
「あなたは、どこまで辿り着けますか」




