17章 生命を穿つ (3) 仮面は水に溶ける
【天国センター 執務室】
「栗山監察官」
「明日は西多摩地区の現地監察です」
「私も同行します」
「明日は新規中枢化が数件入っています」
「ライラさんも不在です」
「センターが回りません」
「本部案件です」
「神代次局長から承認を得ています」
「……そうですか」
(これで終日監視できる)
(明日、頽廃の御子へ辿り着こうとしても無理)
(これで神代次局長の布陣は完成)
(明日……)
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【旧東京大学 本郷キャンパス 第三ゲート】
朝日に照らされた赤レンガの校舎が、静かに佇んでいる。
共同研究発表会の案内板が第三ゲート脇に並び、関係者が次々と入館していた。
モニカは公用モビリティポッドから降りた。
「おはようございます」
背後から、聞き覚えのある声がした。
咄嗟に振り向く。
そこには、白嶺が立っていた。
黒いペイズリー柄のバンダナはしていない。
頬だけが、少し腫れている。
「先生!?」
モニカは驚き、その場から動けなかった。
「関係者用の一時パスは持っていますね」
「あっ、あの……はいっ」
慌ててバッグから入場許可プレートを取り出す。
「どういうことですか……」
モニカはプレートを渡しながら、小さな声で尋ねた。
「今、センターにいるのは、ノアールさんの作品です」
「まさか……」
白嶺は髪をかき上げた。
耳には、小さな《骨導ナノレシーバー》が装着されている。
「執務室の音声を聞きながら、私が指示を出しています」
「指示……?」
「例えば――」
白嶺は耳へ軽く触れた。
「メイリンさんに、NLV-5045の照会をお願いしてください」
耳元から小さな電子音が聞こえる。
『NLV-5045の被験体データを照会します』
白嶺はわずかに頷いた。
「このように、執務室の会話を聞きながら、擬態へ仕事の指示を送っています」
モニカは思わず息を呑む。
「じゃあ……先生が仕事をしているんですか?」
「半分だけです」
白嶺は静かに首を横へ振った。
「受け答えや判断は、擬態自身に任せています」
「想定外の質問が続けば、必ず綻びます」
「だから長くは持ちません」
モニカは白嶺を見つめた。
「急ぎましょう」
「……はい」
そう言うと、白嶺は校舎へ足早に向かった。
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
モニカは白嶺の後を追った。
「先生……どこまで読んでいたんですか」
「読んだというより、準備です」
歩きながら白嶺は続ける。
「二か月前から反対運動へ人員を潜り込ませました」
「チェロさんに頼んで?」
「はい」
「暴漢も?」
「ええ」
「メイリンさんを襲うと見せかけて、私を殴らせました」
モニカは足を止めそうになる。
「えっ……あれも?」
「顔を隠す理由が必要でした」
「だからバンダナを……」
白嶺は頷く。
「擬態は二日前から交代しています」
「昨日一日で仕事を覚えさせました」
「じゃあ、あの暴漢は……」
「今頃、国外です」
二人はパスを使い、校舎に入った。
「場所はわかるのですか」
「ええ。大昔に東京大学を改築した際の建設データが、役所に残っていましたので」
「なるほど……」
「モニカさん、高いところは大丈夫ですか」
「ええ、それは問題ありませんが」
「では、大丈夫です」
「というと?」
「エレベーターの点検梯子で地下三十二階まで降ります」
「ええー」
「これが安全帯です」
「こんな紐で大丈夫なんですか」
「モニカさんの体重が百五十キロでなければ」
「そんなにあるわけないでしょ!」
白嶺は少し微笑む。
「では大丈夫です」
「行きましょう」
白嶺は旧東京大学の非常階段の扉を開けた。
さらに、エレベーター点検口の扉へ、事前に用意した古い鍵を差し込む。
ガチャ。
長年開けられていなかった金属音が、静かな校舎へ響いた。
扉を押すと、冷えた空気がゆっくり吹き上がってくる。
地下の匂いだった。
「先生、その鍵は?」
「これですか」
「事前に失敬させてもらいました」
「なっ!?」
「盗んだんですか?」
モニカの声がこだまする。
「シーッ」
「いえ、借りました。後で返します」
白嶺はにこりと微笑んだ。
「そういう問題じゃないですよ!」
「絶対怒られますよ!」
そこは、奈落の底のようなコンクリートに囲まれた空洞だった。
非常灯だけが一定間隔で点灯している。
光は途中で闇へ飲まれ、地下三十二階など到底見えない。
白嶺はモニカと安全帯を繋ぎ、落下した際に自分へ引っ掛かるよう固定した。
「急ぎましょう」
「……わかりました」
モニカは身震いをする。
二人は慎重に梯子を降りていく。
「なんか……怖いですね」
モニカは両手で梯子を強く握った。
安全帯がわずかに軋む。
下を覗く勇気はない。
「そうですか」
「先生……」
「はい」
モニカは一段降りるたび、スカートの裾を片手で押さえた。
もう片方の手だけで身体を支える。
「絶対、下を見ないでください」
「下?」
そう言うと、白嶺は上にいるモニカを見る。
「だから見るなー!」
「ああ」
「モニカさんの下ですか」
白嶺はそのまま視線を外した。
「はぁ」
白嶺はまったく興味を示さぬまま、梯子を降りていく。
「先生……」
「はい」
「ノアールさん、すごかったですね」
「ええ」
「私、本物だと思いました」
白嶺は少し笑う。
「彼女は世界でも五本の指に入る特殊造形師です」
「そんなに……」
その時、白嶺の骨導ナノレシーバーから通信が入る。
『クリ?』
「ノアールさんですか?」
『バレちったみたいよぉ〜あは♪』
『栗山か!』
「ヴィクターさん……」
『もう時間の問題だ』
『まだ接触してないなら急げ』
「わかりました」
『んだよ! あいつ! 私の擬態は完璧だったのによぉ〜! マジ使えね! 殺すっ!』
白嶺は骨導ナノレシーバーを軽く叩き、周波数を擬態側へ合わせた。
【文明局 天国センター 執務室】
「あなた……」
メイリンは一歩下がる。
「栗山監察官」
返事が返る。
「どうしました?」
違う。
目ではない。
声でもない。
仕草でもない。
何かが違う。
数秒。
メイリンの背筋を、冷たいものが走った。
「あなた……誰?」
メイリンは白嶺と思われる人間から離れる。
「いやだなぁメイリンさん。僕は僕ですよ」
「違うっ……」
メイリンは叫んだ。
「メディカルBANREI」
メディカルBANREIが浮かび上がり、メイリンのそばに漂う。
「この……男の網膜を調べて」
白嶺はうつむき、そっと呟いた。
「そいつは無理だなあ……」
「!?」
「女性?」
メイリンは一瞬止まる。
その女は、緊急手動消火スイッチへ走り、緊急ボタンを押した。
白い煙幕が吹き出す。
さらに、自作の小型火炎放射器を天井へ向けた。
ゴォォォォォォ!
炎は天井へ向かって勢いよく噴き上がった。
「キャッ……」
メイリンは後ろに倒れ込む。
スプリンクラーが作動し、水が勢いよく吹き出した。
「緊急事態になった! 別料金だね、ラッキー♪」
女は自動ドアへ向かって走る。
「させない!」
メイリンはロックボタンを押し、自動ドアの開閉を止めようとした。
「!?」
自動ドアどころか、全てのドアが開く。
「バカだねぇ! 火事の時にドアが閉まるわけないじゃん」
「あはっ♪」
そう言い残すと、白嶺に扮していた女は走って逃げていった。
メイリンは立ち上がり、端末から誤作動処理を行い、スプリンクラーを停止させた。
水に濡れ、映像がついたり消えたりする。
その中から、生きている端末を探し、通信を開いた。
「今の時間は無理か……」
神代の予定を開く。
お偉いさんとの前日ミーティングの時間であると表示されていた。
「違う……!」
「六月六日じゃない!」
「今日だ!」
「くそっ!!」
《ドンッ》
メイリンは机を蹴飛ばした。
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「……バレましたね」
白嶺は梯子を降りながら呟いた。
「バレた?」
「ええ、わりと派手に」
「先生、『派手』って何したんですか……」
「火事です」
「えっ?」
「たぶん」
白嶺は一瞬だけ上へ視線を向けた。
「急がなくてはなりません」
「ええ? は、はい! わかりました」
白嶺とモニカは最深部へ向かった。




