16章 ヤエルの天幕 (3) 星屑の夜
【次局長室】
「寝不足!?」
神代は少し笑いながら言った。
メイリンはメディカルBANREIのデータを空間に並べた。
「睡眠時間……二十分ねぇ」
神代はデータを眺め、全体をくまなく見渡した。
「栗山くんは、それについてなんと……」
「……」
メイリンは答えない。
神代は首を傾げた。
「どうしました?」
「いえっ……その」
「なにか問題でも?」
「キリン……と同じですね……と」
「え?」
一瞬、部屋が静まり返った。
「……っ」
「わははははは」
神代は思わず吹き出し笑った。
「いえ、すいません。栗山くんらしい」
神代は笑いを堪えるように口元を押さえた。
「いや、失礼した」
「その他、変わった行動はありませんでしたか」
メイリンは答えようとして、言葉を止めた。
「いえ……特に」
神代の笑みが、すっと消えた。
神代の視線が、メイリンの目から一度も逸れない。
「なにも?」
「はい……」
「そうですか」
神代は笑顔に戻し、メイリンに言った。
「では、引き続き任務を果たすため、対応してください」
「はい」
メイリンは神代へ会釈をし、次局長室を出た。
自動ドアが閉まる音が、妙に大きく聞こえた。
足早に次局長室を離れながら、メイリンは小さく呟く。
「……なぜ、黙った」
【都内某所 会員制料亭】
薄い金色の照明が、漆塗りの卓を静かに照らしていた。
窓の向こうには、夜の東京が広がっている。
神代は上座から少し外れた席に座り、箸を置いた。
「第三中枢化施設の発表は、予定通りの日程でよろしいですね」
そう言ったのは、文明局長・桐村乃愛だった。
年齢よりも若く見える整った顔立ち。
だが、その言葉には温度がない。
「局内調整は済んでいます」
神代は静かに答えた。
「それは助かります。予算が増えれば、文明局の発言力も上がりますから」
桐村は上品に笑った。
「北海道側も問題ない」
共和未来党幹事長、榊原恒一が盃を傾ける。
「世界で最も信頼できる中枢化施設。いい響きだ。国民はこういう夢を求めている」
「夢……ですか」
「おう。選挙にも効く」
榊原は悪びれずに言った。
「——命を救う話は、票になるからな」
神代は盃の水面を見つめた。
鬼頭重信が、静かに口を開く。
国家予算局の老獪な男だった。
「問題は初期費用だ。海外富裕層からの拠出金は確実なのかね」
「既に目標額の八割は確保しています」
「なら、予算の道筋はこちらで作る」
鬼頭は満足そうに頷いた。
「海外から資金が流れ込むなら、日本の財政にも大きな利益になる」
「ありがとうございます。鬼頭先生のお力があってこその計画です」
神代は深く頭を下げた。
鬼頭は満足そうに盃を口へ運ぶ。
「安いものだ。途上国の身体提供者には、補償を厚く見せればいい」
箸を持つ神代の指が、わずかに止まった。
「身体提供者ではありませんよ……」
三人の視線が集まる。
「子どもです」
桐村は一瞬だけ目を伏せた。
榊原は肩をすくめる。
鬼頭は何も悪びれず、茶を飲んだ。
「施設が完成すれば、救える人数は桁違いになります」
神代は穏やかな笑みを浮かべた。
「そのためにも、榊原先生のお力添えが必要です」
榊原は満足そうに口元を緩めた。
「世界中の富裕層が日本へ集まる。医療も経済も世界一だ。これは歴史に残る事業ですよ」
「その歴史を共に築けることを、心強く思っております」
神代は自然な笑みを崩さない。
桐村も穏やかに頷いた。
「文明局としても全面的に協力します。ただ、発表だけは成功させてください」
「もちろんです。ありがとうございます、桐村局長」
神代は静かに頭を下げた。
「神代くん。君は実に話が分かる」
「身に余るお言葉です」
神代はグラスを持ち上げた。
「本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
三人もグラスを上げる。
「日本の未来に」
「「「日本の未来に」」」
グラスが静かに触れ合った。
神代は最後まで穏やかな笑みを崩さなかった。
誰一人、その笑顔を疑う者はいなかった。
【ライラ・モニカ・サントス邸】
『ボワン、ボワン、ボワン』
白嶺は家庭用端末から十個ほどの映像を空間へ浮かび上がらせた。
仕事場で見慣れた光景だった。
ただ、ここはモニカの家だ。
私生活の空間にまで仕事を持ち込む白嶺を見て、モニカは小さく眉を寄せた。
浮かび上がった映像の一つには、
(北海道 第三中枢化施設 建設反対!!)
と書かれたスローガンが映し出されている。
その隣に表示されていた映像を、白嶺は手前へ引き寄せた。
「マジ! ここに建てたら爆破してやるからな!」
「桐村! 出てこい!」
「違法だ! これ以上自然を壊すんじゃねー!」
過激な怒声を上げる初老の男の映像が流れる。
関連記事、切り抜き動画、通報履歴、位置情報の解析ログが、次々と空間へ展開されていく。
白嶺は映像を閉じ、別の記録を開き、また同じ場面へ戻る。
何度も、同じ数秒を確認していた。
「先生、少し休まれてはどうですか」
モニカは温かい無糖ココアをテーブルへ置いた。
「いつもは、よく寝るのですが、やることがあれば、それほど睡眠は必要ありません」
白嶺は会釈をすると、ココアを一口飲んだ。
「私も手伝おうと思っていたのですが……いつの間にか寝ちゃって、すいません」
「はい。モニカさんのおかげで眠れず、作業が捗りました」
「えっ?」
「昨夜は、ずいぶん生命力のある寝息でしたので」
「どーいう意味ですか、それー!」
白嶺は少し微笑むと、再び映像の確認を始めた。
「この方、凄い勢いで反対してますね」
モニカは話題を変えるように尋ねた。
「はい。二月ほど前からです」
そう言うと、白嶺はその映像を閉じた。
さらに奥にあった映像を手前へ引き寄せようと立ち上がった、その時だった。
身体が一瞬よろめく。
「先生っ!」
モニカは反射的に白嶺を支えた。
「あっ、すいません。ちょっとよろけただけです」
「いえ、無理ですよ。先生は、キリンじゃないですから」
「たとえですよ、あれは」
「さあ、こっちです」
「こっち?」
白嶺は首を傾げる。
モニカは白嶺の裾を引いた。
「先生」
「はい」
「こっち来てください」
「?」
「一緒に寝ましょう」
「なぜですか?」
モニカは悪戯っぽく笑う。
「男の人って、そのあとすぐ眠くなるじゃないですか」
白嶺は数秒考えた。
「そのあと?」
モニカは頬を赤く染め、照れ隠しのように人差し指をくるくる回した。
「だから、その……恋人がすること、です」
白嶺は真顔のまま頷く。
「なるほど」
モニカは少し期待したように白嶺を見つめた。
「しかし、その方法は採用できません」
「なんでですかー!」
「成功率が不明です」
「そこは気合いで何とかするんです!」
「気合いは医学ではありません」
「モニカさん」
「はい♪」
「実はあまり時間がありません」
「そうなんですか」
「モニカさんは、表に残る人です」
モニカの笑顔が、少しだけ消えた。
「だから、いつでも動けるようにしておいてください」
白嶺は優しくそう言うと、再び映像の確認作業へ戻った。
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【BAR EIMICHO】
神代が席に座る。
マスターは振り返り、小さく笑った。
「いつものですね」
「ええ」
透明な酒がグラスへ注がれる。
その中では、銀色の粒子が星屑のように静かに揺れていた。
「スターダストです」
マスターは神代の前へグラスを置く。
神代はグラスを持ち上げ、一口飲む。
銀色の粒子が舌の上で小さく弾けた。
「……ありがとう」
「ごゆっくり」
神代はグラスの中を見つめた。
銀色の粒子が、ゆっくりと沈んでいく。
「子どもです……」
今日、栗山が口にした言葉が頭をよぎる。
神代は小さく笑った。
「君は、それでいい」
グラスをもう一度口に運ぶ。
「……もう、その役はできない」
しばらく黙って酒を見つめる。
「私は……その眩しさを、失った」
静かに目を閉じる。
銀色の粒子は、最後の一つまで静かに沈んでいった。




