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天国白書  作者: 凛1129
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31/38

9章 追憶 (3) 名のない少年

 エレナは写真を見た。

少しだけ間が空く。

「かなり昔の事件です」

静かな声だった。

「当時、兄、悠は小学生でした」

モニカの表情が変わる。

「小学生……」

「はい」

エレナは頷いた。

「放課後だったと、記録残っています」

白嶺は黙って聞いている。

「同じ小学校の児童に殺害されました」

室内が静かになる。

モニカが言葉を失った。

 

「児童が……児童を?」

「はい」

 

エレナは慣れたように答えた。

「加害者も未成年だったため、記録の大半は封鎖されています」

白嶺は動かない。

「名前も公表されていません」

「今でもですか」

モニカが聞いた。

「はい」

エレナは頷く。

「当時もそうでしたし、現在も同じです」

写真へ目を向ける。

「兄の名前も、報道では全く出ませんでした」

モニカは目を伏せた。

「そんな……」

「被害者家族の保護という理由だったそうです」

エレナは少し笑った。

笑顔ではなかった。

「でも、母はずっと怒っていました」

白嶺の視線が動く。

「なぜですか」

「悠が消されたみたいだ、と」

エレナは答えた。

「加害者の名前も出ない」

「悠さんの名前も出ない」

「事件だけが残る」


しばらく誰も話さなかった。

 

「私は当時の記憶がほとんどありません」

エレナは写真立てへ手を伸ばした。


「でも、母が兄、悠の話をする時だけは覚えています」

写真を指で撫でる。

 

「母は、兄を……悠を、忘れないで欲しいと言っていました」

 

モニカは小さく唇を噛んだ。

白嶺は何も言わない。


「事件の記録なら残っています」

エレナは続けた。

「ただ、一般公開はされていません」


「映像はありますか」

 

白嶺は静かに聞いた。

エレナとモニカは少し驚いた顔をした。

 

「え?」

「悠さんの映像です」


数秒。

エレナは写真を見る。

「あります……」

そう答えた。


エレナは端末からBANREIを召喚する。

「ノエル」

淡い水色の光が現れる。


「私の兄の映像を出して」

水色の光核は少しだけ揺れる。

 

「……よろしいのですか」

ノエルは優しい声で問いかける。


「……ええ。私はこの人たちの質問へ答えたい」

 

『……わかりました。エレナ』

 

白嶺もモニカも黙って見ている。

空間に浮かび上がる映像。

 

「あの……栗山さん」

「はい」

「いつ頃の映像がよろしい

 でしょうか」

「ああ、すいませんでした。では一番新しい、最後の映像をお願いします」

白嶺は少し早口に答える。


「ノエル、兄の最後の映像を」

『最後の映像を再生します』

ノエルの声が響く。


空間に映像が浮かび上がった。

学校の門だった。

夕方。

低い陽が、校庭を橙色に染めている。

ランドセルを背負った少年が映っていた。

悠・ベレナール・松永。

 

少年は友人たちと何かを話しながら笑っていた。

その顔は、やはりリオ・ヴァレンによく似ていた。

映像の中で、悠の端末が小さく光る。

 

『悠』

 

女性の声。

テレシアだった。

悠は少しだけ慌てたように端末を取る。

「なに、母さん」

『今日は早く帰ってきてね』

「なんで?」

『抱っこするから』


周囲の友人たちが一斉に笑った。

「お前、まだ抱っこされてんのかよ」

「されてない!」

悠は顔を赤くして言い返す。

映像の中のテレシアが笑った。

『されてます』

「されてないって!」

『じゃあ今日はしません』

「……別に、いいけど……」


友人たちがまた笑う。

悠はランドセルを背負い直し、照れたようにそっぽを向いた。


『寄り道しないこと』

「分かってる」

『ちゃんと帰ってくるのよ』

「うん」

 

悠は小さく手を振った。

そこで映像は終わった。

 

誰も何も言わなかった。

モニカは画面が消えた場所を見つめていた。

エレナは静かに目を伏せる。


「このあと、帰ってきませんでした」

白嶺は動かなかった。


エレナはしばらく写真を見ていた。

それから静かに立ち上がる。


「母は詳しい話をしたがりませんでした」

 棚の引き出しから一枚の記録を取り出した。

「でも、調べはしました」

白嶺は黙って聞いている。

「事件の記録です」

エレナは、古い紙の資料を見た。

「犯人は兄より四つ年上でした」

「六年生ですか」

白嶺が聞く。

「はい」

エレナは頷いた。

「同じ小学校でした」

モニカは言葉を失う。

「そんな……」

「兄は犯人を知っていました」

エレナは続けた。

「だから警戒しなかったそうです」

白嶺は動かない。

「犯人は兄を連れ出しました」

「目的は?」

白嶺が聞く。

エレナは少し考えた。

「真実……」

エレナは止まる。

「それは分かりません」

「記録には残っていません」

沈黙する。

「当時、大きな問題になったことがもう一つあります」


エレナは資料をめくった。


「兄のBANREIです」


モニカが顔を上げる。

「BANREI?」


「はい。兄は発見されるまで、生存していた可能性が高いとされています」


エレナは続けた。


「ですが、緊急保護機能は一度も作動しませんでした」


「そんなこと……」


「当時も同じ反応だったそうです」


エレナは資料へ目を落とす。


「位置情報は正常」

「通信状態も正常」

「生体監視も正常」

「BANREIは異常なしと判断し続けていた」

 

白嶺の視線がわずかに動く。

「原因は」

 

「完全には分かっていません」

エレナは首を振った。

「ただ、犯人宅から非常に古い携帯電話が見つかっています」


「携帯電話?」


モニカが聞き返す。

「かなり前の通信機器です。P101系統、と記録されています」

 

白嶺が初めて口を開いた。

「PDCですか」

「ご存じなんですか」

 

「名称だけです。現在とは全く異なる、旧世代の携帯通信規格です」

エレナは頷いた。

「その機器が作動していた間だけ、BANREIの認証処理に異常が出ていた可能性がある、と」

「可能性?」

「再現は出来なかったそうです」

エレナは資料を閉じた。

 

「ただ……ただこの事件の後、BANREIは全面改修されています」

モニカの表情が変わる。

「あの保護基準改定……」

「はい」

エレナは静かに答えた。

 

「兄の事件が、きっかけだったそうです」


「ただ……」

エレナは目を背ける。

「犯人の小学生は何度も射精した記録……が……」

 

エレナの言葉が止まる。

エレナの目が潤む。

白嶺は変わらず黙っている。


モニカが顔を上げる。

「大丈夫、大丈夫」

「はい……」

「大丈夫……」

モニカはエレナの手を握る。


エレナは気を取り直し続きを話す。

 

「どうなるか見たかった!」

語気が強まる。


部屋が静かになる。

「どうなるか?……ですか」

モニカが聞き返した。

 

「兄がです」

エレナは答えた。

「お腹が空いたら」

「水を飲めなかったら」

「助けが来なかったら」

「人間はどうなるのか」


モニカの顔から血の気が引いた。

「そんな理由で……」

エレナは続きを読んだ。


「犯人は兄を嫌っていませんでした」

「むしろ好意的だったそうです」

「仲も悪くなかった」

「じゃあ……」

モニカは言葉を止めた。


「分かりません」

エレナは首を振る。


「警察も同じ結論でした」

白嶺は静かに聞いている。

「当時の精神鑑定では」

エレナは資料を閉じた。


「他者への共感能力が著しく低いと判断されたそうです」

モニカは唇を噛んだ。


「兄は監禁されていました」

エレナは写真を見る。

「そして、衰弱していきました」

沈黙。

「犯人は観察していたそうです」

モニカは目を伏せる。


「……最低」

エレナは首を横に振った。

「発見時の記録です」

エレナは資料を見た。

「兄の両腕には、多数の穿刺痕が確認されたそうです」

モニカの表情が強張る。


「穿刺痕……」

「注射針です」


静かな声だった。

「一本ではありません」

「何百回も刺されていました」

部屋が静かになる。


「犯人は、一度に大量の血液を抜いていません」

エレナは続けた。

「少しだけ抜き、様子を見る」

「また抜くき、それを繰り返し……」


モニカは顔をしかめた。

「そんなこと……」

「兄は途中まで生きていました」

エレナは資料を閉じない。


「記録には残っています」

「最初は助けを求めていた」

「泣いていた」

「帰りたいと言っていた」

沈黙。

「そして……」

エレナの声が震えた。

 

「抱きしめて……と」

 

エレナは口に手を持っていき、嗚咽している。

エレナの手を握ったモニカの手に力が入る。


数秒。

エレナは、顔をあげ、言う。

「でも、だんだん声が出なくなったそうです」


モニカは目を伏せた。

「犯人は、その様子を観察していました」

「顔色が変わるのを」

「歩けなくなるのを」

「立てなくなるのを」

「眠る時間が長くなるのを」


エレナの声は変わらない。

エレナの語気は強くなる。


「兄は最後、自力で起き上がれなかったそうです」

「水を欲しがり母を呼んだそうです」

誰も何も言わなかった。


「それから!」

時が止まる……


「発見された時」

エレナは言葉を吐き出す。


エレナは写真を見る。

「身体に大きな損傷はありませんでした」

「ただ」

「とても軽かったそうです」

エレナの声は呟くように小さかった。


映像の中の悠は笑っていた。

「犯人は最後まで観察を続けていたと記録されています」

「母は違うと言っていました」

ラストスパート。

この表現が一番近い、吐き出すような言葉。


白嶺の視線が動く。

「違う?」

「はい」

エレナは静かに答えた。


「最低なら理解できる」

「憎しみなら理解できる」

「でも」


 写真の中の悠を見る。

 

「興味だった……」


その言葉だけが部屋に残った。

白嶺は何も言わなかった。

ただ、停止した映像の中で笑う悠を見ていた。


エレナの声は淡々としていた。

淡々としていなければ、話せないのだと分かる声だった。


最後に映っていたのは、

母親へ向かって手を振る少年だった。

室内が静まり返る。


「そんな……」


モニカは小さく呟いた。

白嶺は何も言わなかった。

ただ、停止した映像の位置を見ていた。

最後に映っていたのは、笑って手を振る少年だった。

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