9章 追憶 (2) 悠・ベレナール・松永
翌日の天国センター中央監視室。
「おはようございます」
モニカがコーヒーを2つ持って室内に入って来る。
「おはようございます」
白嶺は茶菓子のような菓子折りを丁寧に持っている。
「あれ、どちらか行かれるのですか」
モニカはコーヒーを置きながら聞いた。
「えぇ、山梨まで」
モニカの動きが止まり、白嶺の顔を見る。
一瞬だけ表情が固まったが、モニカはすぐに笑顔へ戻し
「まーたサボりですか。ダメですよ。お仕事なんだから」
モニカは明るく言った。
「いえ」
白嶺の表情は変わらない。
「先日、南米でリオ・ヴァレンと同様の白界症状が出たと報告がありました。脳……いえ、その関連調査です。」
白嶺は言いかけて止め、まとめた。
「今、脳って言いました?」
「言ってませんよ」
白嶺がいつもの少しだけ微笑む顔に戻った。
「山梨で?」
「関係者がいます」
「先生……」
モニカは動きを止め、目を細める。
「私も行きますね」
「今日は大丈夫ですよ」
「そういうわけにはいきません」
「何故ですか」
「……それは」
「先生を一人で行かせるなと言われています。この前だって倒れたでしょ。当然です」
「誰にですか?」
「誰に、誰、上司です」
――――――
白嶺は空間に浮かぶテレシアの記録を指で払った。
関連人物。
現存親族。
松永長女。
居住地情報。
「移動用ポッドへ転送」
『承認しますか』
「承認」
数秒後、窓の外に白い無人ポッドが滑るように停車した。
『目的地設定済み』
『山梨県甲府盆地北部』
『到着予定 三十九分』
移動ポッドは静かに滑り出した。
座席は向かい合わせではなく、窓に沿って横並びだった。
白嶺は菓子折りを膝の上に置き、両手で丁寧に押さえている。
モニカはリクライニングを少し倒した。
天井の薄い光が、流れる景色に合わせてゆっくり揺れる。
「先生」
「はい」
「それ何ですか」
「菓子折りです」
「見れば分かります」
「なら聞かないでください」
白嶺は菓子折りの角が潰れていないか確認するように、指先で箱の端を撫でた。
「誰に渡すんですか」
「松永さんです」
「会ったことないですよね」
「はい」
「なのに菓子折り」
「日本ですから」
「便利な言葉ですね」
モニカは小さく息を吐き、窓の外へ目を向けた。
高層建築が減り、遠くに山の稜線が見え始めている。
少し間を置いて、モニカは身体を起こした。
「それから」
白嶺の顔を覗き込む。
「先生」
「はい」
「脳って言いましたよね」
「言ってません」
「言いました」
「気のせいです」
「気のせいじゃありません」
「そうですか」
「そうです」
白嶺は窓の外を見る。
モニカはその横顔をじっと見た。
「隠してますね」
「はい」
「認めるんですか」
「聞かれたので」
モニカは一度、天井を見た。
「隠すなら、もう少し頑張ってください」
「努力します」
「絶対しませんよね」
「……多分」
モニカは少しだけ笑った。
それから、表情を戻す。
「松永さん、というのは」
「はい」
「テレシア・ベレナール・松永さんの関係者、ということですよね」
白嶺は窓の外を見たまま答えた。
「そうです」
移動ポッドは山肌に沿うように走っている。
かつて高速道路だった場所は、今では緑に覆われていた。山の斜面には太陽光発電と果樹園が混在している。
「リオ・ヴァレンさんに反応を起こしたのは、テレシアさんの音声でしたから」
モニカの表情が少しだけ固くなる。
「何か、想定していることがあるのですか」
「分かりません」
白嶺はすぐに答えた。
「だから、行って聞きます」
「先生」
「はい」
「この前みたいには、ならないですよね」
「この前……」
白嶺は言いかけて、止まった。
モニカの目を見る。
そして、少しだけ考える。
「今回は九時間十六分、睡眠を取りました」
「そこですか」
「朝食も食べました」
「だから大丈夫と?」
「はい。私はすこぶる元気です」
モニカは白嶺を見る。
まだ安心していない顔だった。
「言えないことは、言わなくていいです」
「はい」
「でも、無理はしないでください」
白嶺は少しだけ目を伏せる。
「実は、私にも分かっていません」
「え?」
「何があるのかも分かりません。調査というのも本当です」
白嶺は膝の上の菓子折りを見た。
指先で、箱の角をもう一度だけ撫でる。
「二件目の白界状態が、ひとつの事件をきっかけにしている可能性があります」
「事件……」
「他国で起きた事例もあります。可能性があれば、確認する」
白嶺はモニカを見る。
「いつもの仕事ですよ」
白嶺が少しだけ微笑み、窓の外に視線を戻す。
モニカは返事をしなかった。
ただ、少しだけリクライニングを戻した。
『目的地周辺です』
移動ポッドの速度がゆっくり落ちた。
窓の外には、甲府盆地の北側に広がる住宅地が見えていた。
遠くに山の稜線。
低い家並み。
自動管理された果樹園。
その合間に、古い形を残した住宅が一軒あった。
『目的地に到着しました』
白いポッドが音もなく停車する。
白嶺は膝の上の菓子折りを持ち直した。
モニカはその仕草を横目で見て、何も言わなかった。
「行きます」
「はい」
二人はポッドを降りた。
門柱には、小さな金属板が埋め込まれていた。
松永。
その下に、小さく別の文字が刻まれている。
Bérenard
白嶺はそれを数秒見た。
「先生?」
「いえ」
白嶺は玄関前に立ち、呼び出しに触れた。
数秒後、扉が開く。
出てきたのは、二十代ほどに見える女性だった。
淡い金色の髪。
薄い色の瞳。
柔らかな顔立ち。
白嶺は、一瞬だけ言葉を止めた。
面影があった。
「エレナ・ベレナール・松永さんですね」
「はい」
女性は少し緊張した表情で二人を見る。
白嶺は姿勢を正した。
「文明局救済運営課、特別監察官の栗山白嶺です」
続いて、モニカも一歩前に出た。
「同じく文明局救済運営課、統括補佐のライラ・モニカ・サントスです」
「お話は伺っています。どうぞ」
エレナは扉を大きく開けた。
室内は静かだった。
古い家ではない。
だが、どこか時間が止まったような空気があった。
玄関脇には、小さな花が飾られている。
壁には家族写真が数枚。
白嶺は靴を揃え、菓子折りを両手で差し出した。
「突然の訪問にも関わらず、お時間をいただきありがとうございます」
「ご丁寧に……ありがとうございます」
エレナは少し困ったように笑って、それを受け取った。
居間へ案内される途中、白嶺の視線が止まる。
棚の上に、写真が置かれていた。
金色の髪の女性。
穏やかに笑っている。
テレシア・ベレナール・松永。
白嶺は動かなかった。
「母です」
エレナが静かに言った。
「テレシアさんですね」
「はい」
モニカは白嶺の横顔を見る。
白嶺の表情は変わらない。
ただ、視線だけが写真から離れていなかった。
「母のことで、何か?」
エレナの声には、少しだけ警戒が混じっていた。
「確認したいことがあります」
テレシアの遺影。
その横。
少し小さい写真立て。
白嶺の視線が止まった。
棚の奥。
テレシアの遺影の横。
もう一枚の写真。
金髪の少年だった。
十歳前後。いやもう少し若い。
無邪気に笑っている。
白嶺は動かなかった。
数秒。
いや。
もっと長かったかもしれない。
「先生?」
モニカが呼ぶ。
返事はない。
白嶺は写真を見ていた。
瞬きもしなかった。
「……こちらは」
ようやく口を開いた。
エレナは写真へ目を向ける。
「兄です」
白嶺の指先が止まる。
「お兄様」
「はい」
エレナは静かに答えた。
「悠・ベレナール・松永です」
白嶺は何も言わなかった。
写真を見る。
もう一度見る。
“これはリオ・ヴァレンだ”
そう言われれば信じたかもしれない。
それほど似ていた。
偶然。そう片付けるには、似過ぎている写真があった。
白嶺は目を閉じる。
テレシア。
白界。
ノイズ。
リオ・ヴァレン。
別人の身体。
脳移植。
白嶺は目を開いた。
「先生」
モニカが呼ぶ。
返事はない。
「先生!」
モニカの声で我に返る。
「……失礼しました」
白嶺は写真から目を離せないまま言った。
「私が小さかった頃の話なので、ほとんど覚えていないんです」
エレナは棚の写真へ目を向けた。
「兄は、事件に巻き込まれて亡くなったと聞かされています」
白嶺は何も言わなかった。
ただ、手に持っていた端末の縁を、指先で一度だけ撫でた。




