8章 月の庇護 (3) 無垢の処方
午後の天国センターはいつも通り稼働していた。
巨大な空間ディスプレイ。
無数の相談案件。
幸福度推移。
精神状態予測。
文明局から送られてくる統計データ。
その中心に白嶺がいた。
空間いっぱいに資料が広がっている。
十。
二十。
三十。
数えるのが馬鹿らしくなるほどの情報量だった。
白嶺はそれらを順番に見ている。
モニカは立ち止まった。
「忘れられない脳……」
小さく呟く。
「おはようございます」
白嶺は資料から目を離さず言った。
「……おはようございます」
モニカは席へ向かう。
モニカは席に座る前に、端末を落としかけ慌てて掴み直す。
白嶺は資料を見たまま、指だけを止めた。
「先生、朝食は食べましたか」
モニカは明るく話しかけた。
言ってから、モニカは自分の質問に眉を寄せた。
白嶺は一枚の資料を閉じる。
「食べました」
「何を」
「焼き鮭です」
「そうですか」
沈黙。
「先生、睡眠時間は」
「八時間二十七分です」
「長くないですか」
「そうですか」
「そうです」
モニカは自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。
白嶺はようやく顔を上げる。
数秒。
モニカを見る。
「病院へ行きましたか」
モニカの肩が止まり喉が小さく鳴った。
端末の画面が暗転する。
彼女が無意識に握り込んでいたからだった。
「……なぜ分かったんですか」
「分かります」
「分かりませんよ普通」
モニカは視線を逸らした。
白嶺は数秒考える。
「そうですか」
そして付け加える。
「では推測です」
「絶対違います」
「そうですね」
白嶺は素直に頷いた。
モニカは額を押さえた。
「先生」
「はい」
「少し仕事を減らした方がいいと思います」
「なぜですか」
「なぜって……」
モニカは言葉に詰まる。
白嶺は黙って待った。
「働き過ぎです」
「そうでしょうか」
「そうです」
白嶺の視線が資料群から外れる。
空間に浮かぶ統計データの隙間越しに、モニカを見る。
そして「なるほど」と小さく呟いた。
「モニカさん」
「はい」
「泣きましたね」
モニカは反射的に笑おうとした。
けれど口角だけが上がって、目元は動かなかった。
モニカの指先が止まる。
数秒遅れて目元へ触れた。
「泣いてません」
そう言いながら、モニカは目尻を拭った。
白嶺はその矛盾を指摘しなかった。
「そうですか」
「そうです」
モニカはもう一度目元を擦った。
白嶺は何も言わなかった。
天井に目線を向ける。
白嶺は資料を閉じる前に、モニカの目元を見た。
それから、何もなかったように空間へ手を払った。
資料群が消える。
空間ディスプレイが一斉に消えた。
モニカは目を見開く。
「先生?」
「外出します」
「はい?」
「午後は休暇です」
「熱ですか」
「違います」
「では何ですか」
白嶺は少し考えた。
本当に少しだけ。
「モニカさんも行きますか」
「どこへ行くんですか」
「まだ決めていません」
「決めてないって……」
モニカは言葉を失う。
「はい」
白嶺は少しだけ微笑み立ち上がりモニカの机の横まで歩きモニカの横にしゃがんだ。
「ですが」
モニカは顔を白嶺に向けるが目線は逸らす。
白嶺は静かに続けた。
「美味しいものを食べると少し元気になります」
モニカは呆然と白嶺を見た。
「行きますか」
白嶺はそう言った。
まるで子どもが母親を気遣うように。
――――――
「おお栗山くん。いらっしゃい」
大柄な女性は、カウンター越しに明るく手を振った。
白いエプロン。
太い腕。
豪快な笑顔。
この店のオーナーシェフ、マリーだった。
「どうも」
「意外ですね。フランス料理ですか。」
モニカは目を丸くし、白嶺の対面に座った。
「ここは人間が作ってます」
「そこですか」
「それでも安いお店です」
「そこもですか」
モニカは一度、天井を見た。
神に助けを求める顔だった。
白嶺はテーブルの横に浮いている小さなBANREIに伝える。
「ラタトゥイユ」
「キッシュ」
「ポトフ」
「バゲット……」
白嶺は少し考えた。
「トラディションで」
『承知しました』
白嶺は矢継ぎ早に注文した。
そして。
「モニカさんは」
思い出したように顔を上げる。
「私は最初からいました」
「そうですね」
「注文多くないですか」
「二人です」
「知ってます」
「足りないより良いと思います」
白嶺はテーブル横のBANREIを閉じた。
「先生」
「はい」
「その理論で毎回頼んでるんですか」
白嶺は首を傾げる。
「問題がありますか」
「大丈夫だよ。栗山くん、結構食べるから」
先程入り口付近にいた大柄の女性が近づいて来て言った。
「飲み物は?お姉さんはペリエでいい?」
「あっはい」
モニカは少し居心地悪そうに答えた。
「栗山くんも?」
「ペリエ炭酸抜きで」
大柄の女性は目線を天井に向けて微笑む。
「じゃ、エビアンね」
大柄の女性は当然のように厨房へ戻った。
「先生」
「はい」
「ペリエ炭酸抜きは存在しません」
「知ってます」
白嶺は窓の外を見た。
「なら……」
と、モニカが言いかける。
「ちょっとしたジョークです」
目線を合わせないまま答える。
「!?」
モニカの目は開く。
数分後、料理が運ばれてきた。
「いただきます」
白嶺はそう言うと、当然のようにバゲットを割った。
モニカはポトフを口に運ぶ。
二口目を運ぶまで、少し間が空いた。
「先生」
「はい」
「その発音」
「?」
「トラディション」
モニカは同じ言葉を口にする。
「かなり綺麗でしたよ」
「そうなんですか」
白嶺は気にした様子もなくポトフへ手を伸ばした。
モニカは白嶺を見る。
もう一度、見る。
違和感の正体が分からない。
フランス語を学んだ人間の発音だった。
少なくとも、初めて口にする人間の音ではない。
「フランス語を勉強したことは?」
「ありません」
「留学は?」
「ありません」
「フランス人の知人は?」
白嶺は少し考えた。
「記憶にありませんね」
モニカはポトフを口に運ぶ。
「そうですか」
少しだけ間が空いた。
「美味しいですか」
「え?」
モニカは顔を上げる。
「ポトフです」
白嶺は当然のように言った。
「……美味しいです」
「そうですか」
白嶺は安心したように頷く。
そしてパンをちぎった。
「先生」
「はい」
「それ、私を元気づけようとしてます?」
白嶺は少し考えた。
「はい」
即答だった。
モニカは思わず吹き出した。
白嶺はその顔を数秒見ていた。
「隠す気ないんですか」
「必要ですか」
「少しは必要です」
「そうなんですか」
白嶺はラタトゥイユを口に運んでいた。
口を拭き、白嶺はモニカを見て言った。
「少しだけ元気になりましたね」
そういうと少しだけ笑い、キッシュを口にいれた。




