8章 月の庇護 (1) 緋の封蝋
白い天井だった。
消毒液の匂い。
微かな機械音。
白嶺はゆっくり目を開いた。
知らない部屋。
知らない照明。
だが、誰がいるかはすぐに分かった。
「起きたかい」
窓際の椅子に、ヴィクター・ヴォルコフが座っていた。
「……なぜ、あなたが」
「年寄りの見舞いだ。ありがたく受け取れ」
「そうですか」
白嶺は天井へ視線を戻す。
「21:00に退院。さっき医療BANREIが俺に言ってきたぜ」
白嶺は目を見開いた。
「ICUです」
「ああ」
「親族以外は入れません」
「そうだな」
「信じるのか」
「なにをですか」
「俺が見舞いに来たことだよ」
「いいえ」
ヴィクターは低く笑った。
「可愛げのない男だ」
「よく言われます」
少しの沈黙。
「お前と一緒にいたねぇちゃん。下のロビーで待ってるぜ。お前もやるなぁ」
白嶺は答えなかった。
「お前が聞きたいだろうと思って来てやったんだがな」
ヴィクターは、腕を組み言った。
「栗山なゆた」
白嶺が言う。
ヴィクターは目を細めた。
「知っていますか」
「ああ」
「何者ですか」
「科学者だ」
「それだけですか」
「養護教員でもあった」
「資料にはありませんでした」
「だろうな」
「なぜですか」
「消された」
白嶺はヴィクターを見る。
数秒
「誰に」
白嶺は口から吐き出す。
「それを聞くには、君はまだ若い」
「年齢の問題ですか」
「違う」
ヴィクターは葉巻を取り出したが、火はつけなかった。
「人生の問題だ」
白嶺は黙る。
「栗山なゆたは天才だった」
ヴィクターは静かに続ける。
「そして、触れてはいけないものに触れた」
「禁呪ですか」
「そう呼ぶ者もいる」
「あなたは違うのですか」
「私は商売人だ」
ヴィクターは自嘲気味に笑った。
「名前を変えたところで、売れるものは売れる」
白嶺は表情を変えない。
「私と関係がありますか」
ヴィクターは葉巻を指先で転がした。
火をつけることはない。
それでも指だけは癖のように動いていた。
「君は今、自分の母親を探しているつもりかい」
「可能性として考えています」
「なら、やめておけ」
「理由は」
「その問いは、君を幸せにしない」
「幸せは目的ではありません」
「若いな」
ヴィクターの声は、低く笑っていなかった。
「真実は薬ではない。毒にもなる」
「それでも知る必要があります」
「必要と欲望を混同するな」
白嶺は黙った。
ヴィクターはようやく白嶺を見る。
「私は悪人だ」
淡々と言った。
「君が思っているより、ずっとな」
「知っています」
「だろうな」
ヴィクターは小さく笑った。
「だがな」
その声だけが、少し低くなった。
「一度死んだ子どもに、二度目の地獄を見せたいとは思わん」
白嶺の目がわずかに動く。
「どういう意味ですか」
「聞かなかったことにしろ」
「できません」
「だろうな」
ヴィクターは立ち上がった。
「歳をとると、口が軽くなる。よくねーことだな」
後頭部を指でかきヴィクターは背伸びをし、葉巻を口に咥えた。
「栗山なゆたは科学者だ」
「養護教員でもあった」
「天才だった」
「今、君に渡せる答えはそれだけだ」
「なぜ、それだけなのですか」
ヴィクターは扉へ向かう。
「答えには値段がある」
「金ですか」
「違う」
自動ドアの前で、ヴィクターは立ち止まった。
「支払うのは、平穏だ」
白嶺は言葉を発しようとしたがヴィクターは被せるように言った。
「急ぐな」
ヴィクターは振り返らない。
「君はまだ、生きている」
扉が開く。
「それを無駄にするな」
ヴィクターは部屋を出ていった。
静寂が戻る。
白嶺は天井を見上げたまま、しばらく動かなかった。
栗山なゆた。
科学者。
養護教員。
天才。
消された記録。
そして――
一度死んだ子ども……
「……私のことですか」
白嶺はうつむき呟く。
答える者はそこにいなかった。
21:00。
医療BANREIが部屋にぼやっと現れる。
「退院時間です。お大事に」
部屋のドアが開く。
白嶺はそのまま病室を出た。
エレベーターが降り、ロビーの階につき、ドアが開いた。
「先生!」
モニカは走った。
気付いた時には、白嶺に抱きついていた。
「……無事でよかった」
声が震える。
白嶺は動かなかった。
数秒遅れて、そっとモニカの背中へ手を置く。
抱きしめ返す、というより。
泣いている子を落ち着かせるような手つきだった。
「大丈夫ですよ」
白嶺は静かに言った。
「私は、ここにいます」
モニカの胸が跳ね、慌てるように半歩下がる。
「ち、違います」
「何がですか」
「これは、その……母国では普通です」
「そうなんですか」
「普通です。心配した人には、こうしてます」
モニカはもう半歩下がる。
「家族みたいなものですから」
言葉が口をついて出た瞬間、モニカは目を見開いた。
白嶺の表情が少しだけ変わった。
ほんの一瞬。
痛そうな、懐かしそうな、子どものような顔。
「……家族ですか」
白嶺は小さく繰り返した。
モニカの息が止まる。
「はい。いえ、違います。職場の話です。チームという意味で」
「そうですか」
白嶺は微かに笑った。
「なら、安心しました」
「何がですか」
「よく分かりません」
白嶺は目を伏せた。
「でも、少し安心しました」
モニカは何も言えなくなった。
白嶺は優しく、ゆっくりモニカの手を両手で握り、モニカの目を見る。
モニカは叱られるかもしれない親の目を見るように、白嶺の目を見た。
「僕は大丈夫ですよ。ありがとう」
帰りのカプセルは静かだった。
白嶺は席に座るなり眠ってしまった。
倒れてから初めて見る寝顔だった。
いつもなら端末を見て、何かを調べ、誰かの相談に答えている。
時には存在そのものが機密指定されている人物と面会し、そのまま業務へ戻ることもあった。
だが今は違った。
まるで電源を切られた機械みたいに動かない。
モニカは窓の外を見る。
暗闇。
流れる光。
そして、もう一度白嶺を見る。
髪が少し乱れていた。
モニカは周囲を見た。
ゆっくりと手を伸ばす。
指先が髪に触れる。
ほんの少しだけ整える。
「……栗山なゆた」
小さく呟く。
返事はない。
白嶺は眠っている。
モニカは窓へ視線を戻した。
しばらくして。
「先生」
今度は名前を呼ぶ。
「……白嶺先生」
静かな寝息だけが返ってきた。




