第100話:鐘の残響と、王都外縁の影
第100話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、競技場事件の直後を描く後始末の回です。
アレンの虚孔に残った鐘の負荷、ルシアンやエレノアの制止、そして国王とガラルドの命令で王国全体が動き出します。
次の舞台となる王都東外縁・旧外郭水門にも注目していただけると嬉しいです。
黒い鐘の口が崩れたあと、競技場には妙な静けさが残った。
ほんの数分前まで、歓声と悲鳴と詠唱が入り混じっていた場所だ。だが今は、壊れた魔法灯の火花と、教師たちが負傷者を運ぶ声だけが、白石の床を低く這っている。
黒仮面の胸元から剥がれ落ちた鐘紋は、灰になって消えた。
観客たちは恐怖に青ざめながらも、ルシアンの作った水の標識に従い、順に退避している。学生たちは震えた手で防壁を維持し、護衛騎士と従者たちは倒れた潜伏者たちを拘束していた。
勝った。
少なくとも、この場は守った。
だが、アレンはその実感を持てなかった。
胸の奥が重い。
虚孔の底に、まだ黒い泥が沈んでいる。知らない誰かの恐怖、悲鳴、祈りの残滓。鐘の仮殻を砕いた瞬間に呑み込んだものが、内側で冷たく渦を巻いていた。
「……チッ」
アレンは小さく舌打ちし、和泉守兼定を鞘へ収めた。
その動作だけで、膝がわずかに揺れる。
「アレン!」
ルシアンが競技場中央へ駆け寄ってきた。
公衆の前だ。だからアレンは、いつものように軽く頭を下げる。
「ご無事で何よりです、ルシアン様」
「そういう場面じゃない。君の方が、どう見ても無事じゃない」
穏やかな声の奥に、抑えた怒りがあった。
ルシアンはアレンの腕を掴む。アレンは振り払わなかった。振り払うだけの余力がない、という事実を悟られたくなかったが、ルシアンの目はもう誤魔化せないところまで見ていた。
「虚孔に何か入ったね」
「少し泥を飲まされた程度です」
「少しで膝が揺れる人間は、あまりいないよ」
その言葉に、アレンは短く笑った。
「俺は人間離れしてるらしいんでね」
「冗談で逃げない」
ルシアンの手に力がこもる。
アレンは一瞬だけ目を伏せた。
そこへ、エレノアが黒紫の魔法陣を解きながら歩いてきた。深紅のドレスの裾は煤で汚れていたが、本人は気にする様子もない。
「動かないで、アレン。今のあなた、虚孔の縁が乱れているわ」
「縁が乱れるってのは、どういう意味ですか」
「簡単に言うと、あなたの内側に入った鐘の残響が、まだ出口を探している。無理に走れば、あなた自身の感情や記憶を巻き込んで反響する可能性がある」
「もっと簡単に」
「今すぐ追えば、倒れるわ」
アレンは露骨に顔をしかめた。
「倒れる前に追いつけばいい」
「却下」
ルシアンとエレノアの声が重なった。
少し離れた場所で、シオンが浅葱色の羽織を翻しながら駆け寄ってくる。手には折れた黒銀の針と、潜伏者から剥がした仮面の欠片が握られていた。
「局長、これ全部集めたよ。あと、逃げた奴は今のところいないっぽい。ボクが見える範囲はね」
「上出来だ」
「へへ。じゃあ、追うならボクが行く?」
アレンは即座に首を振った。
「お前はガラルド様の護衛を続けろ。敵の狙いが一回で終わると思うな」
「……うん。分かった」
不満そうに唇を尖らせながらも、シオンは従った。以前なら、もっと無邪気に食い下がったかもしれない。だが今は、任務の重さを理解している顔だった。
貴賓席から、国王レオンハルトの声が降る。
「競技は中止だ。観客の退避を最優先とせよ。王宮騎士団は外周を封鎖、学園長と教師陣は内部の潜伏者を洗い出せ」
その一声で、場の空気が変わった。
混乱ではない。
命令系統が戻ったのだ。
ガラルドもまた、冷たい目で周囲の貴族たちを見渡していた。
「封蝋紋を使われた以上、これは学園だけの失態では済まん。王宮、学園、各家の使用人名簿をすべて洗う。異論のある者は、今ここで名乗り出るがいい」
誰も口を開かなかった。
その沈黙の中、クラウスが魔導小銃を下げずに歩いてきた。
「王都外縁へ逃げた、という情報は信用できるのか」
アレンは床に残る黒い焦げ跡を見た。
「少なくとも、奴らはそう見せたいらしい」
「罠の可能性」
「高いな」
「ならば、行く理由はある。罠は、仕掛けた者がそこに関心を持っている証拠だ」
「気に入らねえが、そこは同意だ」
エレノアが黒い焦げ跡へ手をかざす。
黒紫の光が、床に残った文字の残滓をなぞった。やがて、競技場の上空に薄い地図が浮かび上がる。王都の輪郭。その外縁部。古い水路と廃棄された外郭塔が重なる地点に、黒い点が一つ灯った。
「王都東外縁、旧外郭水門」
エレノアの声が低くなる。
「今は使われていないはずの水門よ。昔の地下排水路と、旧時代の魔力排出管が交差している。感情流や残響を隠して流すには、最悪なくらい都合がいい場所ね」
ルシアンが地図を見上げる。
「陛下。旧外郭水門へ踏み込むには、正式な王命が必要です。王宮騎士団を主軸に、五家連合にも兵と護衛を出させるべきかと。学園教師は前線ではなく、術式解析と証拠保全、生徒保護に回すのが妥当です」
国王は愉快そうに笑ったあと、貴賓席の奥へ視線を投げた。
「よかろう。だが、この件はもはや一公爵家や学園だけの問題ではない。王都外縁へ兵を動かす以上、旗印は王家が持つ。ラインハルト、前へ」
静かに進み出たのは、第一王子ラインハルト・ヴァン・アイビスだった。
理知的な青い瞳が、競技場の惨状と、地図に灯る黒い点を冷静に見据える。
「承りました、父上。旧外郭水門調査隊の大将、このラインハルトが担います。五家連合には、王命として各家の責任ある兵を出していただく。逃げる家は、この場で王国への忠義を疑われると心得よ」
その一言で、貴族たちの背筋が揃って伸びた。
ルシアンは一歩下がり、深く頭を下げる。
「グランヴェル家は、殿下の作戦補佐として全力を尽くします」
ガラルドが続ける。
「表の大義は王子殿下が担う。五家連合は兵を出し、王宮騎士団が外を固める。グランヴェルは参謀と実務だ。……そして裏の刃は、動ける状態に戻してからだ。アレン、聞こえているな」
アレンは不服そうに息を吐いた。
「……承知しました」
言葉だけは丁寧に返す。
だが、胸奥の疼きは消えない。
旧外郭水門。
黒い鐘が逃げた場所。
そこに何があるのかは分からない。だが、鐘は一度、アレンの虚孔へ手をかけた。ならば、次はより深く来る。
ルシアンが小声で言った。
「今は休んで。追うために」
アレンは横目で相棒を見る。
公の場だ。返事は、執事としての形に収めるしかない。
「では、少しだけ休ませていただきます、ルシアン様」
「うん。少しだけ、じゃなくて、必要なだけだ」
アレンは答えなかった。
競技場の外へ退避していく観客の波を見ながら、静かに目を細める。
祭りは終わった。
ここから先は、追跡と粛清の時間だ。
黒い鐘が王都外縁で鳴る前に、必ず叩き割る。
第100話をお読みいただきありがとうございました!
今回は大きな戦闘後の静けさと、まだ終わっていない不穏さのバランスを意識しました。
アレンが平気なふりをしても、ルシアンには誤魔化せないところが、二人の関係らしくて好きな場面です。
国王とガラルドが即座に命令系統を立て直すところも、王国側の頼もしさとして書けたと思います。
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