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第98話:原型を喰らう鐘

第98話をお読みいただきありがとうございます!


今回は、競技場中央に開いた第零鐘の仮殻へ、アレンが真正面から斬り込む回です。

ルシアン、クロード、エレナ、アルベルトの支援が、アレンの一刀へ集まっていきます。

虚孔を狙われる危うさと、それでも踏み込むアレンに注目していただけると嬉しいです。

 アレンは、競技場中央へ落ちた。


 足裏が石床を捉えるより早く、床下の影が膨れ上がる。


 円形の競技場、その中心に、黒い鐘の口が開いた。口といっても歯はない。ただ、内側へ向かって幾重にも重なった鐘の輪が、喉のように脈打っている。


 ごぉん。


 鳴った瞬間、競技場の空気が重く沈んだ。


 観客席の悲鳴、防衛線を張る教師の怒号、学生たちの詠唱。そのすべてが遠くなる。


 鐘は、アレンだけを見ていた。


 胸奥の虚孔が、冷たく開く。


 吸え。


 呑め。


 空になれ。


 意味のない命令が、意味そのものとして体へ染み込もうとする。


「うるせえ」


 アレンは和泉守兼定を正眼に構えた。


 刃先が、黒い鐘の口へ向く。


 だが、次の瞬間、鐘の輪から無数の黒い糸が伸びた。魔力ではない。感情でもない。もっと細く、冷たいもの。虚孔の縁を測るための、針のような干渉だった。


「アレン! 触れさせちゃ駄目だ!」


 ルシアンの声が飛んだ。


 競技場中央まで、風の道が開く。ルシアンは杖を掲げ、短い符号を重ねた。


「風四式、螺旋路。土三式、支柱。光一点、標識」


 アレンの足元に、風の足場が三段、斜めに走る。土の支柱が鐘の口の縁を押さえ、光点が黒糸の密度の薄い場所を示した。


 アレンは一歩目を踏む。


 瞬歩。


 黒糸の束が、遅れて空を噛んだ。


「左上、三本!」


 クロードの精神感応糸が銀色に光る。彼は青ざめながらも、黒糸の流れを読み取っていた。


「あれは攻撃ではありません。測定です。虚孔の縁へ直接、深さを測る針を打ち込もうとしている」


「つまり、刺されたら面倒ってことか」


「面倒どころではありません。あなたの内側を、鐘の譜面にされます」


「簡単に言え」


「操られます」


「分かりやすい」


 アレンは体を沈め、兼定を横へ払った。黒糸三本が、火花を散らして切れる。


 だが、切った糸の断面から、さらに細い糸が増えた。


 増殖する。


 外側を斬っても、時間を稼ぐだけだ。


「縁を止めるわ。三秒だけよ」


 エレナの声が響いた。


 白銀の氷が鐘の口の縁へ走る。絶対不可侵・氷結世界。黒い鐘の輪が一瞬だけ凍りつき、回転が鈍った。


「熱気も冷気も気味が悪いわね……! さっさと終わらせなさい、泥の執事!」


「誰が泥だ」


 文句を返しながら、アレンは二歩目を踏む。


 上空から緑の風が降った。


「美しくない糸は、私の風で梳いて差し上げましょう」


 アルベルトの羽扇子が舞う。追尾する風刃が、アレンへ向かう黒糸だけを選んで裂いた。大雑把な攻撃ではない。糸一本一本の流れを読み、邪魔なものだけを払う、妙に繊細な風だった。


「今です、アレン!」


 ルシアンの声。


 風の螺旋が、アレンの背を押す。


 アレンは鐘の口の真上へ躍り出た。


 そこに、黒鐘卿の声が落ちる。


「原型、接触域へ到達。虚孔深度、直接測定を開始」


 黒い輪の底から、巨大な鐘の舌が現れた。


 それは金属ではない。


 白鐘療養院で見た昏睡者たちの恐怖、旧礼拝堂の残響、競技場の歓声、貴族たちの疑心。それらを煮詰めたような、濁った黒銀の塊だった。


 鐘の舌が、アレンへ振り上がる。


 触れれば、鳴らされる。


 そう本能が告げた。


 アレンは逃げない。


 逃げれば、背後の防衛線へ落ちる。


 なら、ここで止めるしかない。


「方円の檻」


 殺気が円を描いた。


 アレンの周囲数メートルに、見えない間合いが張り巡らされる。黒い舌の震え、糸の揺れ、鐘の輪の呼吸。そのすべてが、刃へ伝わった。


 兼定に、赤黒い炎が宿る。


 業火流『硝煙ノ灯』。


 鐘の舌が放つ黒い火花を、アレンは道標に変えた。恐れるものではない。向こうがこちらを測るなら、その測る線を逆に辿る。


 踏み込み。


 縮地。


 アレンの姿が、鐘の舌の懐へ消える。


「そこだ」


 天然理心流、絶空・平突き。


 肉体の全バネが、切っ先へ集まる。赤黒い炎を巻いた気魄の衝撃が、黒銀の舌を正面から貫いた。


 ごぉ――


 鐘が鳴りかける。


 その音を、アレンの虚孔が呑んだ。


 胸の奥に、泥が流れ込む。


 重い。


 冷たい。


 知らない誰かの恐怖が、何十、何百と形を失って押し寄せる。


 膝がわずかに沈んだ。


「アレン!」


 ルシアンの声がした。


 その声だけは、泥の中でも真っ直ぐに届いた。


 アレンは奥歯を噛み締める。


「まだ、倒れてねえ」


 兼定を捻る。


 黒銀の舌に、亀裂が走った。亀裂の奥に、小さな黒い水晶核が見える。


「クロード!」


「核は舌の付け根です! ただし、患者や観客とは繋がっていません。これは独立した仮殻です!」


「なら、遠慮はいらねえな」


 アレンは一度だけ息を吐いた。


 ルシアンの風が、背中を支える。


 エレナの氷が、鐘の縁を止める。


 アルベルトの風刃が、黒糸を払う。


 クロードの銀糸が、核の位置を示す。


 その全部を、アレンは一刀へ乗せた。


「砕けろ」


 兼定が、黒い水晶核を貫いた。


 競技場の床下から、音のない爆発が広がる。


 黒い鐘の口が、内側から崩れた。


 観客席に満ちていた重圧が、ふっと軽くなる。教師たちが押さえていた波紋も消え、黒仮面の胸元の鐘紋が次々と剥がれ落ちた。


 だが、完全な勝利ではない。


 崩れた鐘の底に、細い文字が浮かんだ。


 仮殻破損。


 原型反発率、想定以上。


 本鐘接続、保留。


 再同期座標、王都外縁へ移行。


 アレンはその文字を見下ろし、血の混じった息を吐いた。


 本体ではない。


 ここで砕いたのは、競技場に差し込まれた仮の殻に過ぎない。


 それでも、今この場にいる者たちは守った。


 アレンは兼定を鞘へ戻しかけ、足を止めた。


 貴賓席から、ルシアンがこちらを見ている。


 心配を押し殺した、いつもの穏やかな顔。


 アレンはわずかに口元を吊り上げた。


「ひとまず、鐘の口は潰した」


 その言葉が届いたのか、ルシアンは小さく息を吐いた。


 だが、アレンの胸奥では、まだ冷たい疼きが残っている。


 王都外縁。


 黒い鐘は、次の場所へ逃げた。


 そして今度は、こちらが追う番だった。

第98話をお読みいただきありがとうございました!


今回は、アレン一人で全部を押し切るのではなく、周囲の支援があって初めて刃が届く形を意識しました。

クロードの解析、エレナの氷、アルベルトの風、ルシアンの道作り、それぞれが噛み合うところが書いていて楽しかったです。

泥を呑むような虚孔の負荷も、今後の不安として残しています。


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