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第89話:神童の風と、鬼の間合い

第89話をお読みいただきありがとうございます!


今回は、ルシアンとアレンの手合わせ回です。

魔法競技大会を前に、ルシアンが短縮詠唱と多彩な魔法で、実戦の間合いへ挑みます。

昔とは違う神童の成長と、それに呼応して新型を開くアレンに注目していただけると嬉しいです。

 第三訓練場は、学園の東棟裏にある。

 普段は上級生の実技訓練に使われる場所だが、今日は朝から人払いが済まされていた。床には衝撃吸収用の魔法陣が刻まれ、壁には防護結界が幾重にも張られている。

 中央に立つのは、二人。

 ルシアン・ド・グランヴェル。

 そして、その秘書兼執事であるアレン。

 立会人として呼ばれたエレノアは、観覧席の最前列で水晶板を抱え、すでに目を輝かせていた。

「いいわねえ。公爵家の神童と、魔力ゼロの規格外。これを正式記録に残せないのが惜しいくらいだわ」

「教授。面白半分で記録しないでください」

 ルシアンが苦笑する。

「安心しなさい。外には出さないわ。私の研究室の、鍵付きの引き出しに入れておくだけ」

「それが一番信用できないんですよ」

 アレンは黒誠を手に、淡々と言った。

 今日の服装は執事服ではない。動きやすい黒の訓練着。腰には和泉守兼定もあるが、抜くつもりはない。これは殺し合いではなく、稽古だ。使うのは、神木烏木で作られた木刀、黒誠で十分だった。

 ルシアンもまた、いつもの貴族らしい上着を脱ぎ、白い訓練服に身を包んでいた。手には杖。だが、その姿勢は昔とは違う。

 あの頃は、まだ魔力の強さに任せた「神童」だった。

 今、目の前にいるのは違う。

 背筋に無駄な力はなく、視線は柔らかいまま、足元の重心はいつでも動ける位置にある。魔法使いでありながら、戦場で足を止める愚かさを知っている者の立ち方だ。

 アレンは、それだけで口元を吊り上げた。

「ずいぶん、いい面構えになったな、ルシアン様」

「その呼び方だと、少し距離を感じるね」

「教授が見ていますので」

「なるほど。では、僕も公爵家らしく振る舞うとしようか」

 ルシアンは杖を軽く回し、穏やかに笑った。

「アレン。いや、アレン殿。どうか胸を貸していただきたい」

「その顔で言う台詞じゃねえですよ」

 エレノアが喉を鳴らして笑う。

「始めるわよ。勝敗条件は、致命部位への有効打、または降参。殺傷級魔法は禁止。アレンも、骨を砕くのは控えめに」

「善処します」

「それ、一番怖い返事ね」

 エレノアが片手を上げる。

「開始」

 瞬間、ルシアンが先に動いた。

 長い詠唱はない。

「風、二式――【エアロ・スリップ】」

 短い符号だけで、風の衣が彼の身体を包む。足元の空気が斜めに爆ぜ、ルシアンの身体が横へ滑った。正面に立ったまま魔法を撃つ愚は犯さない。アレンの直線的な踏み込みを警戒し、最初から斜めの軌道で間合いをずらしている。

(ほう)

 アレンの目がわずかに細まる。

 昔なら、この一拍で喉元を取れていた。

 だが、今のルシアンは違う。詠唱を短い符号に圧縮し、発動後に逃げるのではなく、発動と同時に逃げ道を作っている。

「土、三式――【ストーン・ピン】」

 床から細い土の杭が三本、アレンの足元へ突き上がる。

 攻撃ではない。

 足場を選ばせるための杭だ。

 アレンは黒誠の柄を軽く握り直し、最小限の足さばきで杭の隙間を抜けた。

 瞬歩。

 草木一つ揺らさぬ重心移動で、一気に距離を詰める。

「読んでいたよ。水、一式――【アクア・ミラージュ】」

 ルシアンの声が、すぐ横から聞こえた。

 アレンの正面には、薄い水の膜。

 踏み込んだ瞬間に視界を歪める鏡面障壁だ。攻撃魔法ではなく、認識を半拍遅らせるための小細工。

 同時に背後から、火の弾丸が三発。

「火、二式――【フレイム・ビット】」

 アレンは黒誠を返し、火球の外殻だけを叩き割った。魔力殻が砕け、中の火が霧のように散る。

「やるじゃねえか」

「褒められると嬉しいけれど、まだ終わらないよ」

 散った火の霧が、今度は目隠しになった。

 その向こうから、風の刃が来る。

「風、四式――【ゲイル・スレッド】」

 ただし、刃そのものは浅い。狙いはアレンの腕でも脚でもない。黒誠の軌道をわずかにずらし、次の土弾を通すための布石。

 アレンは一歩引いた。

 その一歩を見て、ルシアンが笑う。

「君が下がった」

「得意げになるには早えですよ」

 アレンは黒誠を低く落とし、床を軽く叩いた。

 音は小さい。

 だが、その一打で足元の土弾の軌道が乱れた。魔法陣から伸びる魔力の流れを、物理的な衝撃で揺らしたのだ。

 土弾が狙いを外す。

 アレンはその崩れた隙を踏もうとして――火の霧の奥に残った、わずかな赤い筋を見た。

 火球を砕いた残り火。

 風糸に裂かれ、土弾のために散らされた魔力の残滓。

 ルシアンはそれを目隠しに使った。だが、アレンの目には違って見えた。暗がりで敵の位置を示す灯。踏めば焼ける火ではなく、逆に進むべき道を示す細い燐光。

(……なるほどな。火を避けるだけが、業火流じゃねえ)

 黒誠の表面に、ほんの一瞬、硝煙の臭いを帯びた赤黒い火花が散った。

 愛刀ではない。殺しの刃でもない。だが、アレンの中で、前の戦場から持ち越した理が、別の形へ組み変わる。

 迫る火の軌道を辿って斬り込むのが『硝煙ノ灯』なら。

 散らされた火の残滓を渡り、複数の魔法の隙間を抜けるのが、この型だ。

 業火流――『残火ノ渡り』。

 アレンは赤い残光の筋を足場のように読み、火霧、風糸、土弾の隙間へ身体を滑り込ませた。

 真正面。

 ルシアンの喉元へ、黒誠の切っ先が走る。

「盾、二重式――【ダブル・シールド】」

 二重の障壁が展開される。

 アレンの黒誠が一枚目を叩き割る。

 だが、二枚目は割れなかった。

 いや、割らせなかった。

 二枚目の障壁が、衝撃を受けた瞬間、柔らかくたわんだ。硬く受け止めるのではなく、風の膜を混ぜて衝撃を逃がしたのだ。防壁を壁ではなく、受け流す布のように使っている。

 黒誠の勢いが、わずかに流れる。

 その半拍。

 ルシアンの杖先が、アレンの胸元に向いた。

「光、一点――【ライト・ポイント】」

 眩い光が一点で弾けた。

 目潰し。

 アレンは目を閉じなかった。

 方円の檻。

 視界を奪われる寸前、周囲数メートルに張った気魄が、ルシアンの呼吸、杖の角度、足裏の逃げ道を捉える。

 アレンの身体が、光の中で沈んだ。

 ルシアンの魔法が胸元を掠める。

 黒誠が、下から跳ね上がる。

 ぴたり。

 その先端は、ルシアンの顎の下で止まっていた。

 だが、同時に。

 ルシアンの杖先も、アレンの脇腹へ触れていた。

 沈黙。

 エレノアが目を見開く。

「……相打ち?」

 ルシアンは肩で息をしながら、くすっと笑った。

「どうかな。僕の方が、少し遅かったかな」

「いいえ」

 アレンは黒誠を引いた。

「今のは、俺も脇腹を持っていかれています。実戦なら、俺はお前の顎を砕き、お前は俺の肋を焼く。どちらもただでは済まない」

 ルシアンの瞳に、静かな喜びが広がった。

「なら、少しは通じたかな」

「少しどころじゃねえですよ」

 アレンは息を吐き、黒誠を肩に担いだ。

「それに、今ので俺も一つ拾った」

「拾った?」

「お前が散らした火の残り香だ。目隠しに使うには上等だったが、俺には道に見えた」

 ルシアンが目を瞬かせる。

 観覧席のエレノアも、興味深そうに身を乗り出した。

「アレン、さっき黒誠に赤黒い火花が散ったわ。あれ、前に見た『硝煙ノ灯』とは違うわね」

「ええ。あれは、まだ形になりかけですが」

 アレンは黒誠の黒い刀身を見下ろす。

「業火流『残火ノ渡り』。放たれた火を逆に辿るんじゃなく、散った火の残滓を渡って、魔法の継ぎ目を抜ける型です」

「……僕の魔法が、君の新しい型の材料になったのかい?」

「ええ。いい稽古でした」

 ルシアンは一瞬だけ呆れ、それから楽しそうに笑った。

「それは光栄だね。次は、材料にされないように組み直すよ」

「昔のお前なら、最初の一歩で終わっていた。今は違う。詠唱を削り、魔法を細かい札みてえに切って、俺が踏む場所を先に削りに来た。視界、足場、得物の軌道、呼吸。全部を少しずつずらして、最後に杖を差し込んだ」

「ずいぶん褒めてくれるね」

「事実です」

 アレンの目が、獰猛に細まる。

「だが、まだ甘い」

「うん。そこを聞きたかった」

 ルシアンはすぐに真剣な顔へ戻った。

「それと、手札が増えたな。風で逃げるだけじゃなく、風を足に使い、土を杭にし、水を鏡にし、火を霧にし、光を針にした。魔法を大砲みたいに撃つだけの貴族連中とは、だいぶ違う」

「君にそう言われると、少し報われるよ」

「報われるのは大会で勝ってからです」

「最後の光。あれは良かった。だが、お前は光を当てた瞬間、勝ちを見た。相手が目を潰されたと決めつけた。その一瞬だけ、呼吸が緩んだ」

「そこを君は拾ったんだね」

「戦場じゃ、見えなくなった奴ほど怖い時がある。目が潰れても、耳がある。肌がある。殺気を読む奴もいる。勝ったと思った瞬間が、一番死に近い」

 ルシアンは黙って頷いた。

 その顔には、悔しさよりも学び取る喜びがある。

 エレノアが、感心したように水晶板を下ろした。

「いい稽古ね。どちらも化け物だけれど、方向がまるで違う」

「教授。今のは記録していませんよね」

「もちろん」

 エレノアはにっこり笑った。

「心に刻んだだけよ」

「最悪だ」

 ルシアンが苦笑し、アレンも小さく鼻で笑った。

 第三訓練場の防護結界が、ゆっくりと光を弱めていく。

 ルシアンは杖を下ろし、アレンへ向き直った。

「ありがとう、アレン。これで大会前に、自分の甘さがよく分かった」

「こちらこそ。いい目覚ましになりました」

「目覚まし?」

「ええ」

 アレンは黒誠を腰へ戻し、訓練場の壁に残る焦げ跡を見た。

「魔法競技大会。どうやら、退屈はしなさそうです」

 その声には、冷静な執事の響きと、戦場を前にした鬼の熱が同居していた。

 ルシアンは楽しそうに笑った。

「では、大会では僕が表で勝つ。君は裏で目を光らせる。いつも通りだね」

「ええ。表ではルシアン様が実力を見せつける。裏で妙な手を伸ばす連中がいれば、私が叩き落とす」

 その言葉に、エレノアの目がわずかに細まる。

 魔法競技大会。

 王族、他国貴族、辺境伯、有力貴族。

 華やかな観客が増えるほど、影もまた濃くなる。

 だが、この二人ならば。

 表の神童と、裏の鬼ならば。

 どんな舞台であろうと、ただの晴れ舞台では終わらせない。

 アレンは黒誠の柄に指を添え、静かに笑った。

 次の戦場は、華やかな拍手と歓声の中にある。

 ならば、その裏に潜む刃ごと、すべて見抜いてやるだけだった。

第89話をお読みいただきありがとうございました!


今回は、ルシアンの成長をどう見せるかが大事な回でした。

アレンがただ圧倒するのではなく、短縮詠唱と増えた魔法の手札で、ルシアンがちゃんと鬼の間合いへ届きかけるところまで描けたのが良かったかなと思います。

さらに、アレン側にも業火流『残火ノ渡り』という新型が生まれました。

相棒同士の真剣な手合わせ、やっぱり良いですね。


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