第87話:氷華の令嬢と、凍らぬ空白
第87話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、エレナ・ド・フロストハイム再登場の回です。
前回から続く虚孔の検証を受けて、氷属性の精密制御役としてエレナが呼ばれます。
アレンに助けられた借りを返したいのに、家の立場と誇りでなかなか素直になれないエレナにも注目していただけると嬉しいです。
虚孔反響試験から一夜明けた。
聖アイビス国立魔法学園の朝は、何事もなかったかのように澄み渡っていたが、アレンの周囲だけは少しばかり騒がしかった。
「アレン、今日は本当に無茶をしないでくれ」
男子寮の私室で、ルシアンは珍しく念を押すように言った。
机の上には、昨夜エレノアから渡された簡易報告書がある。黒銀の輪が示した三つの結果が冷たく記されていた。
反響不成立。
吸収先深度、測定不能。
容量推定、上限外。
「分かってる。今日は教授の呼び出しに応じる」
アレンは袖を整えながら、軽く肩をすくめる。
「その『だけ』が信用ならないんだよ」
「心外だな」
「昨日、測定具を一つ歪ませた人間の台詞じゃないね」
だが、ルシアンの目は笑っていなかった。昨夜、虚孔が測定不能と出た瞬間から、彼は静かな警戒を解いていない。
アレンは少しだけ視線を落とした。
「ルシアン。俺は、まだ壊れる気はねえよ」
「まだ、じゃない。ずっとだ」
短い言葉だった。
その言葉の重さに、アレンは一瞬だけ黙る。
「……善処する」
「絶対に善処で済ませないでくれ」
ルシアンがため息をついたところで、扉の外から控えめなノックが響いた。
学園の使い魔便だった。
封蝋には、深紅の薔薇と特級魔導書庫の印。
エレノアからである。
『アレン、ルシアン君。昨日の試験結果を受けて、安全制御のため氷属性協力者を一名呼んだわ。午後、第二封鎖実験室へ来なさい。なお、協力者は少々面倒な性格なので、丁重に扱うこと』
最後の一文を読んだルシアンが、微妙な顔をした。
「氷属性で、面倒な性格……」
アレンも心当たりに行き着き、わずかに眉を動かす。
「フロストハイム家令嬢か」
◇
午後。
特級魔導書庫の一角にある第二封鎖実験室は、昨夜の部屋よりも冷たかった。
壁には霜のような白い術式が走り、床には青銀の魔法陣が刻まれている。暴走した魔力を凍結固定するための巨大な箱らしい。
その中央に、白銀の縦ロールツインテールの少女が立っていた。
エレナ・ド・フロストハイム。
北方の絶対防衛を担う公爵令嬢。冷徹な氷を思わせるライトブルーの三白眼。
エレナは、アレンに借りがあった。
狂乱した亜竜の爪が自分の背を裂こうとしたあの森で、彼は迷わず割り込み、崩れかけた自分を抱き支えた。あの熱を、エレナの凍える素肌はまだ覚えている。
礼を言う機会は何度もあった。だが、フロストハイム家はグランヴェル家と敵対し、王宮審問会でも当主アルベールがアレンを糾弾した側にいた。家の意地が、平民の執事へ頭を下げるのを許さない。
だからエレナは、恩を返したいほど刺々しくなるしかなかった。
「遅いわよ、平民執事」
エレナは扇子をぴしりと開き、顎を上げた。
「この私を呼びつけておいて、待たせるなんていい度胸ね」
「お待たせして申し訳ございません、エレナ様」
アレンは完璧な執事の礼を取る。
「べ、別に謝罪が欲しかったわけじゃないわ! ただ、フロストハイム家の時間は氷結世界の防衛線と同じくらい厳密だと言っているだけよ!」
「それは失礼いたしました」
「だから、そうやってさらっと受け流すなと言っているのよ……!」
エレノアが横で楽しそうに笑っていた。
「相変わらず相性がいいわね、あなたたち」
「どこがですか!」
エレナが即座に叫ぶ。
ルシアンは苦笑しながら、場を整えるように一歩前へ出る。
「エレナ嬢。今日は協力に感謝します。昨日の試験で、アレンの虚孔が測定上限を超える可能性が示されました。エレノア教授によれば、氷属性による外部固定が必要だそうです」
「聞いているわ」
エレナの表情が、ようやく令嬢としての冷静さを取り戻した。
「虚孔。魔力を持たないはずの男の内側にある、底の見えない器。普通なら、魔法学の常識に反する存在ね」
ライトブルーの瞳が、アレンへ向く。
「……本当に、あなたは何なの」
「ただの執事です」
「ただの執事は、亜竜を斬ったり、測定具を壊しかけたりしないわよ」
「よく言われます」
「言われて済ませるな!」
エレナは耳の先まで赤くなった。だが、エレノアが黒銀の測定具を起動した瞬間、その瞳が鋭く細まる。
そこに立っていたのは、北方の盾を背負う氷の令嬢だった。
「私は何をすればいいの」
「簡単よ。アレンの周囲三メイルに、薄い氷結固定結界を張って。魔力が虚孔へ流れ込む時、外側から形だけを凍らせる。吸収そのものを止めるんじゃなく、流れの輪郭を見るための霜をつけるの」
「水蒸気で見えない風を読むようなものね」
「理解が早くて助かるわ」
エレナは片手を上げた。
足元から、薄く澄んだ魔法陣が広がる。
「【絶対不可侵・氷結世界】」
声は静かだった。
だが、発動した魔法は圧倒的だった。
アレンの周囲に、薄氷の檻が生まれる。閉じ込めるためではなく、外気、魔力、温度、微細な流れを可視化するための精密な膜。
アレンはその中央に立った。
肌を刺す冷気。
だが、不快ではない。
むしろ、戦場の空気が澄むような静けさがあった。
「始めるわ。火属性、極小量」
エレノアが魔力糸を伸ばす。
赤い魔力が、アレンの胸元へ向かう。
瞬間、氷結膜に霜の筋が走った。火の魔力がどこを通り、どこで消えたか。輪郭だけが一瞬、白く浮かぶ。
そして、消えた。
「……見えたわ」
エレナが呟く。
「胸の前で吸われた。でも、魔力が壊れた感じじゃない。温度が奪われたわけでもない。ただ、そこだけ氷が……凍ることを忘れたみたいに抜けている」
エレノアの目が細くなる。
「凍ることを忘れた、ね。いい表現だわ」
「褒められても嬉しくないわ」
「第二段階。氷属性、エレナ嬢自身の魔力で試すわ。量は最小。制御はあなたに任せる」
その言葉に、ルシアンがわずかに身構えた。
「教授、危険では」
「だから最小量よ。エレナ嬢の制御なら暴走はしない」
エレナは扇子を閉じた。
そして、アレンを見た。
「怖いなら、下がりなさい」
「ご心配ありがとうございます」
「心配なんかしてないわよ! ただ、私の氷で倒れられたら、フロストハイム家の沽券に関わるだけ!」
「では、倒れないよう努めます」
「本当に腹が立つ男ね……!」
そう言いながら、エレナの指先は震えていなかった。
細い氷の魔力が伸びる。
それは刃ではなく、糸だった。
慎重に、繊細に、アレンの虚孔の縁へ触れる。
次の瞬間、エレナの顔色が変わった。
「っ……!?」
氷の糸が、吸われた。
ただし、先ほどとは違った。エレナの氷結膜全体が、一瞬だけ内側へたわむ。目に見えない深い穴へ、部屋の冷気そのものが引き寄せられたかのようだった。
「エレナ嬢、切って!」
エレノアの声が飛ぶ。
エレナは即座に魔力糸を断ち切った。
だが、反動が彼女の体へ返る。
「くっ……!」
エレナの膝がわずかに崩れた。
アレンは考えるより先に動いていた。
瞬歩。
氷結膜の隙間を抜け、崩れかけたエレナの体を片腕で支える。
「大丈夫ですか」
低い声。
近い体温。
常に冷え切ったエレナの素肌に、アレンの手の熱が伝わった。
「ひゃ……っ」
エレナの顔が、氷結世界を溶かしかねないほど真っ赤になった。
「は、離しなさい! いえ、離したら倒れるから、今は離さなくていいけど、でもそういう意味ではなくて……!」
「どっちですか」
「聞き返すな、ばか!」
ルシアンが横で目を伏せた。
「アレン、今はそっとしてあげよう」
「支えた方がいいのか、離した方がいいのか」
「支えたまま、何も言わないのが正解かな」
エレノアは水晶板を確認しながら笑いを噛み殺している。
「青春ねえ」
「教授、記録に集中してください!」
エレナの叫びで、ようやく場が戻った。
水晶板には、新しい文字が浮かんでいた。
――氷属性接触時、外部固定結界に吸引反応。
――虚孔周辺、熱量低下なし。
――凍結不成立領域、発生。
エレノアは、楽しげな表情を消した。
「凍結不成立領域……つまり、虚孔の縁では氷魔法が凍らせる対象を見失っている。温度を奪えないんじゃない。奪うべき熱の所在そのものが、消える」
エレナはアレンの腕から離れ、乱れた髪を整えた。
まだ頬は赤い。
しかし、その瞳には研究者めいた真剣さがあった。
「私の氷は、対象の熱と魔力の動きを捕まえて固定する魔法よ。それが、あの瞬間だけ掴めなかった。平民執事、あなたの中には、冷たさも熱さも届かない場所がある」
「困りましたね。私としては、腹の底まで冷やされる覚悟だったのですが」
「冗談を言っている場合じゃないわ」
エレナは珍しく、まっすぐにアレンを見た。
「あなた、それを放っておいたら危ないわよ」
言葉はきつい。
だが、その奥にあったのは、確かな心配だった。
アレンは少しだけ目を細める。
「エレナ様にそこまで気にかけていただけるとは、光栄です」
「違う! あなたが壊れたら、私が命を助けられた借りを返せなくなるから困るだけよ!」
「なるほど。借りですか」
「そうよ、借りよ! あの森で、私はあなたに助けられた。……本当は、もっと早く返すべきだった」
エレナは悔しげに唇を噛む。
「でも、我がフロストハイム家はグランヴェル家と対立していた。父も、審問会ではあなたを責める側に立った。だから私が軽々しく礼を言えば、家の誇りを曲げることになる。……本当に、面倒な家に生まれたものだわ」
扇子を握る指が、わずかに震えた。
「だからこれは礼じゃない。借りを返すための監視よ。あなたが勝手に壊れたら、私は一生、借りを返せなくなる。あなたの異常は私が見張る」
言い切ってから、エレナは自分の台詞に気づいたように固まった。
エレノアがにやりと笑う。
「あら、助手が一人増えたわね」
「助手じゃないわ! 監視よ、監視!」
「監視役が多いな、私は」
アレンがぼそりと呟く。
ルシアンは、少しだけ安堵したように笑った。
「いいことだよ。君は、それくらい見張られていた方がいい」
実験はそこで中止となった。だが、成果は十分だった。
虚孔の縁には、氷魔法が凍らせるべき熱量や魔力の輪郭を見失う空白がある。
エレナは退出の直前、扇子で口元を隠しながらアレンへ振り返った。
「次の実験にも、私を呼びなさい」
「よろしいのですか。危険かもしれません」
「危険だから呼びなさいと言っているのよ」
ライトブルーの瞳が、真っ直ぐにアレンを射抜く。
「あなたのような非常識な男を、エレノア教授一人に預けておけないわ。ルシアン様も心労で倒れてしまうでしょうし」
「お気遣い、痛み入ります」
「べ、別にあなたを気遣っているわけではないわ!」
叫ぶように言い残し、エレナは白銀の髪を揺らして去っていった。
その背中を見送りながら、エレノアが小さく笑う。
「いい子ね。面倒だけれど」
「ええ。面倒ですが、腕は確かです」
アレンは淡々と答えた。
だが、胸の奥では、先ほどの氷の感触がまだ残っていた。
冷たさも熱も輪郭も見失う空白。そこにあるものは、穴なのか、器なのか。それとも、自分という存在がこの世界へ落ちた時に開けた傷なのか。
答えは、まだ出ない。ただ一つ、この謎はもうアレン一人のものではなくなりつつあった。
ルシアンが見ている。
エレノアが測っている。
そして、氷の令嬢までもが、その冷たい指先で、虚孔の縁に触れてしまった。
静かな学園の奥で、魔力ゼロの執事を巡る輪は、また一つ広がっていく。
第87話をお読みいただきありがとうございました!
今回は、エレナのツンデレ感と、氷魔法による検証描写のバランスを書くのが楽しい回でした。
特に、助けられた借りを返したいのに意地が邪魔をするエレナと、アレンに支えられて一気に崩れる反応は可愛く書けたかなと思います。
一方で「凍結不成立領域」という新しい不穏な要素も出てきました。
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