第85話:失われた十年と、虚孔の仮説
第85話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、白鐘療養院事件後のミレイの処遇と、学園長からの報酬回です。ミレイが特別編入生として学園に戻る一方で、失われた十年の重さも描いています。
白鐘療養院の一件から、数日が過ぎた。
聖アイビス国立魔法学園は、表向きには平常を取り戻しつつあった。講義は再開され、庭園には生徒たちの笑い声が戻り、白亜の校舎は何事もなかったかのように朝日に輝いている。
だが、その水面の下では、確実に何かが変わっていた。
精神魔法系の一部講義は一時停止。旧礼拝堂周辺は封鎖継続。白鐘慈療会と関係の深い講師や医療関係者には、学園長直属の監査が入った。貴族の子弟たちは、いつものように噂話をしている。だが、その声には以前ほどの傲慢な熱がない。
眠っていた患者たちが本当にいたこと。
白鐘療養院の地下が存在したこと。
そして、魔力を持たない平民の執事が、その地獄から人を連れ戻したこと。
噂は、もはや笑い話では済まなくなっていた。
そんな学園の片隅、平民特待生用の女子寮。
ミレイ・アルノーは、真新しい制服を膝の上に置いたまま、寝台の端に座っていた。
髪はまだ痩せた頬にかかり、体は細い。だが、療養院の白い毛布ではなく、学園の柔らかな部屋着を着ているだけで、少しだけ人間らしい温度が戻って見えた。
「えっと……本当に、ここにいていいの?」
ミレイが遠慮がちに尋ねる。
部屋の反対側で荷物を整理していたリナが、振り返ってにかっと笑った。
「いいに決まってるでしょ。学園長が決めて、寮監も許可して、ルシアン様も保証人になってるんだから。文句言う奴がいたら、私が木刀で黙らせるわ」
「木刀で……?」
「うん。魔法より早い時もあるから」
あまりにも真顔で言うものだから、ミレイは一瞬ぽかんとし、それから小さく笑った。
その笑いに、リナの表情が少しだけ柔らかくなる。
学園側の処置は、復学ではなく「特別編入」だった。
ミレイは十年前、確かにこの学園の平民特待生だった。だが、在籍記録は旧礼拝堂の事故後に不自然な形で凍結され、肉体も時間も、学園の通常規則では説明できないほど歪んでいる。十年前の生徒をそのまま同じ学年に戻すには、あまりにも現実が捻じれていた。
だから学園長は、彼女を「白鐘事件被害者にして、特別保護対象の編入生」として扱うと決めた。
当面は講義参加を自由選択とし、体力の戻り具合を見ながら、基礎講義と生活訓練から始める。寮は、同じ平民特待生であり、実戦にも理解のあるリナの部屋を相部屋とする。
形式は冷たい。
だが、それはミレイに、もう一度学園の席を与えるための、精いっぱい現実的な処置だった。
「リナさんは、怖くないの?」
「何が?」
「私、十年も眠ってて、変な実験に使われてて……たぶん、普通じゃないから」
リナは荷物を置き、ミレイの前にしゃがみ込んだ。
「普通じゃないのは、あんたをそんな目に遭わせた奴らでしょ。ミレイは被害者。そこを間違えちゃだめ」
それは、どこかアレンに似た言い方だった。
ミレイは目を伏せ、膝の上の制服をぎゅっと握る。
「……私、家に帰れるのかな」
リナは返事をしなかった。
ちょうどその時、部屋の扉が静かに叩かれた。
「リナ。入っていいか」
アレンの声だった。
リナが立ち上がり、扉を開ける。そこにいたのは、アレンとルシアン、そして学園の事務官だった。アレンの表情は、いつもよりわずかに硬い。
ミレイはそれだけで、何かを察した。
事務官は封蝋のついた薄い書類を胸元に抱えている。古い戸籍記録と、死亡届の写しだった。
「ミレイ・アルノーさん」
ルシアンが膝を折り、目線を合わせる。
「君のご両親について、知らせが届いた」
部屋の空気が止まった。
ミレイの指先が、白くなる。
ルシアンは言葉を選びながら、しかし逃げずに告げた。
「君が行方不明になった後、ご両親は長い間、君を探していたそうだ。学園、王都、教会、療養施設。あらゆる場所へ願い出て、何度も門前払いにされた」
「……お父さんと、お母さんが」
「うん」
ルシアンの声が、少しだけ低くなる。
「けれど、君を見つけられなかった。数年後、二人は……自ら命を絶ったと記録されている」
ミレイは、声を出さなかった。
泣くより先に、息が止まったように見えた。
リナが反射的に手を伸ばしかける。だが、アレンが目だけで止めた。
今、抱きしめれば壊れる。
そういう沈黙だった。
「私が……帰らなかったから」
ミレイの唇が震える。
「私が、見つからなかったから……」
「違う」
アレンの声が落ちた。
低く、短く、容赦がなかった。
「お前が悪いんじゃねえ。お前を隠した奴が悪い。探す親を門前払いにした奴が悪い。生きる意味を削り取った奴が悪い。そこを間違えるな」
「でも……」
「でもじゃねえ」
アレンは一歩だけ近づいた。
「お前が生きて戻ったことまで、親の死の理由にするな。二人が命懸けで探した娘が、今ここにいる。なら、お前がやることは一つだ」
ミレイが涙で滲んだ目を上げる。
「生きろ」
アレンは言った。
「泣いてもいい。恨んでもいい。飯が喉を通らねえ日があってもいい。だが、生きることだけはやめるな。お前の親が探していたのは、墓じゃねえ。生きてるお前だ」
ミレイの顔が歪んだ。
次の瞬間、堰を切ったように泣き出した。
リナが今度は迷わず抱きしめる。ミレイの細い体は、リナの腕の中で震え続けた。
ルシアンは目を伏せる。
アレンは何も言わず、窓の外を見た。
白い学園の空は、今日も残酷なほど青かった。
◇
その日の午後。
アレン、ルシアン、クロードの三人は、学園長室へ呼び出されていた。
重厚な机の向こうで、ヴァルター・フォン・アインハルト学園長は、深く頭を下げた。
「今回の件、君たちの働きがなければ、白鐘療養院の被害者は一人も戻らなかっただろう。学園長として、心から礼を言う」
「学園長が頭を下げる必要はありません」
ルシアンが穏やかに応じる。
「責任の所在はこれから明らかにするべきです。ですが、今は患者たちの保護と、ミレイさんの生活再建が先です」
「うむ。その通りだ」
学園長は頷き、机の上へ二冊の魔導書を置いた。
一冊は、深い青の革表紙。
もう一冊は、銀糸で封印された薄い黒表紙。
「ルシアン君。君には、古代多重詠唱に関する原典写本を渡す。現代魔法では非効率として捨てられた理論だが、君なら戦術指揮へ組み込めるだろう」
「ありがとうございます。大切に読み解きます」
「クロード君。君には、精神魔法の防護倫理と、被害者の記憶保全に関する禁閲書を許可する」
クロードは一瞬、息を止めた。
「私に、それを?」
「君が逃げないと決めたなら、学ぶべきだ。精神魔法は、人を壊すためだけのものではない」
クロードは深く頭を下げた。
「……肝に銘じます」
最後に、学園長は古い木箱を取り出した。
アレンの三白眼がわずかに細くなる。
「これは」
「超人薬・金剛丹。以前、君に渡したものと同じ系統の秘薬だ。ただし、これは未服用のまま残されていた最後の一粒。二度目の服用は、肉体をさらに作り替える可能性もあるが、逆に壊す可能性も高い」
ルシアンの顔が険しくなる。
「学園長。それをアレンに渡すのは危険では」
「危険だ。だからこそ、私の手元に置くより、本人へ渡す」
学園長はアレンを見た。
「君は、自分の身を切る危険物を、仲間のために使う男だ。だから、あえて言う。飲めとは命じない。使うなとも言わない。研究材料にするも、切り札にするも、封じるも、君が決めなさい」
アレンは木箱を受け取った。
「随分と物騒な褒美ですね」
「君に穏当な褒美を渡しても、茶菓子代にしかならんだろう」
「否定はしません」
アレンは不敵に笑い、木箱を懐へ収めた。
◇
学園長室を出た後、三人は廊下を歩いていた。
ルシアンが小さく息を吐く。
「アレン。絶対に勝手に飲まないでくれ」
「二人きりでもねえのに、ずいぶん心配性だな、ルシアン様」
「今は冗談で済ませないよ」
ルシアンの声は穏やかだが、目は本気だった。
アレンは肩をすくめる。
「分かってる。今の体を壊すほど馬鹿じゃねえ。使い道は考える」
「本当に?」
「本当に」
クロードが横から苦笑する。
「その言い方、すでに危険な研究へ持ち込む気に聞こえますね」
「黙ってろ、精神糸」
「扱いが雑ですね」
そんな軽口を交わしていた時だった。
廊下の先、深紅のドレスを揺らしながら、エレノアが待っていた。
その手には、見慣れない黒銀の輪がある。特級魔導書庫の最深部で使われる、封印測定具の一種だ。
「ちょうどよかったわ、アレン」
エレノアは艶然と微笑んだ。
だが、その瞳は研究者のそれだった。好奇心と警戒が、同じ温度で燃えている。
「白鐘中枢、黒い水晶片、そして第零鐘の残滓。あなたの虚孔について、少し仮説が立ったわ」
ルシアンの眉が動く。
「仮説?」
「ええ。虚孔には、おそらく二つの性質がある。一つは、魔力を溜めるための器としての性質。もう一つは、流れ込んできた魔法を内側へ吸い込み、形をほどいて無力化する性質よ」
エレノアは黒銀の輪を指先で回した。
「ただし、器である以上、容量がある。受け止められる量を超えれば、無力化しきれずに壊れるか、逆に中から呑まれる。今回の精神鐘は、あなたの虚孔が容量内で吸収し、精神干渉として成立する前に無力化していた可能性が高い」
ルシアンの顔が険しくなる。
「つまり、アレンは精神魔法を完全に弾いたわけじゃない。受け止めて、内側で消していた……?」
「そういうこと。だから黒鐘卿は、あなたを成功例ではなく、原型と呼んだのかもしれない」
アレンは無言でエレノアを見る。
「そこで、新しい実験よ」
エレノアは黒銀の輪を掲げた。
「名付けて、虚孔反響試験。第零鐘にこちらから辿れないなら、あなたに残った鐘の傷跡を逆に測る。もちろん危険はあるわ」
「でしょうね」
フェリスなら即座に止めただろう。ルシアンも、明らかに止めたそうな顔をしている。
だが、アレンは短く笑った。
「面白え。鐘が俺を鳴らそうってんなら、その舌を先に掴んでやる」
「アレン」
ルシアンの声が硬くなる。
アレンは振り返らず、ただ片手をひらひらと振った。
「心配すんな。勝手に死ぬ気はねえよ」
白鐘療養院の闇は、一度幕を下ろした。
ミレイは学園へ戻り、失ったものを抱えながら、新しい部屋で眠る。
ルシアンは表から学園を立て直し、クロードは精神魔法の責任を背負う。
そしてアレンは、また別の戦場へ足を踏み入れる。
学園は変わり始めていた。
その変化の中心で、魔力ゼロの執事は、次に鳴るはずだった鐘の喉元へ、静かに刃を向けていた。
第85話をお読みいただきありがとうございました!
今回はミレイの両親の知らせを書くのがとても重い場面でした。救われたから終わりではなく、失われた時間をどう抱えて生きるのか、というところを大事にしています。
リナが相部屋として支えてくれるところは少し救いになりましたし、アレンの「生きろ」は彼らしい厳しい優しさになったと思います。
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