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第84話:白鐘の朝と、第零鐘の影

第84話をお読みいただきありがとうございます!

今回は、白鐘療養院から救出された患者たちと、十年ぶりに目覚めたミレイのその後。そして、黒い水晶片から判明する「第零鐘計画」の影を描いています。

 白鐘療養院の庭に、臨時の治療天幕が並べられていた。

 夜明けの光は、白い建物の壁を綺麗に照らしている。だが、その清潔な外観の下に隠されていた地下の罪を知ってしまえば、もう誰もこの場所を神聖な療養施設とは見られなかった。

 治療魔法師たちが、運び出された患者を一人ずつ診ている。十年、五年、あるいは数か月。眠りの深さは違っても、彼らの顔には同じ疲労が刻まれていた。鐘に夢を削られた者たちの、空白の疲れだ。

 その天幕の端で、ミレイ・アルノーは毛布に包まれていた。

 十年ぶりに戻った肉体は、まだ自分のものではないように細く、指先を動かすだけでも息が乱れる。それでも彼女は、何度も何度も手を開き、閉じた。

「……動く」

 小さな声だった。

 フェリスはその横に立ち、表情を消したまま水差しを差し出した。肩には治療布が巻かれている。地下で天井片を受けた傷だ。

「無理に動かさないでください。筋力が落ちています。まずは呼吸と嚥下の確認からです」

「えんげ……?」

「飲み込む力です」

「……メイドさん、難しい言葉を知ってるんですね」

「当然です。ルシアン様に仕える者として、基礎教養です」

 淡々と答えるフェリスの横顔を、ミレイは少しだけ眩しそうに見た。

「私、また眠らされるのかな」

 その一言で、天幕の空気がわずかに冷えた。

 フェリスが返答に迷うより早く、低い声が落ちる。

「眠りたい時以外は、寝なくていい」

 アレンだった。

 白い治療天幕の入口に立つ彼は、いつもの執事服へ戻っている。だが、袖口から覗く手のひらには、黒い水晶片を掴んだ時の火傷が赤黒く残っていた。

「ここから先、お前を勝手に使おうとする奴がいたら、俺が許しませんよ。だから今は、飯を食って、息をして、空を見てろ」

 ぶっきらぼうな言い方だった。

 それでもミレイは、目を潤ませて小さく頷いた。

「……はい」

「アレンさん」

 少し離れた寝台の横から、クロードが声をかけた。

 彼の顔色はまだ悪い。患者たちの意識を肉体へ戻すために銀糸を使い続けた反動で、指先が細かく震えている。それでも目だけは眠っていなかった。

「患者たちの精神は、完全ではありませんが戻り始めています。ただ、鐘に削られた部分の回復には時間がかかる。白鐘療養院の職員たちは、記録の多くを処分していました」

「処分しきれなかったものは」

「ルシアン様が押さえています」

 クロードの視線の先。

 庭の中央では、ルシアン・ド・グランヴェルが学園の武装教官と治療魔法師、そして白鐘療養院の職員たちを前に立っていた。

 彼は声を荒らげない。

 しかし、柔らかな口調の奥にある公爵家嫡男としての圧は、職員たちの言い逃れを一つずつ封じていた。

「患者保護を名目にした記録隠蔽、外部査察の妨害、地下区画の未申告増築。すべて正式に調査します。協力する者は保護します。抵抗する者は、白鐘慈療会の名ごと裁きの場へ出てもらう」

「我々は、患者のために」

「患者のため、ですか」

 ルシアンは静かに笑った。

「では、その患者たちの名前を、あなたは全員言えますか」

 職員の顔から血の気が引いた。

 表ではルシアンが、裏ではアレンが、互いを信じてそれぞれの役目を全うする。その噛み合いを見て、フェリスは無意識に背筋を伸ばした。

(やはり、ルシアン様の隣に置くには危険すぎる男です。ですが……)

 彼女の琥珀色の瞳が、アレンの手の火傷へ落ちる。

(その危険が、敵にだけ向いている間は、これほど頼もしい刃もない)

「何を見てる、サボりメイド」

「監視です。貴方がまた勝手に危険物を素手で掴まないように」

「怪我人に言われる筋合いはねえな」

「私は任務上必要な負傷です」

「俺も任務上必要な火傷だ」

「屁理屈です」

 静かな言い合いに、ミレイが小さく笑った。

 その笑い声は弱い。けれど、地下では決して聞けなかった、生きた人間の音だった。

「楽しそう……」

「どこがですか」

 フェリスが真顔で聞き返すと、ミレイは毛布の中で少しだけ肩を揺らした。

 その時、庭の奥から深紅のドレスが揺れた。

 エレノア・フォン・ローゼンバーグが、黒い水晶片を浮かべた小型の魔法陣を手に歩いてくる。普段のだらしない私生活を知る者なら信じがたいほど、その表情は冷えていた。

「アレン、ルシアン君。解析が一部終わったわ」

 ルシアンが職員たちへの指示を教官へ引き継ぎ、こちらへ戻る。

「何が分かりましたか、教授」

「まず、この水晶片は記録媒体じゃない。正確には、記録の抜け殻ね。黒鐘卿は中枢崩壊の直前に大半を転送している。けれど、転送の縁に焼きついた残滓だけは残っていた」

 エレノアが指を鳴らす。

 水晶片の奥に、黒い文字が滲んだ。

『白鐘揺籃、破損』

『緩衝体、回収失敗』

『原型適合率、再計算』

『第零鐘、同期準備へ移行』

 クロードの表情が強張る。

「白鐘揺籃……。つまり、この療養院は本体ではない」

「ええ」

 エレノアは低く答えた。

「白鐘は、患者の夢や恐怖を削って空白を作る揺り籠。第零鐘は、その空白をどこかへ同期させる親鐘、あるいは中枢装置と見るべきね」

「人工虚孔の量産か」

 アレンの声が冷えた。

 ミレイが怯えたように毛布を握る。アレンはそれに気づき、言葉を少しだけ落とした。

「お前のせいじゃねえ。あいつらが勝手にやったことだ」

「でも、私の体を使っていたなら……」

「使われた側が、使った奴の罪まで背負うな」

 短く、断ち切るような声だった。

 ミレイは唇を震わせ、それからゆっくり頷いた。

「……私、話します」

 誰も急かしていない。

 それでも、彼女は自分の指を握りしめた。

「黒い先生のこと。仮面の人のこと。白い部屋で聞こえていた鐘のこと。全部、覚えている分だけ話します。怖いけど……また黙っていたら、他の誰かが眠らされるから」

 クロードが目を伏せた。

「ミレイさん。証言は、私が精神記録として補助します。ですが無理はさせません」

「ありがとう、クロードさん」

 その名を呼ばれた瞬間、クロードの指がわずかに止まった。

 彼は精神魔法の名家の跡取りだ。旧礼拝堂の事件にも、白鐘療養院にも、その家の影は薄くない。直接の加害者でなかったとしても、学んできた術の延長線上に、この地獄があった。

「私は……謝って済む立場ではありませんね」

「そうだな」

 アレンは容赦なく言った。

「だから謝って終わらせるな。お前が学んだ精神魔法で、眠っていた奴らを起こせ。記録を残せ。逃げた奴の首筋まで糸を伸ばせ」

 クロードは息を呑み、それから苦笑した。

「本当に、人使いが荒い」

「使える奴を使ってるだけだ」

「光栄ですね」

 その声には、少しだけ力が戻っていた。

 ルシアンが水晶片を見つめる。

「教授。第零鐘の位置は読めますか」

「断片的にね。座標そのものは焦げ落ちている。けれど、転送先の魔力環境が少し残っていた」

 エレノアが魔法陣を拡大する。

 浮かんだのは、地図ではなかった。

 水の音。

 古い石壁。

 王都の地下を流れる水路の匂い。

 そして、遠くで揺れる、音のしない黒い鐘。

「王都地下水路……?」

 フェリスが呟く。

「ええ。ただし、王都の地下水路は古い王城時代のものまで含めれば迷宮よ。正式な地図に載っていない枝道も多い」

「隠れるには都合がいいな」

 アレンは火傷した手を握った。

 掌の痛みが、黒い水晶片の残した熱を思い出させる。敵が逃げた先は遠い。だが、確かに血の匂いは続いている。

 ルシアンは静かに頷いた。

「僕は、白鐘療養院の押収資料と慈療会の資金の流れを洗う。王都地下水路への立ち入り許可も、父上と学園長へ正式に通すよ」

「時間がかかるな」

「表の手続きにはね」

 ルシアンは困ったように笑う。

「だから、その間に君は休んでくれ。特にその手」

 アレンはわずかに目を逸らした。

「かすり傷だ」

「黒い水晶を素手で握って焼けた手を、かすり傷とは言わない」

「うるせえな」

 二人きりではない。だからアレンは、それ以上は言わなかった。

 けれど、ルシアンには分かっていた。

 アレンは休まない。

 黒の円卓が次の鐘を鳴らそうとしている限り、あの男は眠るより先に刃を研ぐ。

 だからこそ、ルシアンは自分の役目を間違えない。

「アレン」

 公的な場で、あえて名を呼ぶ。

「君が持ち帰ったものは、十分すぎる戦果だ。ここから先は、僕が表で道を作る。君は、その道が開いた瞬間に一番深く斬り込めるようにしておいて」

 アレンは一瞬だけ黙った。

 それから、口元を不敵に吊り上げる。

「了解しました、ルシアン様」

 完璧な執事の礼。

 だが、その声の底には、相棒にだけ通じる獰猛な熱があった。

 その時、水晶片が最後に一度だけ震えた。

 黒い文字が、空中に滲む。

『第零鐘同期対象、再選定』

『原型、優先』

 全員の視線が、アレンへ向いた。

 アレンは火傷した掌を開き、黒い文字を睨む。

「俺を鳴らす鐘だと?」

 低く笑う。

「面白え。鳴る前に、叩き割ってやる」

 白鐘療養院の朝は静かだった。

 だが、その静けさの下で、王都の地下に眠る次の鐘が、音もなく目を覚まそうとしていた。

第84話をお読みいただきありがとうございました!

今回は戦闘後の静かな回ですが、ミレイが自分の指を動かして「生きて戻ってきた」と実感するところ、フェリスとアレンのいつものような掛け合い、そしてルシアンが表でしっかり場を押さえる場面が書いていて印象的でした。

白鐘療養院は終わりましたが、黒の円卓の計画はまだ終わっていません。次は「第零鐘」と王都地下水路が大きな鍵になっていきます。

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