第83話:崩れる白鐘と、表の旗
第83話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、崩壊する白鐘中枢からの脱出回です。
前回ミレイを目覚めさせたアレンたちが、今度は患者たちの意識を連れて地上へ戻ります。
アレンの殿と、ルシアンの表からの動きにも注目していただけると嬉しいです。
白鐘中枢が、悲鳴を上げていた。
逆さ鐘に走った亀裂から、黒い光が滲み出す。天井から垂れていた精神導管が蛇のように暴れ、壁際の棺を叩き、床を割り、眠る患者たちの胸元へ再び食い込もうとしていた。
「クロード、先に行け。殿は俺が引き受ける」
アレンはミレイをフェリスへ預けると、和泉守兼定を片手で構え直した。
「ですが、患者の意識を戻すには私の糸が」
「だから先に行けって言ってんだ。お前が倒れたら全員終わる」
クロードは一瞬だけ唇を噛み、すぐに頷いた。
「分かりました。フェリスさん、ミレイさんを」
「任せなさい」
フェリスはミレイの細い身体を抱き上げた。普段なら無表情を崩さない彼女の腕が、ほんのわずかに慎重になる。まるで陶器ではなく、火の消えかけた小さな灯を抱くように。
「……ごめんなさい」
ミレイが掠れた声で呟く。
「私、また、迷惑を……」
「黙って生きてろ」
アレンは振り返らずに言った。
「礼も詫びも、無事に生き残ってからだ」
ミレイの喉が小さく震えた。それが泣き声なのか、笑い声なのか、彼女自身にも分からなかった。
クロードが両手を広げる。
銀色の精神感応糸が、白い広間の棺へ一斉に伸びた。糸は患者の額に触れ、耳元に触れ、眠りの底に沈んだ意識へ細く道を作っていく。
「起きてください。まだ、戻れます。あなたの心は、鐘のものではない」
それは叫びではなく、祈りに近い声だった。
壁際の棺の中で、老人の指が動く。若い女の眉が震える。少年が苦しげに息を吸う。
ひとつ意識が戻るたび、クロードの銀糸が淡く光り、ぷつりと解けた。鐘に奪われたものが、肉体へ戻っていく手応えだった。
だが、逆さ鐘はそれを許さない。
黒い導管が束になってクロードへ殺到した。精神を引きずり戻すための縄。触れれば、クロード自身が中枢の中へ沈む。
「行け」
アレンの声と同時に、兼定が奔った。
導管を斬る。だが、深くは断たない。患者へ反動が返らぬよう、節だけを裂き、流れだけを止める。斬るというより、血管の上から毒だけを抜くような刃筋だった。
白い火線が、背後から走る。
残った白鐘の守り手たちが、崩れた壁から這い出していた。胸の黒い鐘紋が開き、精神を焼く白い火を吐く。
アレンは息を吐く。
火の軌道が見える。
ならば、道も見える。
「硝煙ノ灯」
赤黒い炎が、兼定の白刃に灯った。
アレンは白い火線を恐れず、その光を逆に辿る。瞬歩。床の亀裂へ力を吸わせ、草木一本揺らさぬはずの歩法を、崩壊する石床の上で無理やり成立させる。
白い守り手の懐へ入る。
赤黒い刃が、火線の根元ごと首核を断った。
火が消える。
だが、一体を斬れば、二体が来る。二体を斬れば、壁からさらに三体が剥がれ落ちる。
「しつけえな」
アレンは獰猛に笑った。
白鐘中枢そのものが、最後の防衛として残った精神の殻を絞り出している。無理に斬れば患者へ返る。雑に叩けば棺が壊れる。面倒な戦場だった。
だからこそ、燃える。
「フェリス!」
「退路、開けました!」
フェリスは片腕でミレイを支えながら、もう片方の手で扉の封印を切っていた。紫煙の針が蝶番に刺さり、薬草由来の腐食毒が白い魔導金具だけを溶かす。
崩れた天井片がミレイへ落ちかけた瞬間、フェリスは自分の肩でそれを受けた。白い外套が裂れ、血が滲む。それでも彼女は眉一つ動かさない。
扉が軋み、出口へ続く白い廊下が開いた。
「クロードさん、先へ!」
「患者の意識を繋いだまま走るのは、なかなか無茶ですね……!」
「できるから連れてこられたのでしょう」
「あなたまでそれを言いますか」
クロードは苦笑しながら走り出した。銀糸の束が背後の棺へ繋がり、次々と患者の意識を浅い眠りへ引き上げていく。完全に目覚めさせる必要はない。鐘から剥がし、肉体へ戻す。それだけでいい。
アレンは最後に残った。
逆さ鐘が、ひときわ大きく脈打つ。
黒い鐘紋が空中に浮かび、文字を形作った。
『原型、回収不能。観測記録、転送完了』
「逃げ足だけは一人前だな、黒鐘卿」
アレンは舌打ちした。
床に落ちていた黒い水晶片を、兼定の切っ先で弾き上げ、素手で掴む。焼けるような痛みが掌を刺したが、アレンは離さなかった。完全な記録ではない。だが、逃げた敵が消し損ねた欠片なら、クロードかエレノアが読める。
次の瞬間、逆さ鐘が内側から爆ぜた。
黒い衝撃が広間を満たす。
アレンは背を向けた。
縮地。
白い廊下へ飛び込み、崩れ落ちる天井の下を駆け抜ける。背後から迫る黒い波が、あと半歩で背中を掴む。
前方で、フェリスが振り返った。
「アレン!」
「呼び捨てとは偉くなったな、サボりメイド」
「今それを言う場面ですか!?」
アレンは笑い、最後の白い守り手を蹴り飛ばして廊下の壁へ叩きつけた。
地上へ続く石段が見える。
しかし、その上から複数の足音が降りてきた。
白鐘療養院の職員たちだ。白衣を着た男たちが、杖を構え、青ざめた顔で叫ぶ。
「止まれ! 患者を連れ出すな! ここは白鐘慈療会の管理施設だぞ!」
フェリスの目が冷える。
「退きなさい。ルシアン様の調査対象です」
「調査だと? そんなもの、我々は認めていない!」
男の一人が杖を掲げた。
アレンの三白眼が細くなる。
「まだ邪魔する気か」
その瞬間、地上側の扉が轟音とともに開かれた。
朝の光が、地下の階段へ流れ込む。
「そこまでです」
穏やかで、しかし一切の反論を許さない声。
階段の上に立っていたのは、ルシアン・ド・グランヴェルだった。
その背後には学園の武装教官たち、白い外套をまとった治療魔法師、そしてエレノア・フォン・ローゼンバーグの姿がある。さらにルシアンの手には、公爵家と学園長の封蝋が押された正式な調査令が握られていた。
「白鐘療養院は、聖アイビス国立魔法学園の生徒および王国民に対する重大な精神魔法犯罪の疑いにより、ただ今より学園長権限とグランヴェル公爵家の監督下に入ります」
白衣の男たちが絶句する。
「ば、馬鹿な……そんな権限が」
「ありますよ」
ルシアンは微笑んだ。
その笑みは優しい。だが、冷たい。
「あなた方が患者保護を盾に隠していたものを、僕の秘書が命がけで持ち帰ってくれました。ここから先は、表の仕事です」
アレンは階段の下から、わずかに口元を吊り上げた。
「遅かったじゃねえか」
その声は小さかった。周囲の職員には届かない。
ルシアンだけが、少し困ったように笑う。
「君が早すぎるんだよ」
フェリスがミレイを治療魔法師へ預ける。ミレイは薄く目を開け、朝の光を見た。
「……空」
たった一言だった。
十年ぶりに見る、地下ではない光。
ミレイは眩しさに目を細めた。涙が頬を伝っても、彼女はまばたきすら惜しむように、青い色を見上げ続けていた。
その一言に、誰もすぐには返せなかった。
クロードは階段の壁にもたれ、銀糸を震わせながら最後の患者たちの意識を肉体へ戻していた。彼の顔は蒼白だが、目だけは逃げていない。
「患者の意識、戻り始めています……ただ、治療が必要です。全員、すぐに」
「任せて」
エレノアが短く答えた。
彼女の魔法陣が階段の上へ広がり、眠る患者たちを運び出すための淡い光が走る。
アレンは懐の黒い水晶片を取り出し、ルシアンへ投げた。
「黒鐘卿の置き土産だ。完全じゃねえが、何か読めるはずだ」
ルシアンは受け取り、表情を引き締める。
水晶片の奥に、黒い文字が一瞬だけ浮かんだ。
『第零鐘計画』
『原型適合率、更新』
ルシアンの瞳がわずかに細くなる。
「……まだ、終わっていないね」
「ああ」
アレンは兼定を鞘へ収めた。
赤黒い炎はもうない。
だが、その黒い瞳の奥には、白鐘中枢の崩壊よりも深い闘志が残っていた。
「向こうが記録を取るなら、こっちは首を取るだけだ」
朝の光の中、白鐘療養院の鐘が初めて風に揺れた。
だが、音は鳴らない。
その沈黙こそが、この施設で十年分積み上げられた罪の重さを、何より雄弁に物語っていた。
第83話をお読みいただきありがとうございました!
今回は、地下で泥をかぶるアレンと、表で正式な旗を立てるルシアンの対比を書くのが楽しい回でした。
ミレイが十年ぶりに空を見る場面は、短い一言と涙の描写をかなり大事にしています。
一方で、黒鐘卿の記録と「第零鐘計画」が残り、まだ完全解決ではない不穏さも出しました。
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