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第78話:眠る証人と、黒衣の教師

第78話をお読みいただきありがとうございます!

今回は、残響炉のさらに下で、十年前の事件の「生きた証人」と出会う回です。黒の円卓だけでなく、学園内部に潜む黒い影も少しずつ輪郭を持ち始めます。

 砕けた残響炉の底には、梯子も階段もなかった。

 ただ、黒い穴が開いている。

 深さは分からない。穴の縁からは、冷たい風が吹き上がってくる。その風の奥に、かすかな寝息のような音が混じっていた。

「落とし穴、というよりは……井戸ですね」

 クロードが銀色の精神感応糸を垂らす。

 糸は穴の途中で何度も震え、やがて細い輪を描いた。

「下に空間があります。ですが、肉体があるかは分かりません。生きている意識だけが、眠りながら繋がれている」

「それを生きてると言うのか」

「精神魔法師としては、そう言うしかありません」

 クロードの顔色は悪い。

 それでも、彼は糸を引かなかった。逃げる気はないらしい。

「フェリス」

「承知しています」

 フェリスは短刀を袖へ戻し、代わりに細い黒縄を取り出した。ロベルト家の隠密具だろう。見た目は絹糸のように細いが、指先で弾くと金属のような硬い音がした。

「先に私が降ります」

「却下だ」

「なぜです」

「下が俺を呼んでる。客を待たせるのは礼儀に反する」

「貴方は本当に、危険に対する感覚がおかしい」

 フェリスは冷たく言ったが、縄の端をアレンの腰へ結んだ。

「落ちたら引き上げます」

「落ちねえよ」

「信用していません」

 アレンは短く笑い、穴の縁へ足をかけた。

 そして、落ちた。

 いや、落下ではない。

 壁のわずかな凹凸、黒い根の硬さ、空気の流れを読み、身体を滑らせるように下降していく。金剛丹で作り替えられた肉体は、指先一本で全体重を支えられる。数息ののち、アレンは音もなく下層の床へ着地した。

「降りてこい」

 上へ声を投げる。

 フェリスが続き、クロードが最後に降りた。

 下層は、礼拝堂ではなかった。

 病室だ。

 白い石で作られた狭い空間に、透明な棺が一つ置かれている。棺の中に肉体はない。ただ、水面のような薄い膜が張り、その内側で少女の影が眠っていた。

 十三、四歳ほどの少女。

 学園の古い制服を着ている。髪は肩のあたりで揺れ、顔立ちは平民のそれに近い。貴族特有の飾り気はない。

 棺の側面には、古い名札が嵌め込まれていた。

『ミレイ・アルノー』

「……十年前の特待生です」

 クロードがかすれた声で言った。

「記録で見たことがあります。平民出身で、精神安定魔法の適性が高かった。事故後、昏睡状態になり、王都の療養院へ移されたはずでした」

「移されてねえな」

 アレンの声は、静かだった。

 だが、その静けさがかえって重い。

「表向きの帳簿だけ動かして、心をここに残したわけか」

 フェリスの瞳が冷える。

「肉体が別にあるなら、精神だけを分離して、十年間この装置に繋いだことになります。……外道ですね」

「外道にも作法がある。これは、それ以下だ」

 アレンは棺へ近づいた。

 その瞬間、水面の膜が波打つ。

 少女の影が、ゆっくりと目を開けた。

『……だれ?』

 声は、耳ではなく頭の奥に届いた。

 フェリスが身構える。

「精神接続です。警戒を」

「待て」

 アレンは片手を上げ、フェリスを止めた。

 少女の瞳に敵意はない。恐怖だけがある。十年前から一歩も動けず、暗闇の中で目覚めと眠りを繰り返してきた者の目だ。

「俺はアレン。上の学園から来た」

『がく、えん……? まだ、あるの?』

「ああ。腹立つくらい立派に建ってる」

 少女は、泣きそうに笑った。

『よかった。みんな、逃げられた?』

 誰もすぐには答えられなかった。

 クロードが唇を噛む。

「ミレイ・アルノー。あなたは十年前の祈念式で何を見ましたか」

『祈念式じゃない』

 少女の声が、少しだけ震えた。

『先生が言ったの。平民でも役に立てるって。心を安定させる新しい魔法の実験だって。成功したら、私はもっと学園にいられるって』

 棺の水面に、映像が揺れた。

 黒いマント。

 口元の、手入れされた小さな髭。

 薄く笑う、痩せた頬。

 クロードの表情が凍った。

「モルガン……先生」

 フェリスが低く問う。

「現在、貴方に精神魔法を教えている教官ですね」

「ええ」

 クロードの声は硬い。

「ただし、十年前の彼はまだ若い。補助教官だったはずです。主導者ではなく、記録係か、実験補助……」

『黒い先生は、紙にたくさん書いてた。私たちが怖がると、炉がよく動くって。怖いほうが、奥まで見えるって』

 アレンの三白眼が、細くなる。

「奥、か」

『もう一人いた。顔は見えなかった。仮面をつけた人。黒い先生は、その人のことを、円卓の方って呼んでた』

 黒の円卓。

 十年前から、学園の底に手を伸ばしていた。

 クロードの精神感応糸が、小刻みに震える。

「モルガン先生は、黒の円卓の中核ではなく、入口だと思っていました。ですが、十年前から接触していたとなると……」

「締め上げる理由が増えたな」

 アレンは棺の縁に手を置いた。

 黒い根が反応し、少女の影の首へ巻きつこうとする。

『だめ。私が話すと、眠らされる』

「もう喋った」

 アレンは腰の黒誠を抜いた。

 戦う相手は、目の前にいる少女ではない。

 彼女を縛る精神の枷だ。

 こういう相手には、兼定よりも黒誠の方がいい。

「だったら、今さら遠慮はいらねえ」

 黒誠の先端が、棺の水面へ触れる。

 瞬間、黒い根が一斉にアレンへ殺到した。

 フェリスが動く。

「触れさせません」

 紫煙の針が根の節を縫い止める。クロードの精神感応糸が、ミレイの意識と黒い根の接続点を探った。

「三箇所です! 首、胸、右手首!」

「分かった」

 アレンは黒誠を引いた。

 斬るのではない。

 剥がす。

 心へ食い込んだ棘を、肉ごと抉らず、棘だけを引き抜く。

 エレノアから聞いた精神魔法の理屈が脳裏をよぎる。

 精神魔法は正面から斬りつける刃ではない。襟首から忍び込む小刀。ならば抜く時も、刃筋を間違えれば傷を広げる。

 アレンは呼吸を沈めた。

 黒誠が、水面の内側で三度だけ震える。

 ピシリ。

 黒い根が、首から外れた。

 二度目。

 胸の根が弾ける。

 三度目。

 右手首の根が解け、少女の影が初めて自由に指を動かした。

『……あ』

 ミレイは、自分の手を見つめた。

『動いた』

 その声が、幼いほど無防備だった。

 フェリスが、ほんの一瞬だけ目を伏せる。

 だが、地下の空気は甘くならない。

 棺の奥に、黒い文字が浮かぶ。

『証人解放、検知』

『虚孔観測者、修復干渉を確認』

『第三接触へ移行』

 アレンが舌打ちする。

「また段取りか」

 水面の奥から、黒い仮面が浮いた。

 今度は一つではない。無数の仮面が重なり合い、口だけを揃えて笑っている。

『救済行動を記録』

『虚孔は破壊のみならず、欠損部の縁を保持可能』

『観測価値、上昇』

「人を助けるところまで実験扱いか」

 アレンの声が低く沈む。

 黒誠を握る指に、ぎしりと力が入った。

 その圧だけで、水面の黒い仮面が歪む。

「クロード。証拠は拾えたか」

「はい」

 クロードは震える糸で、ミレイの記憶から剥がれた小さな黒片を絡め取っていた。

「モルガン先生の映像、黒の円卓の呼称、十年前の実験記録の断片。完全ではありませんが、学園長とエレノア教授へ提出するには十分です」

「フェリス」

「ミレイの意識を保護します。ルシアン様の名にかけて、これ以上この方を利用させません」

「上等だ」

 アレンは棺の中の少女へ視線を落とした。

「ミレイ。お前の体がどこにあるか、心当たりはあるか」

『白い部屋。窓のない部屋。薬の匂いがする。鐘の音が聞こえると、ここに戻される』

「療養院か」

 フェリスが短く言う。

「王都のどこかに、窓のない療養施設がある可能性があります」

「探す」

 アレンは即答した。

 少女の瞳が揺れる。

『ほんとうに?』

「ああ」

 アレンは黒誠を鞘に収めた。

「十年分寝坊したんだ。そろそろ起きろ」

 ミレイは泣いた。

 声はない。ただ、水面に小さな波紋が広がった。

 その時、上層から赤い封印光が差し込んだ。エレノアの声が、魔導通信越しに鋭く響く。

『アレン、急ぎなさい。外側に動きがあるわ。モルガンが、旧礼拝堂の封鎖解除に気づいた』

 クロードの顔がさらに青くなる。

「先生が……」

「ちょうどいい」

 アレンは口元を吊り上げた。

 その笑みは、執事のものではない。

 闇に潜む害虫の首根っこを掴んだ、鬼の笑みだった。

「証人を押さえて、証拠も拾った。あとは、黒いマントの先生に答え合わせをしてもらおうじゃねえか」

 地下の奥で、眠る証人の棺が淡く光る。

 十年前に隠された声は、ようやく地上へ戻る道を見つけた。

 そして地上では、黒衣の教師が、自分の罪の足音が迫っていることも知らずに、旧礼拝堂へ向かっていた。

第78話をお読みいただきありがとうございました!

今回はミレイという眠る証人を通して、十年前の事件の痛みを前に出しました。アレンが黒誠で精神の根を剥がす場面は、戦闘とは違う慎重さが必要で、書いていてかなり緊張感がありました。ミレイに「十年分寝坊したんだ。そろそろ起きろ」と言うアレン、ちょっと不器用でかっこいいですね。

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