第76話:旧礼拝堂跡と、祈りのない鐘
第76話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、黒の円卓の反響点を追って、十年前の事故で封鎖された旧礼拝堂跡へ向かう回です。古い封印、祈りのない鐘、そして祭壇下の黒い扉が登場します。
その夜、聖アイビス国立魔法学園の北西区画は、霧に沈んでいた。
学園の華やかな講義棟や庭園から離れたその一帯は、石畳の色からして違っている。長く使われていない道には苔が張り、街灯の魔石は半分ほど光を失っていた。
閉鎖区域。
十年前の事故以来、生徒はもちろん、教師でさえ許可なしには近づけない場所。
その最奥に、旧礼拝堂跡はあった。
「……本当に行くんだね、アレン」
出発前、エレノアの管理室でルシアンは静かにそう言った。
彼は同行を望んだが、アレンとフェリスが同時に却下した。黒の円卓の反響点がある場所へ、主君を連れていく理由はない。
「ルシアンは待ってろ。俺たちが先に穴を覗いてくる」
「ルシアン様。危険域の確認が終わるまで、どうかこちらでお待ちください」
フェリスの声は、いつになく硬かった。
ルシアンは二人を見比べ、少しだけ苦笑した。
「二人にそう言われると、さすがに逆らえないね。……分かった。だけど、無事に戻ってきてくれ。これは命令だよ」
「承知」
アレンは短く答えた。
その命令を胸に、今、彼は旧礼拝堂へ続く霧の道を歩いている。
前を行くのはエレノア。深紅のドレスの裾を霧に濡らしながら、封鎖区域の結界を一つずつ解除していく。隣にはクロードが立ち、銀色の精神感応糸で空間の歪みを探っていた。
フェリスはアレンの半歩後ろ。
短刀はすでに袖の中で抜ける位置にある。
「十年前の事故、詳しく聞いてもいいか」
アレンが問うと、エレノアは少しだけ足を止めた。
「表向きは、礼拝堂で行われた魔力安定祈念式の失敗。参加していた生徒と教師、合わせて十七名が昏睡した。死者は出なかったけれど、目覚めた者の多くは事故の前後を覚えていなかった」
「表向き、ね」
「ええ。私は当時、王宮側の調査記録を少しだけ見たことがある。魔力暴走にしては傷が少なすぎた。けれど精神魔法事故として扱うには、当時の教授陣が強く反発した」
クロードが静かに続ける。
「精神魔法の名家にとって、その種の事故は不名誉ですから。都合の悪いものは、祈念式の失敗として片付けたのでしょう」
「なるほど。腐った蓋を十年かぶせてたわけだ」
アレンの声は低い。
誤った判断で人が死ぬことを、彼は何度も経験している。今回は死者が出ていないというだけで、誰かの判断が傷を残した事実は変わらない。
霧の奥で、黒い影が輪郭を持った。
旧礼拝堂。
白かったであろう石壁は灰色にくすみ、尖塔の先は折れている。正面扉には鎖と封印札が幾重にも巻かれ、屋根の上にはひび割れた鐘がぶら下がっていた。
その鐘は、風もないのに、かすかに揺れている。
カァン。
小さな音がした。
フェリスが即座に短刀を抜く。
「鐘が鳴りました。外部からの魔力接触はありません」
「魔力じゃない」
アレンは黒誠を抜かず、鞘ごと肩に担いだ。
「呼んでやがる」
クロードの精神感応糸が、礼拝堂の扉へ触れた瞬間、銀色の糸が黒く濁った。
「内部に反響点があります。ですが、これは……声というより、残響ですね。十年前の事故で刻まれた恐怖と祈りが、まだ壁に染み込んでいる」
「祈り、ね」
アレンは扉の前へ進む。
古い封印札には、学園長印とエレノアの前任者の印が残っている。だが、その上から、細い黒い筋が何本も走っていた。まるで、木の根が紙の裏側から食い破ろうとしているようだった。
「開けるわよ」
エレノアが封印陣を展開する。
赤い光が鎖をなぞり、錆びた金属が軋んだ。
だが、最後の一枚の札だけが剥がれない。
黒い筋が絡みつき、札を内側へ引き込もうとしている。
「黒の円卓の根ね。封鎖結界を外から破ったんじゃない。十年前から中に残っていた傷口へ、後から根を通した」
「なら、傷口ごと抉る」
アレンは黒誠を扉へ当てた。
今回は軽くいじるだけではない。
気魄を一点に沈め、黒い筋の交点へ押し込む。
ミシ、と扉の内側で何かが潰れた。
黒い筋が一斉に波打ち、まるで痛みに身を捩るように封印札から剥がれていく。
「相変わらず、魔法を物理的に黙らせますね……」
フェリスが呆れたように呟く。
「黙る方が悪い」
「そういう問題ではありません」
そのやり取りに、クロードが小さく笑った。
「恐ろしい人だ。精神干渉にとって、あなたは治療師ではなく外科医ですね」
「悪いところは切るに限る」
最後の封印札が落ちた。
扉が、内側から勝手に開く。
礼拝堂の中は、闇だった。
長椅子は朽ち、床には割れた硝子が散っている。正面の祭壇には、神像の代わりに空の台座だけが残っていた。そしてその台座の下から、細い黒い根が床板の隙間へ伸びている。
カァン。
また、鐘が鳴った。
今度は礼拝堂の中から聞こえた。
天井の鐘ではない。
もっと深い、床下から響く音だ。
「地下があります」
クロードが祭壇を指差した。
「祭壇の下に精神魔法の反響孔がある。十年前の事故で生まれた恐怖を、ずっと溜め込んでいたのでしょう。黒の円卓は、それを増幅器として使っている」
フェリスが周囲を見渡す。
「罠の可能性が高いです。ルシアン様をお連れしなかった判断は正解でした」
「当たり前だ」
アレンは祭壇へ歩み寄る。
黒い根は、彼が近づくほどざわめいた。まるで、第二接触で覚えた獲物の匂いを思い出したかのように。
祭壇の下。
床板の隙間に、小さな黒い扉があった。
その表面に、焼き付いたような文字が浮かぶ。
『虚孔観測者のみ、降下を許可する』
エレノアの顔色が変わった。
「完全にあなた宛てね」
「ご丁寧なこった」
アレンは黒誠ではなく、腰の和泉守兼定へ手をかけた。
だが、扉は斬らない。
敵が自分だけを招いているなら、そこには必ず、敵の驕りがある。
「俺一人で行く」
「却下です」
即座にフェリスが言った。
「ルシアン様から、無事に戻れと命令されています。貴方一人を穴倉に落とすなど、護衛として認められません」
クロードも頷く。
「私も同行します。精神魔法の穴へ、あなた一人で入るのは無謀です」
エレノアは肩をすくめた。
「私は外側を閉じるわ。中で何か起きたら、あなたたちごと封印するかもしれないけど、文句は言わないでね」
「物騒だな」
「あなたに言われたくないわ」
アレンは三人を見た。
そして、少しだけ口元を吊り上げる。
「分かった。なら、ついて来い。ただし、足を引っ張るなよ」
「誰に向かって言っているのですか」
フェリスの声は冷たい。
だが、琥珀色の瞳には、恐怖ではなく覚悟があった。
アレンは黒い扉へ手をかけた。
床下から、祈りのない鐘の音が響く。
カァン。
旧礼拝堂の地下。
黒の円卓が十年もの間隠してきた、学園の傷口が、今、ゆっくりと開こうとしていた。
第76話をお読みいただきありがとうございました!
今回は旧礼拝堂跡の不気味さをじっくり描く回でした。フェリスが「ルシアン様から無事に戻れと命令されています」と即座にアレン単独行を止めるところ、彼女の忠誠と距離感が出ていて良い場面になったと思います。
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