第74話:教材庫の封蝋と、眠る名簿
第74話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、黒い種の出所を追ってアレンたちが学園地下の教材庫を調査する回です。偽造された封蝋、空白に見える名簿、そして黒の円卓の次なる宣告が描かれます。
静謐温室での騒動から、わずか半刻後。
聖アイビス国立魔法学園の地下にある教材庫は、普段なら誰の目にも留まらない場所だった。講義で使う魔導紙、古びた教材用の魔石、実習用の植物種子、属性別の補助具。それらが整然と並ぶはずの場所に、今は重苦しい沈黙が落ちている。
扉の前には、エレノアが張った深紅の封印札が三枚。
その前に立つアレンは、神木烏木の木刀──黒誠を腰に差したまま、冷えた目で鉄扉を見据えていた。
「ここが、例の教材庫か」
「ええ。モルガン教授が『黒い種』を受け取ったと言っていた場所よ」
エレノアは深紅のドレスの裾を軽く払う。普段のだらしない管理室とは違い、今の彼女は元王宮暗部トップそのものだった。
アレンの斜め後ろにはフェリスが控えている。琥珀色の瞳は、扉、天井、床、アレンの手元、そのすべてを一瞬たりとも見逃すまいとしていた。
「ルシアン様には、すでに別室で待機していただいています」
「上出来だ。若旦那をこんな埃っぽい穴倉へ連れてくる必要はねえ」
「貴方に褒められる筋合いはありません。私はルシアン様をお守りするために当然の判断をしただけです」
フェリスは無表情のまま言い返したが、その耳の先がわずかに赤い。
クロード・ヴァン・オルタニアは、そのやり取りを横目で見ながら、教材庫の扉に指先を這わせていた。
「妙ですね」
「何がだ」
「封鎖前の残留魔力が薄すぎます。ここまで多くの教材が出入りする場所なら、教授や管理員の魔力痕がもっと雑多に残るはずです。けれど、この扉の周辺だけ、まるで拭き取られたように静かだ」
エレノアの目が細くなる。
「掃除された、というより、記憶ごと撫で消された感じね」
「ええ。精神魔法の応用です。人の記憶だけでなく、場所に残る魔力の癖を薄くする術式。かなり繊細な技術ですよ」
アレンは扉を一瞥し、黒誠の柄へ指をかけた。
「なら、斬れば見えるか」
「待ちなさい、アレン。ここで力任せにやると、証拠まで壊れるわ」
「分かってますよ」
アレンは短く答え、黒誠を抜かず、鞘ごと扉の中央へ軽く当てた。
ごくわずかな振動。
だが、その瞬間、扉の表面に薄い黒い膜のようなものが浮かび上がった。
フェリスが息を呑む。
「……魔力反応ではありません。黒誠に触れられて、膜の方が怯えた?」
「怯えたんじゃねえ。ただ、少しいじっただけだ」
アレンは黒誠を引き戻し、膜の端を目で追った。
それは蜘蛛の糸より細く、扉の蝶番から床の石目へ、さらに教材庫の奥へと続いている。
「京の路地でもな。足跡を消す奴ほど、変なところに癖を残す」
「精神魔法の痕跡を、足跡のように見ているのですか」
クロードが興味深そうに呟く。
「見えちゃいねえ。だが、隠した場所は分かる」
アレンは封印札を傷つけないよう、エレノアへ視線を送った。
「開けてくれ。先頭は俺が行く」
「ええ。中の物には勝手に触らないこと。特にあなたは、触るだけで変な禁書や呪物を黙らせるから、解析前に泣かせないで」
「禁書に泣かれた覚えはありませんがね」
エレノアが封印を解く。
扉が重い音を立てて開いた。
教材庫の中は、異様なほど綺麗だった。
棚には魔導紙の束が寸分の狂いもなく積まれ、瓶詰めの種子は属性ごとに整列している。だが、その整い方が気持ち悪い。人間が日常的に使う場所には必ず残る、わずかな乱れがない。
「……使われているのに、使われていないように見える」
フェリスが低く言った。
「偽装ですね。乱雑な痕跡を消しすぎて、逆に不自然になっている」
クロードは棚の一角へ進み、植物教材の保管箱を開けた。中には、心映花の種が入っていたと思われる小瓶が並んでいる。
そのうち一本だけ、封蝋が新しい。
「これです」
クロードが布越しに瓶を持ち上げる。
封蝋には学園の紋章が刻まれていた。だが、アレンはすぐに眉をひそめる。
「違うな」
「分かるの?」
エレノアが問う。
「本物の印ってのは、使う奴の手癖が出る。こいつは形だけ真似てるが、押し込む角度が浅い。急いで作った偽物だ」
「……武士というより、文官の鑑識官みたいね」
「誤った判断で人が死ぬことを、俺は何度も経験した。印の見方くらい嫌でも覚える」
アレンは一瞬だけ、どこか遠い目をした。声は淡々としていたが、その奥には、かつて失ったものの重みが沈んでいる。
フェリスはその横顔を見つめ、ほんの一瞬だけ言葉を失う。
(この男は、剣だけではない。書状、封蝋、足跡、気配、茶葉の温度まで、すべてを戦場の情報として見ている。……やはり危険です。危険なのに、ルシアン様の側に置く価値がありすぎる)
悔しさに似た感情を噛み殺し、フェリスは棚の下段へ目を向けた。
「アレン。こちらを」
埃のない棚の奥。
そこに、一冊だけ妙に古い名簿が挟まっていた。
表紙には『教材受領記録』とある。だが、紙の端に黒ずんだ焦げ跡があり、何度も開かれた痕跡が残っている。
エレノアが手袋をはめ、慎重に開いた。
「……おかしいわね。モルガン教授の名前はある。でも、黒い種が届いた日の受領者欄だけ空白になっている」
「消されたのか?」
「いいえ」
クロードが首を振る。
「これは、最初から『誰も書いていない』ように見せる術式です。記入された文字を消すのではなく、読んだ者の認識をずらす。そこに何か書かれていても、空白だと思い込ませる」
アレンは名簿を覗き込んだ。
確かに空白に見える。
だが、目の奥がざらついた。
人の心へ忍び込む小刀。以前エレノアに聞いた、精神魔法の厄介さが脳裏をよぎる。
正面から受ければ斬れる。だが、こういう術は、気づく前に判断を曲げてくる。
「クロード」
「はい」
「空白だと思わされてるなら、どうやって読む」
クロードは少しだけ笑った。
「簡単です。読もうとしなければいい」
彼は名簿を閉じ、紙面に指先を乗せた。
淡い銀色の糸が、彼の指から広がる。文字を読むのではなく、紙に残った感情の皺を撫でるような繊細な精神魔法。
次の瞬間、クロードの顔色が変わった。
「これは……」
「どうした」
「受領者名ではありません。ここに刻まれているのは、名簿を見た者の反応を記録する術式です。誰が空白に気づくか、誰が違和感を覚えるか、それを逆に向こうへ送っている」
教材庫の空気が一気に冷えた。
エレノアが低く舌打ちする。
「罠ね。私たちがここを調べに来ることまで、読まれていた」
その瞬間、名簿の空白が黒く滲んだ。
紙の上に、細い文字が浮かび上がる。
『虚孔観測者、第二接触へ移行』
アレンの瞳が、ぞっとするほど静かになった。
フェリスが短刀を抜く。クロードは即座に精神防壁を張り、エレノアは封印陣を展開した。
だが、アレンだけは動かなかった。
黒い文字を見下ろし、ただ低く笑った。
「ずいぶんと気の利いた招待状じゃねえか」
黒誠の鯉口が、かすかに鳴る。
「いいぜ。次に触ってきたら、今度はこっちから根元を掴んでやる」
その瞬間、名簿の文字は焼けるように消え、教材庫には焦げた紙の匂いだけが残った。
黒の円卓は、こちらを見ている。
だが同時に。
鬼の副長もまた、敵の目を正面から見返していた。
第74話をお読みいただきありがとうございました!
今回は派手な戦闘ではなく、教材庫に残された違和感を一つずつ拾っていく調査回でした。アレンが封蝋や痕跡を見抜くところ、フェリスが「危険なのに有用」と揺れるところが個人的に好きな場面です。
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