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第72話:静謐温室と、心を喰う花

第72話をお読みいただきありがとうございます!

今回は、前回の黒い招待状から続く 静謐温室 回です。

クロードの精神魔法講義、心を映す花、そして黒の円卓の不穏な干渉。

セレナとリナの心鎧が、さっそく試される場面になります。

 学園北棟のさらに奥。

 普段の生徒たちが足を踏み入れることのない、古い回廊の突き当たりに、その温室はあった。

 硝子張りの天井からは、午後の淡い光が静かに差し込んでいる。だが、そこにある植物は、どれも普通の花や薬草ではない。青白い葉脈が淡く脈打つ蔓。人の吐息に反応する銀色の蕾。見る角度によって色を変える透明な花弁。

 そのすべてが、声を潜めた精神魔法の実験器具だった。

「――ようこそ、静謐温室へ」

 クロード・ヴァン・オルタニアは、黒い制服の襟を正し、礼儀正しく一礼した。

 その所作は完璧だった。微笑も穏やかだ。だが、温室の湿った空気の中で、彼の瞳だけがひどく冷たく澄んでいる。

 その斜め後ろには、もう一人、見慣れぬ男が立っていた。

 黒いマントを肩から垂らし、細い口元には手入れの行き届いたちょび髭。痩せた頬に張りついた笑みは、礼儀正しいというより、相手の値踏みをする商人のそれに近い。

「こちらは、精神魔法学の担当教官、モルガン・ヴァン・ネーベル教授です」

 クロードが紹介すると、男は芝居がかった所作で胸に手を当てた。

「初めまして、グランヴェル家の皆様。そして噂の執事殿。私はモルガン。若き精神魔法師たちを導く、しがない教師でございます」

 柔らかい声。だが、アレンはその声に混じる湿った匂いを聞き逃さなかった。

(……こいつ、教官の面をしてやがるが、真っ黒だな)

 学園の教官というには、貴族への媚びが強すぎる。特にクロードへ向ける視線が露骨だった。師が弟子を見る目ではない。力のある家の子息を、自分の出世の足場として眺める目だ。

 エレノアが、アレンにだけ聞こえるほどの声で囁いた。

「モルガン教授よ。精神魔法の座学担当。オルタニア家から研究資金を受けているという噂があるわ。あと、彼の個人講義を受けた生徒が、なぜか都合の悪い記憶だけ曖昧になった、なんて黒い話もね」

「よくそんな奴を教授にしてるな」

「学園も綺麗な場所じゃないのよ」

 その短い会話だけで、アレンは十分に理解した。

 学園の内部にも、すでに家門の影が入り込んでいる。王宮やスラムと同じだ。権力がある場所には、必ず腐った根が伸びる。

 アレンは黒誠を腰に差したまま、温室の内側を一瞥した。

 出口は一つ。側面に非常用の小扉が二つ。天井は硝子だが、外側には薄い結界が張られている。隠れる場所は少ないが、蔓の密度が高い奥側は死角になりやすい。

(……温室というより、檻だな)

 アレンの三白眼が冷たく細められる。

 同行しているのは、セレナ、リナ、フェリス、そして立会人として呼ばれたエレノアだった。ルシアンには報告済みだが、今回の場には同席させていない。クロードの狙いがアレンと黒誠にある以上、主君を無駄に危険へ近づける理由はなかった。

「ずいぶんと物騒な顔をしていますね、アレン殿」

「癖でな。怪しい場所に入ると、まず逃げ道と死角を数える」

「実に実戦的だ。精神魔法師としては、そういう相手が一番やりにくい」

 クロードは楽しそうに微笑んだ。

 隣でリナが小声でセレナへ囁く。

「ねえ、やっぱりあの人、普通に怖くない?」

「奇遇ですわね。私も、今すぐ回れ右したい気持ちを心鎧で押さえ込んでおります」

「押さえ込めてるだけ偉いわよ」

 二人のやり取りを聞きながら、フェリスは無表情のまま一歩前へ出た。

「クロード様。ルシアン様の従者として確認します。この場でセレナ様、リナ様、あるいはアレンに無断の精神干渉を行った場合、私はあなたを敵性存在と判断します」

「承知しています。今日は講義です。実験は、許可を取ってから行いますよ」

「その言い方がすでに不穏です」

「よく言われます」

 エレノアが小さく笑った。

「仲良く始めなさいな。私も、この温室で何が起きるか少し楽しみにしているのだから」

「教授、面白がってる場合か」

「もちろん警戒はしているわよ。でも、精神魔法の名門が、魔力ゼロの異常個体にどう説明するのか。研究者として興味を持つなという方が無理だわ」

「言い方を選べ」

 アレンが低く返すと、クロードは温室中央の丸テーブルへ歩み寄った。

 そこには、透明な硝子鉢に植えられた、小さな白い花が三輪置かれていた。花弁は薄く、光を透かすように白い。だが、その中心には、まるで瞳孔のような黒い点がある。

「これは 心映花しんえいか と呼ばれる魔法植物です」

「心を映す花、ですか」

 セレナが慎重に問う。

「本来なら、ここからは私が説明するところなのですがね」

 モルガン教授が薄く笑いながら口を挟む。

「クロード君は実に優秀でして。私が十年かけて教える精神魔法の基礎を、彼は一年足らずでほとんど理解してしまった。いやはや、オルタニア家の血とは恐ろしいものです」

 褒め言葉の形をしている。だが、その声には、ほんの僅かな嫉妬と媚びが混じっていた。

 クロードはそれを意に介した様子もなく、静かに説明を続ける。

「ええ。精神魔法の訓練では、対象者の心の表層を読み取るために使われます。恐怖が強ければ青く、怒りが強ければ赤く、自己否定が強ければ黒く濁る。もちろん、あくまで表層の揺れを映すだけです。心の奥を覗くものではありません」

「……本当に?」

 リナが疑わしそうに花を覗き込む。

 クロードは笑みを崩さない。

「本当です。心の奥を覗くには、もっと複雑で、もっと嫌な準備が要ります」

「堂々と言うな、そういうことを」

 アレンは吐き捨てた。

 しかし、視線は花から逸らさない。透明な花弁の内側を流れる微細な魔力の筋。エレノアから聞いた精神魔法の理論。魔力が相手の傷へ直接刺さるのではなく、本人の中にある揺らぎへ糸をかけるという仕組み。

(なるほど。こいつは、心に触れるというより、心の揺れで色を変える水面みてえなもんか)

 アレンは一瞬で構造を理解する。

 魔力は花の中で閉じている。外へ伸びてくる糸はごく細い。攻撃用ではない。だが、使い方を間違えれば、人の弱みを見世物にする道具になる。

「まずは、私がやって見せましょう」

 クロードが花の前に立つ。

 心映花は、ほんのわずかに銀色へ染まった。

「銀は観察欲です。精神魔法師にはよく出る色ですね」

「つまり性格が悪い色ってこと?」

「リナ嬢、なかなか率直ですね」

「褒めてないわよ」

 クロードはくすりと笑い、次にリナへ視線を向けた。

「では、リナ嬢。触れるだけで構いません。花に手をかざしてください」

 リナは一瞬だけアレンを見た。

 アレンは小さく頷く。

「妙な糸が伸びたら、斬る」

「うん。お願い」

 リナは深呼吸し、花へ手をかざした。

 次の瞬間、心映花の花弁がぱっと赤く染まり、ところどころに紫電のような黄色い筋が走った。

「怒りと闘争心。それから、焦り。非常に分かりやすい」

「うるさいわね!」

 リナが即座に反論すると、花はさらに赤くなった。

 セレナが小さく笑う。

「リナさんらしいですわ」

「そういうセレナはどうなのよ」

 リナに促され、セレナは花の前へ立つ。

 その指先は、わずかに震えていた。

 昨日の記憶。囁き糸が触れた感触。忘れたつもりだった言葉の刃。

 けれど、セレナはアレンから借りた法を、胸の奥でゆっくりと唱えた。

(前へ出る。膝をついても、泥を啜っても、後ろへ退かない)

 手をかざす。

 心映花は、一度、黒く濁りかけた。

 しかし、すぐにその中心から淡い浅葱色の光が滲み出る。黒を押し返すように、花弁の縁が静かに青白く輝いた。

 クロードの瞳が、わずかに細まる。

「……興味深い。恐怖と自己否定がある。けれど、その上から別の規律が覆っている。これは、あなた自身のものではありませんね」

「ええ」

 セレナは逃げなかった。

「今はまだ、アレンさんからお借りしている法ですわ。けれど、いつかは私自身のものにします」

 その声は震えていた。

 だが、折れてはいなかった。

 アレンは何も言わない。ただ、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 リナはそれを見て、悔しそうに頬を膨らませる。

「むう……なんか今のセレナ、ちょっと格好良かった」

「ちょっと、ですの?」

「ちょっとよ。すごくじゃないから」

 そんな二人のやり取りに、温室の空気がわずかに和らぐ。

 だが、その柔らかさは長く続かなかった。

「では、最後にアレン殿」

 クロードが、アレンへ視線を向ける。

 エレノアも興味深そうに身を乗り出した。

「精神魔法の計測対象として、あなたほど厄介な存在はありません。魔力がない。なのに魔法を斬る。黒誠を通して精神感応糸まで断つ。さて、心映花はあなたをどう映すのか」

「くだらねえ」

 アレンはそう言いながらも、花の前へ歩いた。

「アレン、無理しなくてもいいわよ」

 リナが心配そうに言う。

「花ごときにビビってどうする」

 アレンは無造作に手をかざした。

 瞬間。

 心映花が、色を失った。

 白でも黒でもない。赤でも青でもない。

 ただ、花弁の輪郭だけを残して、内側がぽっかりと抜け落ちたように透明になる。

 まるで、そこだけ世界に穴が開いたようだった。

「……虚孔」

 エレノアが、ほとんど息だけで呟いた。

 クロードの微笑が消える。

 フェリスの手が、無意識に短刀へ伸びた。

 心映花は、アレンの心を映せなかった。

 いや、映そうとした何かが、逆に飲み込まれている。

 アレン自身は顔色一つ変えない。だが、彼の三白眼は、花ではなく自分の懐を見ていた。

 そこにしまっていた黒い招待状。

 その封蝋が、赤黒く脈打っている。

「――チッ」

 アレンが舌打ちした、その瞬間だった。

 温室の奥にある蔓が、一斉にざわめいた。

 心映花の黒い瞳孔のような点が、ぐるりと動く。

 次の瞬間、花弁の中心から赤黒い霧が噴き出した。

「全員、下がりなさい!」

 エレノアの声が飛ぶ。

 だが、赤黒い霧はすでに温室全体へ広がり始めていた。蔓が床を這い、硝子壁へ絡みつき、出入口を塞ぐ。

 クロードが即座に術式を展開する。

「これは私の仕込みではありません! 招待状を媒介に、何かが温室の心映花へ寄生した……!」

「黒の円卓か」

 アレンは懐から封筒を引き抜き、黒誠の柄に手をかけた。

 封蝋には、オルタニア家の仮面と月の紋章。その上から、見覚えのある赤い筋が走っている。

 魔物狂乱の魔導具に刻まれていたものと同じ、赤黒い明滅。

「精神干渉型の呪印……いや、これは種ね」

 エレノアが厳しい声で言う。

「心映花を苗床にして、周囲の心の傷を吸い上げる寄生術式。黒の円卓、随分と嫌なものを持ち込んだわね」

「ば、馬鹿な……! 私の温室で、このような……!」

 モルガン教授が青ざめ、後ずさった。だが、その目は恐怖だけではない。何かを知っている者が、想定外の形で自分の足元に火がついたときの目だった。

 アレンはその反応を横目で捉えた。

(……後で締め上げる候補が一人増えたな)

 赤黒い霧が、リナとセレナへ向かって伸びる。

 真っ先に狙われたのは、心の揺れが大きかった二人だった。

「セレナ!」

 リナが叫ぶ。

 霧の中から、声が聞こえた。

 ――魔力なし。

 ――公爵家の恥。

 ――アレンの隣に立つ資格などない。

 セレナの顔から血の気が引く。

 同時に、リナの耳にも別の声が忍び込んだ。

 ――平民のくせに。

 ――どれだけ走っても、貴族の舞台では泥の匂いが消えない。

 ――アレンはいずれ、あなたを置いていく。

「っ……この……!」

 リナの手が震える。

 フェリスが二人の前へ出ようとするが、赤黒い蔓が足元から絡みついた。

「鬱陶しい……!」

 短刀が閃き、蔓を切る。だが、切り口からまた霧が噴き出す。

 クロードは歯を食いしばった。

「駄目です。通常の精神干渉と違い、花を媒介にして増幅している。花を止めなければ霧が消えない」

「なら花を斬る」

 アレンが一歩前へ出た。

 だが、その瞬間、赤黒い霧がアレンへも伸びた。

 霧の奥から、低い声が響く。

 ――守れなかった。

 ――近藤を。

 ――沖田を。

 ――仲間を。

 ――最後には己の命すら。

 その声に、アレンの足が一瞬だけ止まった。

 リナとセレナが、息を呑む。

 アレンの過去に何があるのか、二人はすべてを知らない。けれど、今の声が、彼の奥底に触れていることだけは分かった。

 赤黒い霧が笑うように揺れた。

 だが。

「……その程度か」

 アレンの声は、氷のように低かった。

 次の瞬間、温室全体の空気が重く沈む。

 殺気。

 ただの怒りではない。京の夜、数多の命を刈り取り、政争と裏切りの中を歩き続けた男の、本物の気魄。

「心の傷を撫でりゃ止まると思ったか」

 アレンは黒誠を抜いた。

 黒い木刀の表面に、赤黒い霧とは別の、底冷えするような気配がまとわりつく。

「馬鹿が。そんなもん、とっくに背負って歩いてる」

 アレンは振り返らず、リナとセレナへ声を飛ばした。

「心鎧だ。声を聞くな。自分の足を見ろ。お前らは今、どこに立っている」

 セレナは震える拳を握りしめた。

 泥ではない。温室の石床だ。

 けれど、胸の奥にあるのは、昨日の泥の感触だった。

(前へ出る。後ろへ退かない)

 セレナは顔を上げた。

「私は、ここに立っていますわ……!」

 リナも歯を食いしばる。

「アレンが置いていくなら、追いかけて襟首を掴むだけよ……!」

 二人の声に反応し、赤黒い霧がわずかに薄れる。

 クロードが目を見開いた。

「精神干渉を、外部術式なしで押し返している……?」

「アレン式は、相変わらず理屈が無茶ね」

 エレノアが呆れながらも笑う。

「でも、嫌いじゃないわ」

 アレンは低く構えた。

 心映花の中心。赤黒い霧の核。そこに、肉眼では見えない呪印の結び目がある。

 普通の剣では斬れない。普通の魔法では焼き切れない。

 だが、黒誠は神木烏木。魔力を叩き斬る木刀。

 そしてアレンの目には、すでにその継ぎ目が見えていた。

「精神魔法ってのは、継ぎ目に針を通すんだったな」

 アレンは一歩、瞬歩で踏み込む。

「なら、その針穴ごと叩き潰す」

 黒誠が、風を裂いた。

 音は軽い。

 だが、その一撃は、心映花の中心にあった赤黒い呪印の結び目を正確に打ち抜いた。

 パキィィンッ!!

 硝子が割れるような音とともに、赤黒い霧が一斉に弾ける。

 蔓が力を失い、床へ崩れ落ちた。心映花は白い花弁へ戻り、黒い瞳孔のような点も消えていく。

 温室に、静けさが戻った。

 セレナはその場に膝をつきかけたが、リナが肩を支える。

「大丈夫?」

「ええ……。怖かったですわ。でも、逃げませんでした」

「うん。私も」

 二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。

 フェリスは短刀を収め、温室の出口を確認する。エレノアは壊れた心映花を拾い上げ、表情を険しくした。

「黒の円卓が、精神魔法の媒介まで使い始めた。これは本気で面倒ね」

 クロードは、珍しく笑っていなかった。

「私の招待状を経由されました。オルタニア家の名にかけて、これは看過できません」

「看過できねえのはこっちも同じだ」

 アレンは黒誠を腰に戻す。

「お前が黒幕じゃないことは、今のところ信じてやる。だが、次に小細工を仕込んだら、今度こそ指じゃ済まねえ」

「肝に銘じます」

 クロードは深く一礼した。

 その時、壊れた心映花の根元から、小さな黒い種のようなものが転がり落ちた。

 黒く、硬く、中心だけが赤く脈打つ種。

 アレンが拾い上げようとした瞬間、種の表面に文字のようなものが浮かび上がった。

 ――虚孔、確認。

 ――次段階へ移行。

 文字は一瞬で焼け落ち、種は灰になった。

 温室の中に、誰も言葉を発しない時間が落ちる。

 黒の円卓は、ただセレナやリナの心を狙ったのではない。

 アレンを見ていた。

 根源照覧の環が告げた、魔力ゼロではない空白。

 虚孔。

 その名を、敵はすでに知っている。

 アレンは灰になった種を見下ろし、ゆっくりと口角を吊り上げた。

「上等だ」

 その笑みは、静かで、冷たい。

 そしてひどく獰猛だった。

「覗き見が好きな連中には、いずれこっちから挨拶に行ってやる」

 静謐温室の硝子天井の向こうで、雲がゆっくりと太陽を隠す。

 魔法学園の華やかな日常の裏で、心を喰う黒い種は確かに芽吹き始めていた。

 だが、その根を断ち切る鬼の刃もまた、すでに静かに研ぎ澄まされているのだった。

第72話をお読みいただきありがとうございました!

今回は静かな講義から始まり、黒の円卓の赤黒い種によって一気に不穏になる構成でした。

セレナとリナが、それぞれ違う傷を突かれながらも踏みとどまる場面は、前回の稽古が活きる良い見せ場になったと思います。

そして、ついに敵側がアレンの 虚孔 を認識していることが判明しました。

ここから黒の円卓がどんな手を打ってくるのか、ぜひ続きを楽しみにしていただければ嬉しいです。

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