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第70話:泥まみれのお嬢様と、心を覗く魔法

第70話をお読みいただきありがとうございます!


今回は、セレナの地獄の基礎補習回です。

神木烏木の木刀【黒誠】を手にしたアレンが、弟子であるセレナを容赦なく泥の中へ放り込みます。

リナとのライバル関係や、オルタニア家のクロードが仕掛ける精神魔法にも注目していただけると嬉しいです。

「──まずは走れ」

聖アイビス国立魔法学園、第二訓練場。

魔法実技の授業で使われる華やかな第一演習場とは違い、そこは地味な土の広場だった。貴族の子弟が好む美しい白石の床も、魔法陣の刻まれた華美な訓練台もない。ただ硬い地面と、ところどころに足を取られる泥濘、そして古びた木製の障害物が並んでいるだけ。

そんな場所の中央で、グランヴェル公爵家の令嬢セレナは、呆然と目を瞬かせていた。

「……え?」

「聞こえなかったか。走れと言った」

アレンは漆黒の木刀──神木烏木から作られた【黒誠】を肩に担ぎ、容赦のない目でセレナを見下ろしていた。

「あ、あの、アレンさん? 私、てっきり今日は黒誠を使った剣の型を教えていただけるものだと……」

「型?」

アレンは鼻で笑った。

「足腰もできてねえ奴が型だけ真似ても、ただの踊りだ。泥に足を取られて転ぶような武人が、魔法使いの詠唱の隙を突けるか」

「うっ……」

正論だった。

昨日、講義を勝手に抜け出した罰として、セレナには補習が課された。しかもそれは、貴族令嬢が想像する優雅な剣術稽古ではなく、アレン式の「地獄の基礎鍛錬」である。

「第二訓練場を三十周。障害物は避けるな。乗り越えろ。泥濘も迂回するな。真っ直ぐ踏み抜け」

「さ、三十周!?」

「返事」

「は、はいっ!」

セレナは慌てて走り出した。

普段なら、公爵令嬢が泥だらけの訓練場を走り回るなど、あり得ない光景だ。だが、セレナの瞳には逃げる気配がない。

魔力を持たない落ちこぼれ。

グランヴェル家の中で、そう囁かれてきた少女だ。魔法至上主義の世界で、彼女はずっと、自分には何もないと思い込まされてきた。

だが、アレンだけは違った。

彼はセレナの剣の才を見抜いた。泥にまみれてでも前へ進む覚悟を、弱さではなく武人の芽として認めた。

だからこそ、セレナは走る。

ドレスではなく訓練服に身を包み、金髪を後ろで結び、貴族令嬢らしからぬ必死の形相で、泥の中へ足を踏み入れた。

「きゃっ……!」

一周目から、足を取られて派手に転ぶ。

白い頬に泥が跳ねた。

だが、セレナはすぐに歯を食いしばって立ち上がった。

「まだ、まだですわ……!」

「転び方が甘い。手を突くな。肩から転がれ。手首を折るぞ」

「はいっ!」

アレンの声は厳しい。だが、その目は冷たくない。どこで力を抜き、どこで踏み込み、どこで転べば怪我をしないか。彼はセレナの一挙一動を逃さず見ていた。

訓練場の隅では、フェリスが腕を組んでその様子を見守っている。

「……公爵令嬢に対して、あまりにも容赦がなさすぎるのでは」

「甘やかせば死ぬ」

アレンは即答した。

「こいつが目指してるのは、お遊びの剣舞じゃねえ。魔法使いの懐へ踏み込み、喉元へ木刀を届かせる実戦の武だ。泥で転ぶ程度で泣くなら、最初からやめた方がいい」

「言い方」

「事実だ」

フェリスは口を閉じた。

確かに、アレンの理屈は冷たいほど正しい。戦場では、相手が公爵令嬢だからと手加減してくれる敵などいない。むしろ、身分の高さは狙われる理由になる。

それでも。

(この男、厳しすぎるのに、見ている場所が異様に細かい……。セレナ様の足首の角度、呼吸の乱れ、泥濘に入る直前の重心の揺れまで全部見ている。怒鳴っているようで、怪我をする手前では必ず止めるつもりだ)

フェリスは内心で舌を巻いた。

(本当に、何なのですかこの男は。鬼なのか、教師なのか、執事なのか、禁忌なのか、はっきりしてほしい……!)

「アレン! セレナ!」

そこへ、訓練場の入口から明るい声が響いた。

振り返ると、木刀を片手に抱えたリナが、勢いよく駆け込んでくるところだった。

「リナ」

「何してるのかと思ったら、やっぱり訓練してたんだ! セレナ、泥だらけじゃない」

「り、リナさん……!」

セレナはちょうど泥濘から這い上がったところだった。金髪には土が絡み、頬は泥で汚れ、訓練服も見る影もない。

それでも、彼女は胸を張った。

「これは、アレンさんの弟子として当然の鍛錬ですわ。別に、泥まみれになっているわけではありません」

「いや、どう見ても泥まみれだけど」

「黙らっしゃい!」

リナはくすくす笑いながら、アレンの方へ視線を向けた。

「ねえ、アレン。私も混ざっていい?」

「お前は平民寮の講義はどうした」

「今日は午後から。朝の座学はもう終わったわ」

「本当か?」

「本当よ! セレナと違って、そこはちゃんとしてるから」

「リナさん!?」

セレナが抗議の声を上げる。

アレンは二人を見比べ、小さく息を吐いた。

「いいだろう。リナ、お前はセレナの横につけ。走り方を見て、どこで足が流れてるか教えてやれ」

「え、私が?」

「お前は泥の上で魔法を撃ちながら踏み込む癖がついてる。セレナよりは足場の悪さに慣れてるだろ」

「……ふふん。なるほど、私の方が一歩リードってわけね」

リナが得意げに胸を張る。

セレナはむっとした顔で睨み返した。

「言っておきますけれど、剣に関しては私の方が上ですわ」

「魔法を混ぜた実戦なら私の方が上よ」

「なら、確かめましょうか?」

「望むところよ」

二人の間に火花が散る。

アレンは黒誠を肩から下ろし、低く言った。

「なら、二人とも三十周だ」

「えっ」

「競うなら同じだけ走れ。勝った方には、最後に俺が一合だけ相手をしてやる」

その瞬間、二人の目の色が変わった。

「やりますわ!」

「絶対勝つ!」

セレナとリナは同時に走り出した。

泥を蹴り、障害物を越え、互いに負けじと前へ進む。セレナは剣士らしく重心をまっすぐ保とうとし、リナは泥に足を取られそうになるたびに小さな魔力の爆発で姿勢を補正する。

「リナ、魔法に頼りすぎだ。足で踏め」

「分かってる!」

「セレナ、上半身が固い。肩の力を抜け」

「はいっ!」

アレンの声が飛ぶたびに、二人の動きが少しずつ変わっていく。

それは地味な訓練だった。

派手な魔法も、華麗な剣舞もない。貴族の観客が喜ぶような見栄えなど、どこにもない。

だが、そこには確かに、戦場で生き残るための理があった。

第二訓練場の外れ。

古い石柱の影から、その様子を眺める一人の青年がいた。

クロード・ヴァン・オルタニア。

陰湿な精神魔法を得意とするオルタニア伯爵家の跡取りである。

「へえ……本当に泥の中で鍛えるんだ」

彼は眠たげな目を細め、興味深そうに呟いた。

昨日、アレンに忠告めいた言葉を投げた時から、彼の興味はさらに深まっていた。

魔力ゼロの執事。

魔力障壁を木刀で砕く男。

精神の表面を覗こうとしても、血と硝煙の霧しか見えない異常者。

そして今、その男は魔力を持たない公爵令嬢と、平民の特待生を同じ泥の上で走らせている。

貴族の秩序から見れば、滑稽な光景だ。

だが、クロードには分かる。

あれは、ただの鍛錬ではない。

身分を剥がし、魔力の有無を剥がし、最後に残った肉体と意志だけで人間を測る場だ。

「面白いなあ。実に、父上が嫌がりそうだ」

クロードは指先に、ごく薄い精神魔法を灯した。

殺意はない。攻撃でもない。

ほんの少し、心の表面に触れるだけ。

対象は、アレンではない。

あの男に直接触れるのは危険だ。昨日の一瞥だけで、それは理解している。

ならば、周囲から見る。

クロードの視線が、泥にまみれながら走るセレナへ向いた。

「君は、何を抱えているのかな。魔力なき公爵令嬢」

精神魔法【囁きウィスパー・スレッド】。

目に見えぬ細い糸が、風に紛れてセレナへ伸びる。相手の心の奥底までは覗かない。ただ、表層に浮かんだ弱音や迷いを拾い上げ、ほんの少し増幅するだけの魔法だ。

戦闘ではなく、観察のための術。

クロードはそう考えていた。

だが、その糸がセレナに触れた瞬間。

セレナの足が、わずかに止まった。

「……っ」

彼女の脳裏に、聞き慣れた声が蘇る。

──魔力も持たぬくせに。

──グランヴェル家の恥。

──ルシアン様の妹でなければ、誰もお前を見ない。

──剣など野蛮な遊びだ。

幼い頃から、何度も聞かされた言葉。

飲み込んだはずの痛み。

アレンに認められ、リナと競い、少しずつ前へ進んでいるはずなのに、その声は足元の泥のようにまとわりついてくる。

「セレナ?」

隣を走っていたリナが、すぐに異変に気づいた。

セレナの顔色が悪い。呼吸が乱れ、視線が揺れている。

「どうしたの?」

「……いえ、何でも」

セレナは無理に笑おうとした。

その瞬間、見えない糸が、彼女の心の傷をもう一度撫でた。

──お前は何者にもなれない。

セレナの膝が崩れた。

「セレナ!」

リナが支えようと手を伸ばす。

だが、それより早く。

カン、と硬い音が訓練場に響いた。

アレンの黒誠が、何もない空間を叩いていた。

「……へえ」

石柱の影で、クロードが目を見開く。

見えない精神魔法の糸が、途中で断ち切られていた。

アレンはセレナの前へ立ち、黒誠を片手に構えている。その三白眼は、まっすぐ石柱の影を射抜いていた。

「出てこい」

低い声。

訓練場の空気が、一瞬で冷えた。

フェリスも短刀に手を添え、影の方へ視線を向ける。

「クロード・ヴァン・オルタニア。そこにいるのは分かっている」

クロードは肩をすくめ、ゆっくりと姿を現した。

「いやあ、怖い怖い。まさか精神干渉の糸まで木刀で叩き落とすとは思わなかったよ」

「お前、セレナに何をした」

アレンの声に、冗談の余地はなかった。

クロードは両手を上げる。

「少し心の表面を撫でただけだよ。傷つけるつもりはなかった」

「傷つけるつもりがなければ、傷が開いても許されるのか」

クロードの笑みが、わずかに薄くなった。

「……なるほど。君は本当に、身内への干渉に敏感だね」

「質問に答えろ」

「精神魔法【囁き糸】。相手の表層意識に触れ、浮かんだ感情を少しだけ増幅する術だ。攻撃魔法ではない。僕としては、彼女がどんな心で君の訓練についていくのか、観察したかっただけ」

「観察、ねえ」

アレンは黒誠を肩に担いだ。

「俺の故郷じゃな、他人の傷口を面白半分でつつく奴を、観察者とは呼ばねえ。下衆って言うんだ」

クロードの目が、少しだけ細くなった。

「辛辣だなあ」

「まだ優しい方だ。セレナが倒れていたら、お前の腕を折っていた」

フェリスが横でぼそりと呟く。

「折るだけで済ませるのですか」

「学園内だからな」

「なるほど。学園外なら?」

「聞くな」

フェリスは無表情のまま、一歩だけクロードから距離を取った。

クロードは苦笑する。

「分かった。今回は僕が悪かった。謝るよ、セレナ嬢」

彼はセレナへ向き直り、軽く頭を下げた。

セレナはまだリナに支えられていたが、歯を食いしばって顔を上げた。

「……謝罪は受け取りますわ。でも、次に同じことをしたら、私自身の剣であなたのその糸を叩き落としてみせます」

クロードは一瞬、きょとんとした。

それから、心底楽しそうに笑った。

「いいね。君も面白い」

「私は面白い見世物ではありません」

「失礼。覚えておくよ」

クロードは再びアレンへ視線を戻した。

「アレン。君の黒い木刀、名前は?」

「黒誠」

「黒誠、か。いい名だね。精神魔法の糸まで斬るなら、ますます厄介だ」

「試すなら、次は正面から来い」

「正面から? オルタニア家にそれを求めるのは酷だよ」

クロードは肩をすくめた。

「でも、そうだね。次はもう少し礼儀を払う。君の身内に触れる時は、特に」

「二度目はない」

アレンの言葉に、クロードは笑みを深めたまま、静かに引いた。

「では、今日はここまで。……ああ、最後に一つだけ」

彼は去り際、振り返らずに言った。

「精神魔法は、心にないものを作る魔法じゃない。元からある傷や迷いを、少し見えやすくするだけだ。彼女が強くなりたいなら、足腰だけじゃなく、その傷とも向き合う必要がある」

アレンは答えなかった。

クロードの姿が回廊の奥へ消える。

訓練場に、重い沈黙が落ちた。

「セレナ」

アレンが振り返る。

セレナはリナの手を借りながら、どうにか立っていた。泥まみれの顔。震える膝。けれど、その瞳だけは折れていない。

「……申し訳、ありません。私、急に昔のことを思い出して」

「謝るな」

アレンは短く言った。

「心に傷があることは恥じゃねえ。傷を隠したまま戦場に出て、そこを突かれて倒れる方が問題だ」

セレナは唇を噛む。

「私は、まだ弱いですわ」

「ああ」

容赦のない肯定だった。

リナが思わずアレンを睨む。

「ちょっと、そこは少し励ましてあげなさいよ」

「弱いものを弱いと言わずに放置する方が酷だ」

アレンはセレナの前に立つ。

「だが、弱いままで終わるかどうかは、お前次第だ。魔力がねえ、家で笑われた、剣を否定された。そんなもん、全部背負って走れ。背負ったまま前へ出られる奴だけが、戦場で立っていられる」

セレナの瞳に、涙が滲んだ。

だが、それは悲しみだけではない。

「……はい」

彼女は泥に汚れた手で、涙を乱暴に拭った。

「私は、走ります。背負ったまま、前に出ます」

「なら続きだ」

「えっ」

「三十周の途中だろう」

「今の流れで!?」

「心の傷と向き合うのに、足腰の鍛錬が免除される理由はない」

「鬼ですわ!」

「知ってる」

セレナは一瞬だけぽかんとし、それから吹き出した。

リナもつられて笑う。

フェリスは呆れたようにため息をついた。

「本当に、情があるのかないのか分からない男ですね」

「あるから走らせるんだよ」

アレンは黒誠を肩に担いだ。

セレナは再び走り出す。

今度はリナも横に並び、彼女の歩幅に合わせた。

「ほら、セレナ。泥に入る前に少し膝を抜いて」

「こうですの?」

「そうそう。さっきよりいい」

「リナさんに褒められると、少し悔しいですわね」

「私もセレナに追いつかれたら悔しいから、お互い様よ」

二人は泥の中を走る。

不格好で、泥臭くて、貴族の令嬢や魔法学園の特待生にはとても見えない。

だが、アレンはその背中を見て、わずかに目を細めた。

(それでいい。綺麗に立つことばかり覚えた奴は、泥の中じゃ何もできねえ。転んで、汚れて、それでも立つ。その繰り返しが、最後には首一枚を繋ぐ)

黒誠が、アレンの手の中で静かに沈黙している。

精神魔法の糸を叩き落とした時の感触が、まだ手に残っていた。

魔力殻だけではない。

精神魔法のような、形の薄い術にも継ぎ目はある。

ならば、斬れる。

「……面白くなってきやがったな」

アレンの低い呟きに、フェリスがぎょっとした目を向ける。

「貴方、今の状況を面白いと言いましたか」

「言った」

「精神魔法の名家に目をつけられ、学園の秩序を揺るがし、黒の円卓も沈黙しているこの状況を?」

「敵が見え始めたなら、何も見えねえよりはマシだ」

フェリスは額に手を当てた。

「やはり危険です。この男、危機を危機として認識していない」

「してるさ」

アレンは不敵に笑う。

「だから、先に牙を研ぐんだよ」

夕方の訓練場に、二人の少女の荒い息と、泥を踏む音が響く。

その少し離れた回廊の影で、クロード・ヴァン・オルタニアは静かに目を閉じていた。

「……父上。あの男、やっぱり危険です」

誰に聞かせるでもない呟き。

だが、その口元には笑みがある。

「でも、退屈な学園を壊すなら、あれくらい危険な方がいい」

精神魔法の名家、オルタニア。

その影もまた、アレンという魔力ゼロの鬼へ、静かに興味を向け始めていた。

そして夜のどこかで、黒の円卓の沈黙はまだ続いている。

嵐は、まだ来ない。

だが、風向きは確実に変わっていた。

第70話をお読みいただきありがとうございました!


今回は、セレナをきちんと「泥にまみれて強くなるヒロイン」として描くのが楽しい回でした。

公爵令嬢なのに泥だらけで走るセレナ、そこに容赦なく指導を入れるアレン、横で張り合うリナの関係がかなり可愛かったですね。

一方で、クロードの精神魔法によって、セレナの心の傷にも少し踏み込む回になりました。


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