第69話:神木烏木の木刀、鬼の手に馴染む
特級魔導書庫最深部での測定から一夜が明けても、アレンの胸の奥には、あの奇妙な言葉が沈殿していた。
──虚孔。
魔力の器ではない。流路でもない。術式が落ちる穴。
エレノアはそう仮説を立てた。フェリスは「危険です」と断じた。アレン自身は、まだそれが何を意味するのか、完全には掴めていない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
使えるなら使う。邪魔になるなら斬る。
それが己の内側にある何かであっても、考え方は変わらない。
「アレン。聞いているかい?」
朝のグランヴェル家専用寮。ルシアンの部屋で、アレンは手元の書類へ羽根ペンを走らせながら、主君の声に顔を上げた。
「聞いている。バルトス子爵領からの穀物流通量が、先週よりさらに一割落ちている件だろう」
「そう。君が前に指摘してくれた収穫低下の兆候、やっぱり無視できない段階に入っている」
ルシアンは窓辺に立ち、朝日を受ける王都を見下ろしていた。その横顔は、学園の生徒ではなく、すでに一領を背負う者の顔だった。
「父上には?」
「昨日のうちに追加の報告を送ったよ。備蓄の確認と、周辺領への買い付け打診も進めてもらっている。君の特務隊からも、シオンさん経由でスラムの食糧価格の情報が届き始めている」
「シオンが?」
「うん。かなり丁寧な報告だった。ボルドさんの厨房経由の市場情報と、ミアさんたち監察方の裏路地情報が合わさっていて、予想以上に精度が高い」
アレンはペンを止め、わずかに口元を緩めた。
「……あいつら、案外やるじゃねえか」
「嬉しそうだね、アレン」
「気のせいだ」
「ふふ、そういうことにしておくよ」
ルシアンは微笑み、机の上に置かれた一通の封書を指差した。
「それと、君宛てに職人通りから連絡が来ている。神木烏木の加工が終わったそうだ」
アレンの三白眼が、すっと鋭くなった。
「もう仕上げたのか。腕のいい職人だな」
「行ってくるといい。今日は僕も午前中は座学だけだし、フェリスもいる。君が少し離れても問題ないよ」
部屋の隅に控えていたフェリスが、ぴくりと眉を動かす。
「ルシアン様。私がいるから安心、という意味でしたら当然です。ですが、この男を一人で外へ出すのは危険です」
「フェリス、君はアレンの監視も任務に含めているんだろう?」
「はい」
「なら、一緒に行ってきてくれるかな」
「……承知いたしました」
フェリスは一礼したが、その琥珀色の瞳には、明らかに「やはり監視を強化すべき」と書いてあった。
アレンは立ち上がり、燕尾服の袖口を整える。
「若旦那。昼までには戻る」
「うん。ああ、それと」
ルシアンは少しだけ楽しそうに目を細めた。
「セレナには、君が木刀を受け取りに行くことを伝えない方がいいかもしれないよ」
「なぜだ」
「昨日からずっと、神木烏木の木刀が完成したら一番に見届けるのは自分だ、と張り切っていたからね。知ったら講義を抜け出しかねない」
アレンは額に手を当てた。
「……あのお嬢様は」
「君の弟子だからね」
「弟子なら、まず講義を真面目に受けろ」
「そこは師匠から言ってあげて」
ルシアンの穏やかな笑みに見送られ、アレンとフェリスは寮を出た。
◇
職人通りは、朝から熱を帯びていた。
槌が鉄を打つ音。炉から立ち昇る熱気。油と木屑と汗の匂い。貴族の子弟が集う学園とはまるで違う、泥臭い生の現場。
アレンはこの空気が嫌いではなかった。
前世の多摩。薬売りとして村々を歩いた日々。道場で木刀を振るった日々。人間の手と足で、何かを形にしていく現場の匂いは、どこの世界でも変わらない。
「随分と機嫌がよさそうですね」
隣を歩くフェリスが、無表情のまま言った。
「そう見えるか」
「はい。普段より殺気が三割ほど薄いです」
「測り方が物騒だな」
「貴方を測るには、それくらいしか基準がありません」
「エレノア教授みてえなことを言い出したな」
「不本意です」
フェリスが少しだけ不機嫌そうに目を細めたところで、二人は目当ての工房へ到着した。
奥から現れたのは、白髪交じりの小柄な職人だった。背は低いが、腕だけが異様に太い。何十年も木と鉄を扱ってきた者の手だ。
「来たか、兄ちゃん」
「世話をかけたな」
「世話どころじゃねえ。あんな木、俺ァ生まれて初めて触ったぞ」
職人は奥の作業台へ向かい、布に包まれた長いものを持ってきた。
「神木烏木。学園の倉で眠ってたって聞いたが、ありゃ木じゃねえな。鉄より硬えくせに、刃物を入れると水みてえに吸いやがる。こっちの力が少しでも濁ると、すぐ刃を弾く。まるで職人の腕前を試してるみてえだった」
「それで、仕上がりは?」
職人はにやりと笑い、布を解いた。
現れたのは、漆黒の木刀だった。
光を吸い込むような黒。だが、表面には薄く銀にも似た木目が走っている。刀身は木刀でありながら、どこか真剣に近い冷たさを放っていた。
鍔はない。柄も余計な装飾を廃している。握りは細身で、しかし力を込めた瞬間に滑らないよう、微細な削りが入っていた。
アレンは無言でそれを受け取った。
その瞬間、フェリスの背筋に寒気が走った。
空気が変わったのだ。
アレンが真剣を抜いた時の、あの冷たい殺気とは少し違う。もっと静かで、もっと深い。漆黒の木刀が、アレンの手の中で呼吸を始めたように見えた。
「……軽いな」
アレンが呟く。
職人は目を丸くした。
「軽い、だと? それ、普通の木刀の三倍は重いぞ」
アレンは答えず、工房の裏庭へ視線を向けた。
「少し振っても?」
「壊すなよ。いや、壊れるような代物じゃねえが」
裏庭には、試し斬り用の古い丸太が立てられていた。鉄板を巻いた、魔法鍛錬用の頑丈な標的だ。
アレンは木刀を下段に構えた。
その姿を見て、フェリスが息を止める。
(抜刀でも、魔法でもない。ただ木刀を構えただけ。それなのに、なぜここまで空気が重くなるのですか……)
アレンは一歩、踏み込んだ。
瞬歩ではない。縮地でもない。ただの踏み込み。
だが、地面の砂はほとんど揺れず、次の瞬間には木刀の切っ先が丸太へ届いていた。
トン、と軽い音がした。
本当に、軽く触れただけのような音だった。
だが、鉄板を巻いた丸太の表面に、細い線が走る。
次の瞬間。
バギィィンッ!!
鉄板ごと、丸太が縦に割れた。
「……は?」
職人の口から、間抜けな声が漏れる。
フェリスもまた、完全に固まっていた。
(木刀で、鉄板を巻いた標的を割った? いいえ、違う。力任せに砕いたのではない。魔力の流れが、標的に巻かれた鉄板の補強術式だけが先に断ち切られた……!?)
アレンは木刀の刃筋を見つめ、満足げに目を細めた。
「なるほど。魔力を叩き斬るってのは、こういう感覚か」
「兄ちゃん……今、何をした」
職人が震える声で問う。
アレンは漆黒の木刀を肩に担いだ。
「軽く当てただけだ」
「軽く当てただけで、俺の標的を真っ二つにされたら商売にならねえんだが」
「悪い。弁償する」
「いや、いい。むしろ今ので、この木が本物だって分かった。……兄ちゃん、その木刀、名前を付けてやれ」
「名前?」
「ああ。武具ってのはな、使い手が本気で命を預けるなら、名が要る。そいつはただの木刀じゃねえ。あんたの手に渡った時点で、もう一振りの刀だ」
アレンは漆黒の木刀を見下ろした。
和泉守兼定は、前世から連なる己の魂そのものだ。では、この異世界で得たこの黒い木刀は何か。
魔力を斬る木。神木烏木。己の中の虚孔とやらを外へ逃がす安全弁になるかもしれない武具。
魔法至上の世界に、己の理を打ち込むための一歩。
「……黒誠」
アレンは低く呟いた。
「黒き誠で、黒誠だ。派手な名じゃねえが、お前にはそれで十分だろ」
その瞬間、木刀の表面を走る銀の木目が、わずかに淡く光った。
フェリスが目を見開く。
「今、反応しました。まさか、また名付けを……?」
「知らん。名前を呼んだだけだ」
「貴方の『名前を呼んだだけ』は、信用できません」
「ひどい言い草だな」
「自覚してください」
フェリスは頭が痛そうにこめかみを押さえた。
◇
学園に戻る頃には、昼の鐘が鳴っていた。
アレンはルシアンの部屋へ戻る前に、訓練場へ足を向けた。黒誠の感覚をもう少し確かめておきたかったからだ。
だが、訓練場の入口で、見覚えのある金髪が待ち構えていた。
「アレン」
セレナである。
腕を組み、頬を膨らませ、明らかに不満そうな顔をしている。
「……講義はどうした」
「終わりましたわ」
「本当か?」
「終わりましたわ」
「目が泳いでるぞ」
「終わったことにしましたわ」
「お嬢様」
アレンが低く呼ぶと、セレナはびくりと肩を震わせた。
「だ、だって! 神木烏木の木刀が完成したのなら、弟子である私が一番に見るべきでしょう!? それをこっそり受け取りに行くなんて、師匠としてどうかと思いますわ!」
「講義を抜け出す弟子を持った覚えはない」
「うっ」
セレナは言葉に詰まった。だが、すぐにアレンの手元へ視線を落とし、その瞳を輝かせる。
「それが……」
「ああ。神木烏木の木刀だ。名は黒誠」
「黒誠……」
セレナはその名を、宝物のように口の中で転がした。
「触っても?」
「まだ駄目です」
「なぜですの!?」
「重い。今のお前が無理に振れば、手首を壊す」
「そ、そんなに?」
「普通の木刀の三倍はあるらしい」
「それを片手で持っているあなたは何なのですか……」
横にいたフェリスが、ぼそりと呟いた。
「禁忌です」
「だから違う」
アレンは訓練場へ入り、中央に立った。
「セレナ。見るだけなら許す。だが、真似はするな」
「はい」
返事だけは素直だった。
アレンは黒誠を正眼に構えた。
兼定とは違う。刃ではない。だが、手の内にある重みは、確かに武具のそれだった。
魔力を叩き斬る性質。虚孔の安全弁。エレノアの仮説が正しければ、この木刀はアレンの異常性を外へ逃がすための導管にもなる。
ならば、試す価値はある。
アレンは訓練場の端に設置された魔法障壁付きの標的へ向き直った。
フェリスがすぐに気づく。
「待ってください。あれは上級生用の障壁標的です。木刀で叩くようなものでは」
「だから試す」
アレンは一歩を踏み出した。
瞬歩。
地面が揺れない。草も鳴らない。ただ、アレンの姿だけが空間から抜け落ちる。
次の瞬間、黒誠の切っ先が障壁へ触れた。
触れた、だけだった。
だが、障壁の表面に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
「魔力殻の継ぎ目……」
フェリスが呟く。
アレンは腰を沈め、黒誠をわずかに押し込む。
バリンッ!!
障壁が砕けた。
標的本体は壊れていない。砕けたのは、表面を覆っていた魔力の殻だけだ。
「……成功だな」
アレンは黒誠を肩に担いだ。
セレナは言葉を失っていた。
魔法を使えない自分が、剣で戦う意味。ずっと探していた答えが、目の前にある。魔法は絶対ではない。魔力の壁も、構造を見切れば斬れる。ならば、自分もいつか、この理へ手を伸ばせるかもしれない。
「アレン……私にも、いつか」
「無理です」
「最後まで言わせてくださいまし!?」
「今は無理だと言っただけです」
アレンはセレナを見た。
「足腰、握り、呼吸、間合い。全部足りない。だが、諦めずに積めば、いつか魔法の壁に一太刀入れるくらいはできるかもしれない」
セレナの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当ですの!?」
「かもしれない、と言いました」
「十分ですわ!」
彼女は拳を握りしめ、今にも飛び跳ねそうな勢いだった。
その時、訓練場の入口から、軽い拍手の音が響いた。
「いやあ、実に興味深いね」
アレンの目が細くなる。
そこに立っていたのは、学園の制服をだらしなく着崩した、一人の青年だった。薄い灰色の髪。眠たげな目。口元には、何を考えているか分からない笑み。
フェリスが即座に短刀へ手を添えた。
「クロード・ヴァン・オルタニア……」
セレナの顔にも警戒が走る。
オルタニア伯爵家の跡取り。陰湿な精神魔法を扱う家の子息。先の審問会でアレンの内面を覗こうとして逆に戦場の臭いに冷や汗を流した、バルトロ・ヴァン・オルタニアの血を引く男。
クロードは両手を上げ、敵意はないと示すように笑った。
「怖いなあ。僕はただ、面白い音がしたから見に来ただけだよ。魔力障壁が、悲鳴を上げずに死んだ音がした」
「趣味の悪い耳だな」
アレンが低く言うと、クロードは楽しげに肩をすくめた。
「よく言われる。……アレン、だったね。君は本当に面白い。魔力がないのに魔法を壊す。精神の表面を覗こうとしても、そこには血と硝煙の霧しかない。そして今度は、魔力を叩き斬る黒い木刀か」
「何が言いたい」
「忠告だよ」
クロードの眠たげな目が、ほんの一瞬だけ冷たくなった。
「君、そろそろ学園の怪談になり始めている。ボルテール家だけじゃない。フロストハイムも、ウインザードも、オルタニアも、君を見ている。黒の円卓だけじゃなく、味方の顔をした貴族たちもね」
空気が張り詰めた。
フェリスの殺気が、薄く広がる。
「それを知らせに来たのですか」
「半分はね」
クロードはにこりと笑った。
「もう半分は、個人的な興味。僕の精神魔法が君に通じるのか、いつか試してみたい」
「試した瞬間、首が飛ぶぞ」
アレンの声には、冗談の色が一切なかった。
クロードは一瞬だけ沈黙し、それから楽しそうに笑った。
「いいね。そういうところが、実に怖くて面白い」
彼は踵を返し、去り際に一つだけ言葉を残した。
「気をつけなよ、魔力ゼロの執事。君が斬っているのは魔法だけじゃない。この学園の、古い秩序そのものだ」
クロードの姿が回廊の向こうへ消える。
セレナが不安げにアレンを見上げた。
「アレン……」
「気にするな」
アレンは黒誠を腰に差すように持ち替えた。
「古い秩序だろうが何だろうが、ルシアン様に牙を向くなら斬るだけだ」
その声は静かだった。
けれど、フェリスには分かった。
この男は本気で言っている。相手が一人の貴族であろうと、学園そのものであろうと、国の古い理であろうと、主君の行く道を塞ぐなら斬る。
(危険。あまりにも危険。けれど……)
フェリスは、黒誠を携えたアレンの背を見つめる。
(ルシアン様の前に立つ盾として、これほど頼もしい存在もない)
「アレン」
セレナが木刀を見つめたまま、静かに言った。
「私、もっと強くなります。魔法がなくても、古い秩序に笑われても、あなたが示してくれた道を、絶対に諦めません」
アレンは少しだけ目を細めた。
「なら、まずは講義を抜け出さないことだな」
「うっ」
「今日の分は、夕方に補習だ。足腰二倍」
「に、二倍!?」
「弟子が勝手をした罰だ」
「鬼ですわ!」
「今さらだろ」
セレナの悲鳴が訓練場に響く。
その少し後ろで、フェリスは小さくため息をついた。
だが、彼女の視線はもう、ただの監視のそれではなかった。
黒誠。
虚孔。
魔力殻を砕く木刀。
そして、学園の古い秩序を斬り裂き始めた魔力ゼロの執事。
聖アイビス国立魔法学園の静かな日常は、アレンという存在を中心に、少しずつ、だが確実に歪み始めていた。
その歪みの向こう側で、黒の円卓がまだ沈黙している。
沈黙とは、何もしていないという意味ではない。
嵐の前ほど、夜は静かに息を潜めるものだった。




