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第3話:異形の群れと鬼の包丁

「ゴブリンだか何だか知らねぇが、どうせ山賊の類か、せいぜい質の悪い猪だろうよ」

土方は、アレンの両親が食卓で交わす物騒な噂話を、冷めた耳で聞き流していた。

幕末の修羅場を駆け抜け、近代兵器の弾雨をも潜り抜けた彼にとって、怪力乱神の類は無知な者が広める迷信に過ぎない。 今の彼にとっての真の「敵」は、目の前の化け物ではなく、この鈍りきった少年の体そのものだった。 まずは戦える体に鍛え直す――それが最優先事項だった。

だが、平穏は唐突に破れる。

「リナが、リナが夕方から帰ってこないのよ!」

隣家の母親の悲鳴のような叫びと共に、村は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。 大人たちが松明を掲げ、狼狽しながら右往左往している。

赤の他人を助ける義理はない。 ここで命を賭ける合理性などどこにもない。

そう冷酷に断じようとした土方の脳裏に、昼間、いじめっ子の理不尽な魔法から、恐怖に震えながらも自分を庇おうとした少女の背中が浮かんだ。

(……チッ。借りを残したまま死ぬのは、どうにも寝覚めが悪い)

土方は両親が騒ぎに気を取られている隙を見計らい、台所へと滑り込んだ。 狙いを定めたのは、一本の菜切り包丁。 それを素早く衣服の内に掠め取ると、誰にも告げず、一人夜の漆黒の森へと消えた。

誘拐、あるいは拉致。 ならば、追手の目を眩ませやすく、かつ生活の痕跡が外に漏れにくい場所を選ぶのが鉄則だ。

(……狙いは、裏山の洞窟だな)

新選組副長として京の治安を預かり、幾度となく悪党の隠れ家を叩き潰してきた勘が、迷うことなく土方の足を目的地へと向けさせた。

■ 洞窟の異形

ひんやりとした湿った岩肌を撫で、気配を殺して奥へと進む。 やがて、土方の冷徹な目に、最奥の地面に倒れ伏すリナの姿が映った。

服は破れ、ぐったりとしているが、まだ息はある。 駆け寄ろうとした、その時だった。

背後の色濃い闇から、ねっとりとした殺気と共に「それ」は現れた。

「……ッ!?」

緑色の醜悪な肌、裂けた口から覗く黄色い牙。 かすかな松明の火に照らされたのは、人間でも獣でもない、この世界の住人が恐れる異形の存在――ゴブリンだった。

生前、どれほどの修羅場を潜った土方とて、本物の「化け物」を見るのは初めてだ。 驚愕が一瞬、その思考を止めかける。

だが、戦士の血が、理屈よりも先にその肉体を動かした。

――キィィッ!

耳を裂くような鳴き声と共に、闇の奥から一本の矢が放たれる。 土方は懐から包丁を抜き放ち、逆手に構えると、最小限の体捌きでその風切り音の芯を弾き飛ばした。

キィンッ!

硬質な打突音が洞窟内に高く響き渡る。

「まともな道具も使えねぇ獣かと思えば、弓まで操るか……」

暗闇にじっと目を凝らす。 散らばる複数の気配。岩陰の死角からこちらを狙う弓兵スカウトの配置を、土方の目はすでに冷徹に捉えていた。

その瞬間、彼の脳裏に強烈な前世の記憶がフラッシュバックする。

(なるほど。これじゃあ桑名や会津の山中で、ゲリラ戦を仕掛けてきた――お調子者の官軍の足軽どもと変わらねぇな)

相手が未知の化け物だろうが関係ない。 集団による山岳戦、奇襲戦の基本は、どこの世界でも、相手が誰であっても同じだ。

射手の射線を遮る遮蔽物(岩床)を常に意識し、敵の連携が機能する前に、個個を迅速に撃破する。 戦術の引き出しにカチリと状況が当てはまった瞬間、土方の殺気が一段階、跳ね上がった。

もはやこれは、ただの子供の救出劇ではない。彼にとっての「戦争」だ。

土方は姿勢を極限まで低くし、地を這うような速度で間合いを詰めた。 手にしたのは刀ではない、ただの薄刃の菜切り包丁。

だが、天然理心流の「殺しの間合い」に踏み込めば、それは一撃必殺の凶器へと変わる。

「――ふん」

冷たい吐息と共に、一閃。 ゴブリンが声を上げる間もなく、包丁の薄刃がその喉笛を正確に断ち切った。

ブシャリ、と嫌な感触の返り血を浴びながらも、土方は眉一つ動かさない。 次々と闇から躍り出る個体を、最小限の動きで捌き、急所を突いていく。

狭く天井の低い洞窟内では、長い獲物は壁に当たって隙を生む。 リーチの短いこの包丁こそが、今の状況における最適解だった。

「あ、あ、れん……?」

気絶から覚めたリナの瞳に、返り血を浴び、無表情のまま淡々と異形を屠っていく少年の姿が映る。 その姿は、彼女の知る「気弱でひ弱なアレン」とは似ても似つかぬ、冷酷な剣鬼そのものだった。

■ 巨躯の恐怖、ホブゴブリン

最後の一体を仕留め、包丁に付着した緑色の血を軽く振って落とす。 土方はリナに歩み寄った。

「立てるか。さっさと帰るぞ」

「あ、う、うん……」

安堵からか、あるいは土方の放つ異様な威圧感への恐怖からか、激しく震えるリナを背負おうとした、その時だった。

ゴ、ゴゴゴゴゴ……。

洞窟全体を激しく揺らすような、重苦しい足音が奥から響いてきた。

「……アレン、逃げて……! ホブゴブリンが来る!」

リナの悲鳴と同時に闇の奥から現れたのは、通常のゴブリンの倍近い巨躯を持つ怪物だった。 その丸太のような腕には、無造作にトゲが植えられた巨大なこん棒が握られている。

土方は瞬時に状況を計算する。 撤退――いや、リナが足を痛めている。この少年の体力で、彼女を背負ったままでは確実に背後から叩き潰される。

(……チッ、仕事が重なるぜ)

土方は地べたに唾を吐き捨て、包丁を順手に握り直した。

相手の図体はデカい。 小柄な少年の体では、普通に構えても心臓や首といった一撃必殺の急所には届かない。

ならば、削るまでだ。

――ガルルルルオオオッ!!

ホブゴブリンが咆哮し、狂暴な力任せにこん棒を叩きつける。 岩床が砕け散る凄まじい轟音。 土方は紙一重の踏み込みでそれをかわすと、こん棒が地面に激突した瞬間の大きな隙を突き、その懐へと潜り込んだ。

肉の薄い部位、関節の隙間。 包丁の切っ先が、怪物の足首、膝、そして重い武器を支える腕の腱を、精密機械のように的確に刻んでいく。

「一発で死なねぇなら、死ぬまで斬るだけだ!」

全盛期の肉体ではない。一撃の重さが圧倒的に足りない。 だが、土方には無数の死線を越えた経験があった。 戦場において、綺麗な技を繰り出した者ではなく、最後まで泥に塗れて立っていた者が勝者であるという、絶対の真理。

激痛に暴れ狂うホブゴブリン。 アレンの肉体は悲鳴を上げ、呼吸は乱れ、肺は焼けるように熱い。 だが、その瞳だけは、恐ろしいほど冷たく澄んでいた。

怪物が痛みに耐えかね、大きくこん棒を振り上げた一瞬の隙。

土方は振り下ろされる直前の丸太のような腕を足場に、その巨躯へと一気に飛び乗った。

「これで……おしまいだッ!」

怪物の肩に跨り、少年の全体重を乗せた渾身の力で、菜切り包丁を怪物の太い首筋へと深く突き立てる。

――ギェァァァアアアッ!!!

断末魔の叫び。 暴れ狂う怪物に振り落とされそうになりながらも、土方は包丁の柄を離さず、さらに体重をかけて横一線に抉り抜いた。

ドスゥン、と地響きを立てて、巨木が倒れるように怪物が力尽きた。

■ 帰還、そして温もり

静寂が戻った洞窟の中で、土方は激しく上下する肩を落ち着かせながら、己の非力さを噛み締めていた。

(……包丁一本、化け物数匹相手にここまで手こずるとはな。課題は山積みだ)

今のままでは、到底「戦える体」とは呼べない。 さらなる訓練の必要性を痛感していると、背後から怯えた、しかし切実な声が響いた。

「アレン……大丈夫? どこか、怪我はない……?」

リナの声に、土方は一瞬、戸惑った。 化け物に遭遇し、恐怖に怯えていたはずの彼女が、自分を助けた相手への感謝や恐怖よりも先に、こちら側の身を心配している。

(……おかしな奴だ。自分の方が死にかけておきながら)

「……かすり傷だ。気にするな」

土方は無言のまま、リナを強引に背負い、冷たい夜の洞窟を後にした。

――村へ戻れば、当然のように大騒動となった。

リナの両親は涙を流して娘を抱きしめ、土方の両親は「一人でそんな無茶をして!」と、我が子を抱きしめながら烈火の如く怒った。

だが。 その怒声の裏にある、自分を失うことを本気で恐れる「親」の情に触れたとき、土方歳三の冷徹な心に、かつてない奇妙な波紋が広がった。

(土方歳三としてではなく……アレンとして、大切にされている、か)

かつて命を捧げた、記憶の中の「誠」の旗。 それとは違う、この泥臭くも、どうしようもなく温かい日常。

土方は、疲弊した重い足取りで自分の部屋のベッドへ向かいながら、この新しき戦場でどう生き抜き、この温もりをどう守るべきか、静かに考え始めていた。

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