第26話:肺が焼ける贅沢
第26話をお読みいただきありがとうございます! 鬼局長アレンの「休暇」という名のスパルタ合宿が、ついに幕を開けます。 あらかじめ訓練用の服を用意し、並々ならぬ覚悟で臨む公爵令嬢のセレナ。そして、アレンの隣を奪われまいと意地で食らいつく幼馴染のリナ。 二人を待っていたのは、前世の新選組隊士すら這いつくばった地獄の基礎体力作りでした。限界を迎えたセレナに、アレンが静かに問いかけた言葉とは――!?
「――足が止まってんぞ! 声が出るうちはまだ動ける証拠だ、動かせ!」
のどかな田舎村のあぜ道に、およそ似つかわしくない獰猛な怒号が響き渡っていた。
声の主はアレンだ。 数日前まで領都で大物貴族を震え上がらせていた少年は、故郷に戻るやいなや、私服の袖を荒々しく捲り上げ、手にした細い竹鞭を指揮棒のように振りながら、容赦なく二人を追い込んでいた。
その視線の先を、二つの影が這うようにして走っている。
「はっ、ひ、ふぅ……っ! く、くそ……っ!」 「……っ、……っ!」
激しい荒息を漏らしながら走るのは、幼馴染のリナと、公爵令嬢のセレナだった。
セレナの覚悟は本物だった。彼女は馬車から降りた後、周囲が挨拶を交わす僅かな時間で、あらかじめ用意していた動きやすい訓練用の服装へと着替えていた。華美な装飾をすべて排したその姿からは、公爵令嬢の甘えを捨ててでもアレンの流儀を学ぶという、並々ならぬ気概が満ち満ちていた。
そのただならぬ雰囲気に突き動かされ、「私も負けてられない!」とリナも特訓に強制参戦した。
だが、二人を待っていたのは、アレンという名の『鬼』が課す、およそ人間に対するものとは思えない地獄の基礎メニューだった。
「アレン、お前……! いくら何でも、初日から村を十周なんて、死んじゃうわよ……っ!」
たまらずリナが抗議の声を上げる。魔法の才能があり、それなりに身体強化の術も使えるリナですら、すでに全身の筋肉が悲鳴を上げ、視界がチカチカと明滅していた。
しかし、アレンの切れ長の瞳には、一切の妥協も温情もなかった。
「ここが戦場だったら、敵は魔力が切れようが足の骨が折れようが待っちゃくれねえんだよ! 綺麗に整えられた訓練場と違って、ここは泥もあれば石もある不整地だ。ここで足腰を徹底的にいじめ抜かなきゃ、天然理心流の足捌きなんて一生身につかねえぞ!」
それは、かつて多摩の試衛館で、そして京の壬生村で、数々の不逞浪士を斬り伏せてきた新選組の、あまりにも泥臭く、あまりにも実戦的な生存のための思想だった。
「う、ぅ……!」
とうに限界を迎えているはずのセレナが、ぬかるんだ泥に足を滑らせ、派手に転倒した。 訓練服は土に汚れ、美しい金髪には草が絡みついている。
「セレナ様!」 村の広場からハラハラしながら見守っていたアレンの両親や村人たちが、思わず悲鳴のような声を上げた。いくらなんでも、あの大物領主ガラルド公爵の愛娘をこんな目に遭わせては……と生きた心地がしない。
だが、アレンは竹鞭を引くと、泥まみれになって呼吸を乱すセレナの前で、静かに片膝をついた。 視線を、彼女の目線と真っ直ぐに合わせる。
その瞳は冷酷に突き放すものではなく、彼女の心の奥底を覗き込むような、深く、静かな光を湛えていた。
「どうした、お嬢。公爵家の温室が恋しくなったか」
アレンの声は、先ほどまでの怒号とは打って変わり、驚くほど低く、穏やかなものだった。
「あんたがこの村へ、何のためにわざわざ泥をすすりに来たのか、もう一度よく思い出してみな。……もし、ここで諦めるっていうなら、俺は止めねぇ。今すぐ馬車を呼んで領都へ帰りな。元より、ここはあんたみたいな身分の人間が無理して来る場所じゃねえんだからな」
厳しい言葉だったが、そこには「お前の覚悟はそんなものか」という、アレンなりの不骨な問いかけと、セレナの意志を尊重する優しさが滲んでいた。
セレナは、はっと目を見開いた。 アレンの静かな視線が、彼女が強くなりたいと願ったあの夜の記憶――「落ちこぼれ」と蔑まれながらも、泥をすすって這い上がろうと決意したあの瞬間の炎を、再び激しく燃え立たせる。
(……ここで諦めたら、私は一生、あの暗い部屋の私に戻ってしまう……! アレンに、世界で初めて私を見つけてくれたあの人に、私は私の覚悟を証明したい……!)
「だ、誰が……帰る、ものですか……っ!」
セレナは泥まみれの手で地面を強く掴むと、震える膝を無理やり押し込み、執念だけで立ち上がった。公爵令嬢としてのプライドを、いま彼女は、アレンの過酷な流儀に食らいつくためだけに燃やしていた。
その姿を見たリナの胸に、激しい火花が散る。
(あのお嬢様、本当に着替えてまで本気で来てるんだ……。なんであんな目をして立ち上がれるのよ……っ! 負けてられない、アレンの隣にいるのは、ずっと私だったんだから……!)
「はああああああっ!」
リナは残った魔力を強引に足に巡らせ、地面を蹴った。それを見たセレナも、息が詰まるような苦悶の表情を浮かべながら、再び走り出す。
アレンは立ち上がり、そんな二人の少女の背中を見送りながら、フッと満足げに口元を歪めた。
「へっ……いい面構えだ。その調子で、肺が焼ける贅沢を骨の髄まで味わいな!」
◇
その日の暮れ。 アレンの実家の食堂には、異様な静寂が広がっていた。
「……」 「……」
食卓を挟んで座るリナとセレナは、完全に燃え尽きた泥人形のようになっていた。指一本動かす体力すら残っておらず、お互いを睨み合うだけの気力も底を突いている。
そこへ、アレンの母親が、湯気を立てる巨大な大皿を運んできた。 村で採れた新鮮な野菜と、猪の肉をごった煮にした、アレンの好物である不骨な村料理だ。かつて新選組の屯所で、隊士たちが車座になって貪り食った「屯所鍋」を彷彿とさせる、豪快な匂いが部屋を満たす。
「ほらほら、二人ともたくさんお食べ。アレンのしごきに耐えるなんて、本当によく頑張ったわねぇ」
母親の優しい声に、二人の胃袋が猛烈に自己主張を始めた。 セレナは、公爵令嬢としてのマナーなど完全に忘れた手つきで、木のスプーンを掴むと、熱々の煮込みを口へと運んだ。
「――っ! 美味しい……ですわ……! 体に染み渡ります……」
「でしょ? 私が、アレンがいない間もずっと特訓を続けて来られたのは、この村のご飯があるからなんだから」
リナも負けじと、大きな肉を口いっぱいに頬張る。 極限の飢餓と疲労の中で食べる、泥臭くも温かい料理。それは、王宮のどんな高級宮廷料理よりも、今の二人の身体に深く染み渡っていった。
ふと、二人の視線が交わった。 お互いに顔は泥と煤で汚れ、髪はボサボサだ。お世辞にも「美しい少女」とは言えない無様な格好だったが、その姿を見た瞬間、二人の口元から自然と小さな笑みが漏れた。
「貴方、平民のくせに、随分と生意気な走り方をしますわね」 「お嬢様こそ、あんなに必死に走るなんて、とんだお転婆さんじゃない」
まだトゲはある。だが、その言葉の裏には、あの地獄の『鬼のしごき』を共に生き抜いた者同士にしか分からない、奇妙な戦友意識が確実に芽生え始めていた。
「ちっ、口が動くならまだ余裕がある証拠だな。明日は夜明け前から、木刀の素振りを五千本だ。遅れた奴は飯抜きにするからな」
飯を黙々と口に運んでいたアレンが、冷酷にそう言い放つ。 二人の少女は一瞬だけ絶望の表情を浮かべたが、直後、今度は息を合わせて、アレンを鋭く睨み返した。
「「――望むところよ(ですわ)!!」」
鬼の休息となるはずだった休暇は、こうして、二人の少女が新たな強さを開花させるための、激しい修行の日々へと変わっていくのだった。
第26話をお読みいただきありがとうございます! 訓練服に身を包み、限界を超えてなお立ち上がるセレナ。そして、アレンの横を譲るまいと意地を見せるリナ。 片膝をついてセレナの覚悟を確かめたアレンの「鬼副長」としての器の大きさに、二人の少女はさらに引き締まった表情を見せてくれました。
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