第133話:規定書の余白、地下へ続く白い鍵
第133話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、保護室へ入る前に規定書を確認する回です。
ルシアンの交渉力、アレンの違和感察知、そしてノエルが自分の感情を守ろうとする場面に注目していただけると嬉しいです。
「規定書の閲覧は、第二記録室で行います」
マルティナ・セレーネはそう告げると、保護室の扉をいったん閉じた。
ノエルはまだ保護室の外にいる。入室前の術式確認を求めた以上、今すぐ閉じ込められることはない。だが、その小さな肩には、見えない糸のような緊張が絡みついていた。
「大丈夫?」
リナがそっと声をかける。
「はい。……怖いです。でも、今は怖いままでいたいんです」
ノエルは胸元の銀鈴へ指を添えた。
「怖いのに、怖くないことにされる方が、もっと怖いので」
アレンはその言葉に、ほんのわずか口元を緩めた。
「上等だ」
甘く慰める気はない。
だが、震えながらでも自分の怖さを手放さない者は、もうただの獲物ではない。
第二記録室は、保護室のすぐ近くにあった。
壁一面に白革の規定書が並び、中央の閲覧台には銀の鎖で繋がれた分厚い冊子が置かれている。紙は白い。だが、古い血を何度も洗った布のような、妙な薄さがあった。
マルティナが銀筆を置き、冊子を開く。
「聖務監査院保護規定、第七章。証言者保護室の使用目的は、外的干渉から証言者を隔離し、精神負荷を下げ、正確な証言を保つこと」
「その鎮静術式の詳細を」
ルシアンが即座に言う。
ガルディオ司祭は、閲覧室の入口近くに立ったまま柔らかく笑っていた。
「そこまで細かくご覧になる必要はないかと。術式は聖務監査院の正規設備。疑うこと自体、院への侮辱になりかねません」
「侮辱ではありません。確認です」
ルシアンの声は、あくまで穏やかだった。
「正規設備だからこそ、正規の記載があるはずでしょう」
マルティナは無言でページをめくった。
アレンは横から紙面を見る。
丁寧な筆致。整った行間。規則の文言に乱れはない。
だが、紙の右端だけが、わずかに新しい。
紙を継ぎ足したのではない。古い文字の上から、薄く削って書き直している。
(書き換えたな)
アレンは目だけでルシアンへ合図を送った。
ルシアンも気づいたのだろう。微笑みの角度が、少しだけ変わる。
「マルティナ殿。そのページ、改訂履歴をお願いします」
「改訂履歴?」
「規定書であれば、いつ、誰が、どの権限で改訂したかが残るはずです」
マルティナの灰色の瞳が、ページの端へ落ちた。
彼女の筆が止まる。
「……改訂印がありません」
空気が凍った。
ガルディオの笑みは消えない。だが、その目だけが細くなる。
「古い規定書には、写本時の抜けがあるものです」
「抜けで済ませるには、随分と都合が良すぎますね」
ルシアンはページを指さした。
「鎮静術式の項目だけ、改訂印がない。しかも、保護室入室前に『予備鎮静』を行うとある。ノエルさんへ、これを適用する予定でしたか」
マルティナはすぐには答えなかった。
規則を信じている者ほど、規則そのものに傷がある時、動きが鈍る。
アレンはその沈黙を見て、静かに口を開いた。
「予備鎮静ってのは、言い換えりゃ証言前に声の角を落とす処置だろ。泣くな、怒るな、疑うな。そうして丸くなった言葉だけを『正確な証言』として残す」
「……そのような解釈は」
マルティナの声は硬い。
「なら、床下の鐘は何だ」
アレンの一言で、閲覧室の温度が落ちた。
マルティナが顔を上げる。
「床下?」
「ノエルが聞いた。アルクも匂いを拾ってる。保護室の下に、声を集める何かがある」
アルクが低く唸った。
「下。鈴、ちがう。口、いっぱい」
「口……?」
リナが顔をしかめる。
ノエルは蒼白になりながらも、銀鈴を握りしめた。
「たくさんの声です。泣いている声、祈っている声、何かを言いかけて途中で消えた声……」
マルティナの筆先が震えた。
それは恐怖ではない。
自分が管理してきた白い手続きの下に、知らないものが埋まっていると悟った者の動揺だった。
「保護室の下層には、旧声蔵があります」
マルティナは低く言った。
「古い証言保管区画です。現在は閉鎖済みで、使用記録はありません」
「使用記録がない場所ほど、悪さには向いてる」
アレンが即答する。
ガルディオが、静かに息を吐いた。
「閉鎖区画の確認には、院長権限が必要です。外部の方を軽々しく入れるわけには」
「では、院長権限を取りましょう」
ルシアンが遮った。
「ただしその間、ノエルさんを保護室へ入れることは認めません。証言者本人が術式確認を求め、規定書には改訂印のない不審な項目がある。さらに床下に旧区画の存在が確認された。外部立会人として、十分な停止理由です」
言葉が刃のように並ぶ。
アレンが泥の中で拾った違和感を、ルシアンが表の文言へ変えていく。
ガルディオの笑みが、また一瞬だけ薄くなる。
「……グランヴェル家の方々は、随分と強引でいらっしゃる」
「強引なのは嫌いではありません」
ルシアンはにこりと笑った。
「ただ、証言者の声を削るよりは上品だと思っています」
その時、閲覧室の扉が軽く叩かれた。
白い盆を持った聖務官が入ってくる。盆の上には、透明な小瓶と、薄い香草湯の杯が並んでいた。
「証言者の緊張緩和用です。保護室入室前に、規定に従い」
「置くな」
アレンの声が飛んだ。
聖務官の手が止まる。
アルクが歯を剥く。
「それ、音、溶けてる」
アレンは聖務官へ近づき、杯を覗き込んだ。香りは薄い。薬草としては悪くない。だが、底に沈む銀粉が、ほんのわずかに黒ずんでいる。
「ガルディオ司祭」
アレンは杯から目を離さずに言った。
「随分と親切な院だな。証言者が自分の不安を消されたくないと言った直後に、ちょうど緊張緩和の飲み物が来る」
「聖務官の通常業務でしょう」
「なら、その通常業務ごと止めろ」
アレンの三白眼が、聖務官を射抜く。
「悪いが、ノエルの口に入るものは、俺かルシアンの確認なしでは通さねえ」
聖務官は青ざめた。
マルティナが静かに銀筆を取る。
「記録します。証言者用鎮静飲料、外部立会人により一時停止。理由、規定書改訂印不備および床下旧区画疑義」
ガルディオの瞳が、ほんの一瞬だけ冷えた。
アレンはそれを見て、ようやく笑った。
「いいじゃねえか、記録審理官。今の記録は嫌いじゃねえ」
マルティナは答えない。
ただ、銀筆を握る指に、少しだけ力が入っていた。
遠く、監査院のどこかで、布を巻かれた鐘が揺れる気配がした。
音はまだ、鳴らない。
だが、ノエルの銀鈴だけが、ちり、と細く震え続けている。
アレンは白い閲覧室の床を見下ろした。
地下にあるという旧声蔵。
そこに集められた、消えかけの声。
「さて」
アレンは静かに息を吐く。
「今度は、紙じゃなく床をめくる番だな」
第133話をお読みいただきありがとうございました!
今回は、戦闘ではなく規定書と手続きで追い詰める回でした。
ルシアンが静かに不備を突いていくところは、アレンとは別方向の強さとして書いていて楽しかったです。
ノエルの「怖いままでいたい」という言葉も、彼女の成長が出ていて可愛く、健気な場面になったと思います。
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