第129話:移送前夜、帳簿を守る影
第129話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、ノエルが握った鈴番記録を守る回です。
ルシアンの公的な判断、リナの優しさ、アレンの冷徹な見抜きがそれぞれ出る場面になっています。
古鐘都市へ向かう前の不穏な仕掛けにも注目していただけると嬉しいです。
ガルディオ司祭が去った後も、小礼拝堂には甘い香油の匂いが残っていた。
白い床。銀鈴。整えられた祭壇。
何もかも清らかに見えるのに、アレンには、そこだけが薄い膜で覆われた腐肉のように感じられた。
「アレン」
ルシアンが、静かに声をかける。
周囲にはエステル、ノエル、フェリス、リナがいる。公的な場だ。アレンは一礼し、執事の顔で応じた。
「はい、ルシアン様」
「帳簿をこのまま持っていると、盗難扱いにされる。けれど返せば、証拠は消える。なら、今ここで写しを取ろう」
ルシアンの判断は速かった。
フェリスが即座に部屋の隅へ動き、扉と窓を確認する。リナはノエルの隣に立ち、帳簿を抱える少女の震えを隠すように肩を寄せた。
「ノエルさん。大丈夫。手が震えるなら、私が押さえるから」
「あ……ありがとうございます、リナ様」
「様はいらないよ。今は、同じ場所に立ってるんだから」
リナの言葉に、ノエルは一瞬だけ泣きそうな顔をした。
アレンは祭壇脇の卓を引き寄せ、帳簿を開く。半年前からの鈴番記録。日付、承認印、配置理由、鈴番名。
そこに、ノエルの名が繰り返されている。
同じ筆跡。
同じ印。
同じように、疲労を示す備考欄だけが空白。
「なるほどな。上手いもんだ」
「何がだい」
「都合の悪いところを書かない。だが、書かなかった癖は残る」
アレンは指先で備考欄を叩いた。
「普通、鈴番の負荷が強い夜なら、体調や交代の記録が残る。こいつはそれを一切省いてる。ノエルが壊れかけても、記録上は何も起きていないことにするためだ」
ノエルの唇が、青くなる。
ルシアンは顔色を変えず、淡々と写しを取り始めた。優雅な筆致のまま、必要な箇所だけを抜き出していく。誰が見ても公的文書として通るよう、日付、印影、記載の偏りを整えて写す。
「フェリス、封蝋を」
「承知しました、ルシアン様」
フェリスは懐から小さな封蝋具を取り出した。グランヴェル公爵家の紋が入った正式なものだ。
写しは一部では足りない。
ルシアンが作った公的写し。
エステルが聖教国側の立会人として認める写し。
そして、アレンが個人的に預かる、ただの走り書きに見える控え。
それぞれを別々に作り、別々の場所に隠す。
「これで、どれか一つ消されても全部は消えない」
ルシアンが言うと、アレンは小さく笑った。
「相変わらず、嫌なところまで頭が回るな」
「君ほどじゃないよ」
短い会話だった。
だが、そのやり取りだけで、ノエルは少しだけ息を吐いた。自分一人で抱えていた帳簿が、もう一人の罪ではなくなっていくのを感じたのだろう。
その時、扉の外で銀鈴が一つ鳴った。
フェリスが短刀へ手をかける。
「誰です」
「夜分失礼いたします。ガルディオ司祭の命により、鈴番記録を保管庫へ戻しに参りました」
扉越しの声は、若い修道士のものだった。
アレンは黒誠を手に取り、扉へ近づく。
「保管庫へ戻す? 明朝、聖務監査院で精査するんじゃなかったのか」
「規則です。原本は白蔦の門に保管し、移送時には聖務監査院の封印箱へ納めることになっております」
「便利な規則だな」
アレンは扉を少しだけ開けた。
廊下には、白い修道服の青年が立っていた。手には銀色の小箱。箱の縁には、白蔦の封蝋が溶かしかけのまま用意されている。
アルクが低く唸った。
「あるじ。箱、からっぽじゃない」
「だろうな」
アレンは小箱へ目を落とす。
箱の底に、髪の毛より細い黒い糸が張っていた。原本を入れれば、紙の表面に触れる。おそらく、文字そのものを削る類の術式だ。
証拠を焼くのではない。
最初から書かれていなかったように、薄く剥がす。
アレンの目が冷えた。
「その箱、誰から受け取った」
「ガルディオ司祭より……いえ、聖務補佐の方から」
青年の声が揺れる。
嘘をついている顔ではない。使われている側だ。
アレンは黒誠の柄で、箱の縁を軽く叩いた。
パキン、と乾いた音。
黒い糸が切れ、銀の小箱の底で灰になった。
「戻れ。箱は壊れていた。そう報告しろ」
「し、しかし」
「それとも、お前がこの場で説明するか。なぜ保管箱の底に、帳簿の文字を剥がす仕掛けがあったのか」
青年は顔を真っ青にし、何度も頭を下げて逃げるように廊下を去った。
扉が閉まる。
沈黙の中、ノエルが震える声で呟いた。
「本当に……消すつもりだったんですね」
「ああ」
アレンは黒誠を腰へ戻す。
「だから、今夜は眠れねえな」
ルシアンが苦笑した。
「徹夜はほどほどにしてほしいんだけどね」
「文句なら、司祭殿に言ってくれ」
その夜、帳簿は三つの写しに分かれた。
原本はエステルが聖教国側の責任で預かる。
公的写しはルシアンが持つ。
簡易控えは、アレンの懐に入った。
そして明け方。
白蔦の門の外には、古鐘都市へ向かう移送馬車が用意されていた。
白い車体に、銀の鐘の紋。
だが、アレンの目は車輪の内側で止まった。
そこに小さな黒い鈴が吊るされている。
鐘の舌は、ない。
鳴るはずのない鈴だった。
アルクがアレンの足元で牙を見せる。
「あるじ。あれ、鳴らない。でも、聞こえる」
アレンは口元だけで笑った。
「いい趣味してやがる」
古鐘都市へ向かう道は、まだ始まったばかりだった。
第129話をお読みいただきありがとうございました!
今回は、戦闘ではなく「証拠を守る戦い」を意識して書きました。
ノエルが一人で抱えていたものを、ルシアンやリナ、アレンたちが少しずつ分け持つ場面は、書いていてとても好きな流れになりました。
最後の黒い鈴は、かなり不穏ですね。
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