第125話:白霧前夜、銀鈴の帳簿
第125話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、鈴番の儀へ入る前のワンクッション回です。
ノエルがどんな立場に置かれているのか、そしてアレンがなぜすぐに助け出さないのかを描いています。
巡礼者の少年が眠りについた後、巡礼宿には、何事もなかったかのような静けさが戻った。
教師たちは生徒たちへ早めの休息を命じ、修道女たちは淡々と廊下を清めていく。白い石壁。磨かれた床。薬草の匂い。
どれも清潔だった。
清潔すぎた。
(汚れを落としているんじゃねえ。汚れがあった事実ごと消してやがる)
アレンはルシアンの荷を部屋へ運び終えると、廊下の隅に立って、巡礼宿の動きを観察していた。
ノエル・アルヴィーネは、誰よりも忙しそうに働いていた。
先ほどまで顔色を失っていたはずなのに、薬草束を棚に戻し、床に落ちた祈祷記録を写し直し、巡礼者の部屋へ温めた香草湯を運んでいる。淡い月白銀の髪は低い位置で結び直されていたが、後れ毛が疲れを隠しきれず頬に張り付いていた。
それでも彼女は、誰かに呼ばれるたびに小さく頭を下げる。
「はい、ただいま」
「申し訳ございません」
「すぐに整えます」
その言葉ばかりだった。
礼も、労いも、ほとんど返ってこない。
リナがその様子を見て、むっと眉を吊り上げた。
「ねえ、アレン。あれ、どう見ても働かせすぎじゃない?」
「見えてる」
「だったら、何とかしてあげなさいよ」
「今、俺が力で止めれば、あいつは明日からもっと責められる」
リナは言葉に詰まった。
アレンはノエルから目を離さない。
「助けるなら、首根っこだけ掴んで引っ張り出しゃいいってもんじゃねえ。どこで誰が糸を握ってるか見てからだ」
「……相変わらず、嫌なところまで見るのね」
「見なきゃ、斬る場所を間違える」
リナは悔しそうに唇を噛んだが、それ以上は言わなかった。
その時、シスター・エステルが廊下の向こうから歩いてきた。
「アレン様。先ほどは、ノエルへのご助力、ありがとうございました」
「礼を言うなら、本人に言ってやったらどうです」
エステルの薄青い瞳が、わずかに揺れた。
「……それが簡単にできれば、苦労はしません」
「随分と不自由な聖地ですね」
「ええ。不自由です。白い蔦は、支えにもなりますが、絡みつけば縄にもなりますから」
柔らかな声だった。
だが、その奥には疲れがあった。
アレンは少し目を細める。
「鈴番の儀、という言葉を聞きました」
エステルは一瞬だけ黙った。
廊下の銀鈴が、ちり、と鳴る。
「今夜、巡礼宿の小礼拝堂で行われる儀です。白霧が濃い夜、巡礼者の乱れを銀鈴で鎮めるためのもの。……本来は、尊い役目です」
「本来は、ね」
「はい」
エステルは否定しなかった。
「ノエルは銀鈴感応が強い子です。だから、鈴番に選ばれやすい。ですが、最近は……少し、負担が偏りすぎています」
「少し?」
アレンの声が冷える。
エステルは目を伏せた。
「私にも、確証がありません。証拠もなく儀式を止めれば、彼女は『聖務を乱した者』として処分されます。だから、私は案内役として外の目を入れることを選びました」
「つまり、俺たちを呼び水にしたわけか」
「利用した、と言われれば、その通りです」
エステルは逃げなかった。
その潔さだけは、アレンの中で少し評価が上がる。
「ただし、勘違いするな。俺は聖教国の内部争いを綺麗に裁きに来たわけじゃねえ」
「承知しています」
「ルシアン様と生徒たちに害が出るなら、容赦はしません」
「それで構いません。むしろ、そのために来ていただいたのですから」
白い笑みの奥で、エステルは初めて痛みを見せた。
夕食の時間になると、ノエルは学園の生徒たちへ香草湯を配りに来た。
「長旅のお疲れに効くものです。苦味が少しありますが……」
ミレイがカップを受け取り、そっと匂いを嗅ぐ。リナが横から覗き込み、セレナは警戒半分、興味半分でノエルを見ていた。
「あなた、昼間の……大丈夫なの?」
セレナが尋ねると、ノエルは驚いたように瞬きをした。
「はい。ご心配をおかけして、申し訳ございません」
「謝らなくていいわよ。別に責めてないもの」
「……ありがとうございます」
ノエルは小さく微笑んだ。
その表情は、ほんの一瞬だけ年相応に柔らかかった。
アレンは受け取った香草湯に口をつける。
配合は悪くない。疲労を抜き、眠りを浅く整える薬草。だが、奥にごく薄く、耳鳴りを鈍らせる成分が混じっている。
「ノエル」
「はい、アレン様」
「これを配るよう命じたのは誰だ」
ノエルの指が、カップの縁で止まった。
「……巡礼宿の決まりです。白霧の夜は、旅人の眠りを守るために」
「お前は、それを信じてるのか」
ノエルはすぐには答えなかった。
薄紫がかった灰色の瞳が揺れる。
「信じたい、です。ここで救われた方を、私は何人も見ました。眠れなかった人が眠れるようになって、泣き続けていた子が笑って……だから、全部が間違いだとは思いたくありません」
「なら、間違ってる部分だけ見つけろ」
「え……」
「全部を憎む必要はねえ。全部を抱える必要もねえ。腐ったところだけ見ろ」
ノエルは息を呑んだ。
その言葉が、彼女の中でどこかに引っかかったのが分かった。
だが、次の瞬間、廊下の奥で銀鈴が三度鳴った。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
ノエルの顔色が変わる。
「鈴番の呼び出しです」
彼女はカップを盆に戻し、深く頭を下げた。
「皆様、どうか今夜はお部屋から出られませんように。白霧の中は、道を間違えやすいので」
その声は丁寧だった。
けれど、怖がっていた。
ノエルが廊下の奥へ消える。
アレンはしばらく、その背中を見送った。
助けるのは、まだ早い。
だが、見捨てるには遅すぎる。
足元でアルクが低く唸った。
「あるじ。白い霧、下に落ちてる」
「分かってる」
アレンは窓の外へ目を向けた。
白蔦の門に、夜が降りる。
清らかな宿の奥で、誰かの祈りを食い潰す音が、静かに鳴り始めていた。
第125話をお読みいただきありがとうございました!
今回は派手な解決ではなく、ノエルの孤立と巡礼宿の不穏さをじわじわ見せる回でした。
リナが怒る気持ちも自然ですし、それでもアレンが「どこで誰が糸を握ってるか見てからだ」と踏みとどまるところが、彼らしい冷静さだと思います。
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