第120話:歩は人の形を覚える
第120話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、従魔アルクの変化を描く幕間回です。
オルフェリア行きの前夜、アレンの前に現れた謎の子供。その正体と、アルクが人の形を覚えた理由に注目していただけると嬉しいです。
オルフェリア聖教国への実地研修が決まった、その夜。
男子寮の一室で、アレンは一人、机の上に広げた地図と荷物目録を見比べていた。
ルシアンはすでに休ませてある。フェリスは表向きの護衛引き継ぎで呼び出され、リナやセレナたちも旅支度に追われている。ようやく誰の視線もない時間だった。
巡礼路、宿場町、白蔦の門、古鐘都市オルフェリア。
地図に記された線は、ただの道ではない。
人が通れば噂が流れる。荷が通れば金が流れる。祈りが通れば、弱った心も流れる。
(癒やしの国、ねえ。傷ついた人間が集まる場所ほど、悪い連中には都合がいい)
アレンは羽根ペンを置き、椅子から立ち上がった。
その瞬間。
背後の空気が、ほんのわずかに沈んだ。
足音はない。呼吸もない。窓も扉も閉まっている。だが、確かに何かが部屋の影から一歩、こちらへ近づいた。
アレンの右手が、迷いなく腰へ落ちる。
カチリ。
和泉守兼定の鯉口が切られ、白刃が夜気を裂いた。
刃先は、背後に現れた小さな喉元でぴたりと止まっていた。
「……クゥ」
その声を聞いた瞬間、アレンの目つきが変わった。
殺気が、嘘のように引く。
「アルクか」
刃を向けられていたのは、見知らぬ少女のような姿をした子供だった。
背は低く、線は細い。黒い髪は獣毛のように柔らかく跳ね、琥珀色の瞳だけが夜の中で妙に明るい。顔立ちは少女と見紛うほど整っているが、よく見れば首筋や肩の骨格には少年の気配がある。
黒い外套のように見えるものは布ではなく、魔獣の毛並みが人の衣服を真似て形を取ったものらしい。
そして何より、その瞳。
アレンを見上げる、信じ切った獣の目だけは、間違えようがなかった。
「お前……人の形になったのか」
「ある、く」
子供は自分の胸を小さく叩き、たどたどしく言った。
「あるく、なった。あるじの、そば。ずっと」
言葉はまだ幼い。だが、意味は通じた。
アレンは兼定を鞘へ戻し、膝を折ってアルクと目線を合わせる。
「どうして急にそうなった」
「たべた」
「何をだ」
「まもの。火。鐘。こわい音。あるじの、黒い匂い」
アレンは眉をひそめた。
黒角狼は魔獣だ。魔物を討ち、戦場を越えれば強くなる。そこまでは分かる。
だが、ただの成長で人の形まで取るものなのか。
それとも、名付けによる主従契約が、アルクの器を変えたのか。
あるいは、自分の中にある得体の知れない空白に触れ続けたせいで、魔獣としての進化の道筋まで歪んだのか。
(エレノアに見せりゃ、目を輝かせて一晩中調べ回すだろうな)
面倒な顔が脳裏に浮かび、アレンは小さく息を吐いた。
アルクはそんな主の思考など分からないまま、じっとアレンを見つめている。
いや、見つめているというより、何かを訴えている。
「それで、わざわざ出てきた理由はなんだ。敵じゃないなら、隠れていればよかっただろう」
アルクの琥珀色の瞳が、少しだけ伏せられた。
「あるじ、いない」
「俺はここにいる」
「ちがう。そば、いない。いっぱい、いない」
たどたどしい言葉が、胸に落ちた。
白鐘、王城地下、競技場、親鐘、王城での報告、学園長室での打ち合わせ。
アレンはここしばらく、戦場と会議の間を走り続けていた。アルクは従魔として影に潜み、時に待機を命じられ、時に安全のため置いていかれた。
それを、この小さな魔獣は覚えていたのだ。
「……寂しかったのか」
アルクは、悔しそうに唇を結んだ。
獣の姿なら、きゅんと鳴いて足元にまとわりつくだけで済んだだろう。
だが今は、人の形を取っている。
だからなのか、その感情は妙にまっすぐで、隠しようがなかった。
「あるじ、あるくの。あるく、あるじの」
「所有権を主張するな」
「だめ?」
首を傾げるアルクに、アレンはしばらく沈黙した。
そして、黒い髪を乱すように頭を撫でた。
「だめじゃねえ。ただし、人前でその姿になるな。黒犬として登録してある従魔が、急に人間の子供になったら騒ぎになる」
「くろいぬ、なる」
そう言った途端、アルクの輪郭が黒い霧のように揺らぎ、次の瞬間、床の上にはいつもの小さな黒犬がいた。
「クゥ!」
「できるなら最初からそうしろ」
アレンが呆れると、アルクはまた黒い霧に包まれ、人の形へ戻った。
戻った瞬間、少し誇らしげに胸を張る。
その仕草が、子犬の尻尾を振る様子とほとんど同じで、アレンは思わず鼻で笑った。
「分かった。オルフェリアには連れていく。だが、勝手に飛び出すな。俺の合図を待て」
「いく」
「返事は」
「……はい」
妙に真面目な顔で答えるアルクに、アレンはもう一度だけ頭を撫でた。
その時、アルクがふと窓の外へ顔を向けた。
西の空。
オルフェリアへ続く方角だ。
「あるじ」
「なんだ」
「あっち、いやな匂い。鐘の匂い。あと、むかし、森で追ってきた匂い、すこし」
アレンの表情から、柔らかさが消えた。
アルクの故郷は、帝国側から流れてきた黒角狼の群れだった。
その子が、西の鐘楼の国に、かつて自分たちを追い立てた気配の一端を嗅いだ。
ただの偶然と切り捨てるには、少々できすぎている。
「そうか」
アレンは地図へ視線を落とした。
癒やしの国。
古い鐘楼。
黒の円卓。
そして、帝国側から流れてきた魔獣の匂い。
線が一本、まだ薄いまま繋がりかけている。
「なら、なおさら置いていけねえな」
アルクがぱっと顔を上げた。
アレンは地図を畳み、荷物目録の横に小さく一行を書き足す。
従魔携行。常時影待機。
「ついてこい、アルク。一歩ずつでいい。だが、俺の歩なら、最後まで止まるな」
「あるく、止まらない」
アルクは嬉しそうに笑った。
獣の牙を少しだけ覗かせたその笑顔は、少女のように可愛らしく、しかし間違いなく魔獣のそれだった。
次の瞬間、黒い子犬の姿へ戻ったアルクは、アレンのブーツの紐を甘噛みする。
「おい、旅支度の邪魔をするな」
「クゥ」
抗議するような声を上げながらも、アルクは離れなかった。
アレンもまた、それ以上追い払わなかった。
遠征前の静かな夜。
黒い歩は、人の形と、寂しさという名の言葉を覚えた。
そして西の空では、まだ誰にも聞こえない鐘の余韻が、かすかに揺れていた。
第120話をお読みいただきありがとうございました!
今回は、黒犬だったアルクが人の形を覚える場面を書くのが楽しかったです。
アレンに刀を向けられても、声ひとつで正体が伝わる関係性が良いですね。
寂しかったと言いに来るアルクの可愛さと、西の不穏な匂いの落差も意識しました。
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