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第110話:謁見の間に漂う毒

第110話をお読みいただきありがとうございます!


今回は、謁見の間に甘い薬の匂いが届く回です。

国王やラインハルトのいる王城中心で、アレンがどのように鐘紋を処理するのか。

そして王城地下へ進む許可が出る重要な場面にも注目していただけると嬉しいです。

 謁見の間には、昼の光が満ちていた。


 高い天窓から差し込む陽光。赤い絨毯。王家の紋章を刻んだ柱。その中心で、国王レオンハルトは数名の宮廷官から報告を受けていた。


 表向きは、旧外郭水門騒動後の王都復旧に関する定例報告。


 だが、空気が妙に甘い。


 最初に違和感を覚えたのは、ラインハルトだった。


「父上。少し、人を減らしましょう」


 国王が目だけで応じる。


「理由は」


「香りが濃い。香薬院から通常回廊を通ってここまで流れるには、少し不自然です」


 その言葉を聞いた宮廷官の一人が、穏やかに笑った。


「殿下は少々お疲れなのでは。王城内の香は、来客用に調整されたもの。疑うようなものではございません」


 疑うな。


 その言葉が、妙に柔らかく、耳の奥へ入り込む。


 護衛騎士の一人が瞬きを遅くした。別の宮廷官は、書類を抱えたままぼんやりと立ち尽くす。


 ラインハルトの青い瞳が冷えた。


「全員、口元を布で覆え。これは香だ」


 だが、命令の伝達が遅い。


 甘い匂いが、場の判断を鈍らせている。


 国王レオンハルトは玉座の肘掛けを握り、腹の底から笑った。


「なるほど。余の謁見の間で毒を焚くか。なかなか肝の太い鼠だ」


 豪胆な声が、眠りかけた騎士たちの背を打つ。


 その瞬間、謁見の間の扉が音もなく開いた。


「鼠にしては、香水がきつすぎますね」


 アレンだった。


 背後にはフェリスとエレノア。三人は香薬院から直行してきたらしく、アレンの黒い執事服の袖にはまだ黒銀の粉が微かに残っている。


 ラインハルトが短く言った。


「来たか」


「遅れて申し訳ありません」


 アレンは一礼しながら、視線だけで場を測った。


 甘い香。


 眠りかけた護衛。


 不自然に落ち着いた宮廷官。


 そして、玉座の背後に伸びる黒銀色の細い香の筋。


「陛下、動かないでください。玉座の裏に仕掛けがあります」


「斬れるか」


「人を巻き込まなければ」


「ならば任せる」


 許可は、それだけで十分だった。


 アレンの右手が和泉守兼定の柄に触れる。


 戦闘域だ。


 黒誠ではない。


 鯉口が鳴るより速く、甘い香が黒い鐘の形を取った。玉座の背後から、薄い鐘の輪郭が浮かび上がり、意味を吐き出す。


 疑うな。


 膝を折れ。


 王を眠らせろ。


 護衛騎士の腕が、意思に反して剣へ伸びる。


 フェリスが即座に紫煙を放った。


「騎士は私が止めます!」


「殺すな」


「分かっています!」


 フェリスの紫煙針が、騎士たちの肘と首筋を打つ。剣を抜きかけた腕が力を失い、騎士たちは膝から崩れた。


 エレノアは床へ片手を置き、謁見の間全体へ薄い防壁を広げる。


「香の流れを天窓へ逃がすわ。三十秒だけ稼ぎなさい」


「三十秒もいりません」


 アレンは低く呟き、瞬歩で玉座の背後へ滑り込んだ。


 そこにあったのは、金色の香炉だった。


 王家の紋章が刻まれている。式典用の正式備品。誰も疑わない場所に、黒銀の鐘紋が内側から食い込んでいた。


 壊せば、香炉ごと王家の紋章を傷つける。


 傷つけなければ、国王の足元で鐘が鳴る。


「趣味が悪い」


 アレンは和泉守兼定を抜いた。


 白刃が陽光を受ける。


 香炉から黒い香が吹き上がり、人影を作った。白い手袋。灰色の髪。柔らかな微笑。


 カシウス・ベルナールの姿だった。


「おや。ここまでお早い」


「本人か」


「さて。薬は体を借り、香は記憶を借り、鐘は意味を借ります。私を私と呼ぶ根拠は、どこにございますか」


 カシウスの声が、香の中で揺れる。


 人間の声ではある。だが、少しだけ軽い。喉ではなく、香炉の内側から鳴っているようだった。


「屁理屈はいい。そこをどけ」


「陛下をお眠りいただくだけです。王が眠れば、王城は疑うことをやめる。疑わぬ城ほど、鐘がよく響く」


 香のカシウスが、白手袋の指を鳴らした。


 黒銀の鐘紋が玉座の床へ走る。


 アレンの虚孔へ、泥のような意味が落ちた。


 疑うな。


 守るな。


 眠れ。


 だが、意味は底へ沈み、形を失う。


「悪いな」


 アレンの三白眼に、冷たい火が宿る。


「俺は疑り深いんだ」


 踏み込み。


 和泉守兼定の切っ先が、香のカシウスを斬るのではなく、その奥にある鐘紋の継ぎ目へ滑り込む。


 斬るべきは幻ではない。


 王家の香炉を傷つけず、内側に寄生した黒い鐘の舌だけを剥がす。


 刃が、薄い金属音を立てた。


 キィィィン、と謁見の間に小さな悲鳴が走る。


「見事。原型の刃筋は、また精密になった」


 香のカシウスが笑った。


 その声の奥に、一瞬だけ別の声が重なる。


 黒鐘卿。


 アレンは眉をひそめる。


「やっぱり見てやがるな」


「観測は、まだ続いております」


 香の人影が崩れ始める。


 同時に、玉座の足元から黒銀の小鐘が浮かび上がった。親鐘ではない。ごく小さな、使い捨ての舌。


 アレンは左足で床を踏み、方円の檻を張る。


 逃げ道は三つ。


 天窓へ昇る香。


 絨毯の下へ潜る鐘紋。


 国王の影へ滑り込む細い黒線。


「陛下の影へ行くな」


 縮地。


 アレンの身体がぶれた。


 和泉守兼定の峰が、黒線の前に落ちる。刃ではなく、峰。影ごと斬れば王に反動が返る可能性がある。


 峰打ちの衝撃が黒線を弾き、エレノアの防壁へ押し込む。


「捕まえたわ」


 エレノアが魔法陣を閉じる。黒線は小瓶ほどの結晶に押し固められ、床へ落ちた。


 甘い香が薄れていく。


 操られかけていた宮廷官たちが、夢から覚めたように息を呑む。


 国王レオンハルトは、玉座に座ったまま笑っていた。


「余の影まで狙うとはな。王城もずいぶん舐められたものだ」


 ラインハルトが膝をつき、床の結晶を見つめる。


「これは証拠になります。香薬院だけではなく、王家の式典備品へ触れられる者がいる」


「カシウス一人では無理だな」


 アレンは兼定を鞘へ収めた。


「香薬院、儀礼管理、王城備品庫。最低でも三つの部署を跨いでる。白手袋一人の仕業に見せたい奴がいる」


 通信機が震えた。


『アレンさん……耳飾り、まだ鳴ってます』


 リディアの声は、かすかに震えていた。


『今の鐘、逃げたんじゃないです。欠片を置いていっただけ。もっと大きい音が、下で起きようとしてる』


 アレンの目が、謁見の間の床へ落ちる。


 厚い石の下。


 王城地下。


 親鐘が、眠りの底で息を吸った。


「陛下」


 アレンは玉座の前に片膝をついた。


「ここから先は、王城の床下を斬り開くことになります。許可を」


 国王は笑みを消し、王として頷いた。


「許す。余の城の毒を、根から抜け」


「御意」


 アレンは立ち上がる。


 謁見の間に残った甘い香の残滓が、まだ喉の奥へ絡みついていた。


 だが、その奥に、確かに聞こえる。


 まだ鳴っていないはずの、巨大な鐘の息遣いが。

第110話をお読みいただきありがとうございました!


今回は、王城の中心である謁見の間を舞台にしました。

王家の香炉を壊さず、中に寄生した鐘の舌だけを斬るアレンの精密さを書くのが楽しかったです。

レオンハルト王の豪胆さも、やはり書いていて気持ちいいですね。


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