第109話:香薬院の白い手袋
第109話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、王宮香薬院への調査回です。
白い手袋のカシウスを追うアレンたちが、甘い薬の匂いの奥にある鐘紋へ近づいていきます。
フェリスの鑑識や、リディアの耳飾りにも注目です。
王宮香薬院は、王城の北回廊の奥にあった。
高貴な者の病を癒やし、式典で使う香を調え、時には毒と薬の境目を見極める場所。外から見れば、白い石壁と薬草の鉢が並ぶ清らかな一角だ。
だが、アレンはその扉の前に立った瞬間、眉をわずかに動かした。
「綺麗すぎるな」
隣に立つフェリスが、琥珀色の瞳を細める。
「床、棚、窓枠、すべて磨かれています。ですが、今朝急いで拭いた跡があります」
「証拠を消した奴は、だいたい掃除が上手くなりすぎる」
王家から下された名目は、老朽魔導設備点検に伴う薬草保管状況の確認。親鐘の名は出していない。だが、香薬院が精神誘導香を扱っている以上、避けては通れなかった。
ルシアンは表で正式手続きの確認に回っている。ここに入るのは、アレン、フェリス、エレノアの三人だけだ。
「では、行きましょうか。王城の毒味係さんたちの巣へ」
エレノアが楽しそうに言う。
「教授。遊びではありません」
「分かっているわ。だから私が来たのよ」
扉が開く。
中にいた薬師たちが、一斉に振り返った。白衣、白手袋、柔らかな香。全員が丁寧に頭を下げる。
その中心に、カシウス・ベルナールがいた。
「これは、皆様。陛下の点検とのこと、承っております」
昨日と同じ穏やかな微笑。
同じ白い手袋。
同じ甘い香。
アレンは表情を変えずに一礼した。
「ご協力、感謝いたします。確認は手短に済ませます」
「もちろんでございます。香薬院にやましいものなどございませんので」
やましいものがない。
その言い方が、少し早かった。
アレンは棚へ視線を流す。薬瓶は名札順に並び、帳簿は紐でまとめられ、床には塵一つない。
完璧すぎる。
人の手が毎日動く場所は、どれほど几帳面でも必ず小さな乱れが残る。筆の置き癖、瓶の重さで擦れた跡、よく使う棚のわずかな粉。そういう生活の滲みが、ここにはない。
あるのは、見せるための清潔さだけだった。
「フェリス」
「はい」
フェリスは棚の前に立ち、香りを一つずつ嗅ぎ分けた。ロベルト家の暗殺技術は、毒を見抜く嗅覚も鍛える。彼女の顔が、ほんのわずかに険しくなる。
「精神誘導香の材料が、帳簿上より少ないです」
薬師の一人が慌てて顔を上げる。
「そ、それは式典用の香に転用したためでして」
「どの式典です」
「え、ええと……」
カシウスが静かに割って入る。
「王太子殿下の来賓対応で使った香でございます。記録は別帳簿に」
「では、その別帳簿を」
「すぐに」
カシウスは棚の奥から一冊の帳簿を取り出した。動きに淀みはない。用意していたような自然さだった。
エレノアが帳簿を受け取り、ぱらぱらとめくる。
「綺麗ね。日付も筆跡も揃いすぎていて、まるで今日まとめて書いたみたい」
薬師たちの空気が凍った。
カシウスだけが微笑んでいる。
「教授は冗談がお上手で」
「冗談なら、もっと面白く言うわ」
アレンは部屋の奥を見た。
そこだけ、香りの流れが不自然に切れている。薬草、蜜、鎮静香。その全ての匂いの中に、一箇所だけ匂いが落ちる空白があった。
「あの壁の向こうは」
「古い保管庫です。今は使っておりません」
「開けてください」
カシウスの白手袋の指が、ほんの少しだけ止まった。
「鍵が別室に」
「なら、待ちます」
「いえ、古い扉ですので危険が」
「危険なら、なおさら確認が必要です」
アレンの声は静かだった。
だが、逆らう余地を少しずつ削っていく声だった。
カシウスはしばし沈黙し、やがて微笑んだ。
「承知いたしました」
古い保管庫の扉が開く。
中は、空だった。
棚も、箱も、薬瓶もない。石壁だけの小部屋。あまりにも何もない。
フェリスが一歩踏み込み、すぐに足を止めた。
「待ってください。床に香が染みています」
エレノアが指を鳴らす。薄い魔法陣が床へ広がり、見えなかった染みを浮かび上がらせた。
黒銀色の円。
鐘の輪郭。
床に染み込んだ香が、鐘紋の形を作っていた。
「なるほど。瓶も箱もないわけだ。ここは保管庫じゃない。香を焚いて、鐘紋を眠らせておく部屋ね」
その瞬間、香薬院のどこかで、チリン、と小さな音がした。
音はないはずだった。
だが、アレンの虚孔の奥に、泥のような気配が一滴落ちる。
「来るぞ」
床の鐘紋が黒く滲んだ。甘い香が一気に濃くなり、薬師たちの目から焦点が消える。
彼らの白手袋が、一斉にアレンたちへ向いた。
「眠れ」
声ではない。
香そのものが、意味を持って肺へ入り込んでくる。
フェリスが短刀を抜き、紫煙を展開した。
「吸わないでください! 精神誘導香です!」
「遅いわよ」
エレノアが防壁を張る。だが、香は魔法陣の隙間を舐めるように通ってくる。煙でも霧でもない。意味を混ぜられた香だ。
アレンは一歩前へ出た。
和泉守兼定は抜かない。
ここで斬れば、操られている薬師たちを巻き込む。
「フェリス、薬師を殺すな。手首と膝だけ落とせ」
「言い方が物騒です」
「動きを止めろって意味だ」
「最初からそう言ってください」
フェリスが影のように滑る。紫煙の針が薬師たちの首筋と膝裏を正確に打ち、魔力循環を眠らせる。
アレンは迫る白手袋の腕を掴み、骨を折らずに関節だけを外した。次の相手には鳩尾へ掌底。三人目は襟を取り、床へ静かに落とす。
香がさらに濃くなる。
眠れ。
忘れろ。
疑うな。
意味が、襟首から忍び込む小刀のように意識へ触れる。
だが、虚孔へ落ちた意味は、底の見えない空白に沈んで形を失った。
「悪いな。俺は寝つきが悪い」
アレンは床の鐘紋へ黒誠の鞘を突き立てた。
戦闘ではなく、封じるための一撃。
神木烏木の黒い木肌が、床に染みた鐘紋を叩く。魔力の殻が砕け、甘い香がふっと薄れた。
その一瞬、奥の壁に文字が浮かぶ。
『鍵は既に王城へ戻った。香は道を開く。親鐘は、匂いを覚えた』
エレノアの顔が険しくなる。
「最悪ね。リディアだけじゃない。香で親鐘の導線を開こうとしている」
アレンは周囲を見た。
カシウスの姿がない。
扉は開いていない。窓もない。だが、さっきまでそこにいた白手袋の男だけが、煙のように消えていた。
床には、一枚の白い手袋だけが落ちている。
その内側に、黒銀色の粉で小さな鐘紋が描かれていた。
「逃げ足だけは一人前だな」
アレンは手袋を黒い布で包む。
同時に、懐の通信機が震えた。
『アレンさん……』
リディアの細い声だった。結界室から、フェリスの予備通信機を使っているらしい。
『耳飾りが、鳴ってます。王城の下じゃなくて……王城の中を、匂いが歩いてる』
アレンの目が細くなる。
「方角は」
『上……明るい場所。たくさん人がいるところ。王様の近くに、近づいてる』
エレノアが息を呑む。
フェリスの表情が凍った。
アレンは黒誠を腰へ戻し、扉へ向かった。
「ルシアンに伝えろ。香薬院は囮だ」
甘い薬の匂いは、もうこの部屋に閉じていない。
王城の中心へ向かっている。
「本命は、謁見の間だ」
第109話をお読みいただきありがとうございました!
今回は、戦闘というより「匂い」と「綺麗すぎる違和感」で不気味さを出す回でした。
アレンが和泉守兼定ではなく黒誠を使うところも、相手を斬るのではなく封じる場面として書いています。
リディアが離れた場所から耳飾りで異常を聞き取るところも、鐘守らしさが出ていて良い感じでした。
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