第108話:鐘守の耳飾りと、甘い薬の廊下
第108話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、リディアが目覚める回です。
母の形見である耳飾りや、鐘守としての記憶を少しだけ描きつつ、白い手袋の内通者候補も登場します。
儚いけれど芯のあるリディアに注目していただけると嬉しいです。
王城外郭の結界室には、柔らかな朝の光が入らない。
窓は黒布で覆われ、壁にはエレノアが刻んだ精神防壁の魔法陣が薄く光っている。外界から切り離された静かな部屋で、リディア・ベルフォードはゆっくりと目を覚ました。
「……ここ、地下じゃない」
かすれた声だった。
長椅子の上で身を起こそうとした少女の肩を、フェリスがそっと支える。
「無理に動かないでください。貴女は保護されています」
「保護……」
リディアは薄い生成り色の療養服の袖を握りしめた。白銀の髪が頬へ落ちる。小さな体は、毛布の中に半分埋もれているようだった。
左耳で、銀の耳飾りがわずかに揺れる。
小さな鐘と、古い鍵を模した細い飾り。歩けば音が鳴りそうな形なのに、部屋の静けさを壊すほどの音はしない。
アレンは、その耳飾りに視線を止めた。
「それは」
リディアの指が、反射的に左耳へ触れた。
「……お母さんが、最後に握らせてくれたものです。ベルフォードの鐘は、人を閉じ込めるためじゃない。逃げ道を知らせるために鳴るんだって」
淡い鐘青色の瞳が、少しだけ伏せられる。瞳孔の周りに、小さな波紋のような銀の輪があった。
「でも、わたしは……鍵にされました」
その言葉には、泣き声よりも深い嫌悪があった。
アレンは机の上に置かれていた蜂蜜湯のカップを取り、リディアの前へ置いた。
「礼も詫びもいらねえ。まず飲め」
「……毒じゃ、ないですか」
「毒を盛るなら、もっと味をごまかす」
フェリスが一瞬だけ眉を動かした。
「アレン。その言い方は病人に向けるものではありません」
「なら、お前が上品に言い直せ」
「温かい蜂蜜湯です。喉に優しく、体力の回復にも役立ちます」
「だそうだ」
リディアは少し戸惑い、それから両手でカップを包み込むように持った。小さな指が温かさに触れた瞬間、張り詰めていた肩がほんの少しだけ落ちる。
「……甘い」
「薬の匂いとは違うか」
アレンが問うと、リディアの手が止まった。
部屋の空気が、細く張る。
「違います。あの匂いは、もっと……喉の奥に残ります。眠くなるのに、怖くなる匂い」
エレノアが椅子の背に肘を置き、目を細めた。
「鎮静薬に精神誘導香を混ぜたものかしら。王宮で扱える人間は限られるわね」
ちょうどその時、扉の外から控えめなノックが響いた。
フェリスが短刀へ指を添える。アレンは無言でリディアの前へ立った。
扉の向こうから、王宮侍従の声がした。
「失礼いたします。香薬院長代理、カシウス・ベルナール様が、保護対象者の容体確認に参られました」
リディアの耳飾りが、音もなく震えた。
彼女の顔から、血の気が引く。
「……甘い」
アレンの三白眼が、扉へ向いた。
「フェリス。リディアを下げろ」
「はい」
フェリスがリディアを毛布ごと抱き寄せる。リディアは怖がりながらも、耳飾りから指を離さなかった。
アレンは扉へ歩み寄り、何事もない執事の声で告げた。
「お入りください」
扉が開く。
入ってきたのは、痩せた中年の男だった。灰色の髪を丁寧に撫でつけ、淡い香薬の匂いをまとっている。白い手袋。柔らかな微笑。王宮に長く仕える者特有の、角の取れた礼儀。
「お初にお目にかかります。香薬院長代理、カシウス・ベルナールでございます。陛下より、保護対象者の体調確認を命じられまして」
「陛下の命令書は」
アレンが問う。
カシウスは微笑みを崩さず、白手袋の指で封書を差し出した。
「こちらに」
封蝋は本物だった。
少なくとも、見た目は。
アレンは受け取らず、フェリスへ視線だけを送る。フェリスが横から封書を取り、魔力毒と精神導線の有無を調べた。
「外側に異常なし。ただし、香りが強すぎます」
「医療用の香でございます。地下より救出された方は、意識が不安定になりやすい。少しでも心を休める助けになればと」
穏やかな声だった。
だが、リディアの指は耳飾りを握ったまま離れない。
「……その人の後ろで、鐘が眠ってる」
小さな声。
カシウスのまぶたが、ほんの一瞬だけ止まった。
それは呼吸よりも短い間だったが、アレンは見逃さなかった。
「鐘、ですか。お嬢さんはまだ混乱しておられるようですね」
「ええ。ですから、診察は後日に」
ルシアンの声が、部屋の奥から響いた。
いつの間にか立ち上がっていた彼は、公爵家次期当主としての穏やかな圧をまとっていた。
「カシウス殿。保護対象者の容体は、こちらで管理します。香薬院には、必要があれば正式に依頼します」
「これはルシアン様。承知いたしました」
カシウスは深く一礼した。
見事な所作だった。疑う理由を与えない、隙のない礼。
だが、礼をした瞬間、袖口から微かに黒銀色の粉が落ちかけた。
アレンの足が、音もなく半歩動く。
その粉が床に触れる前に、白手袋の指が何事もなかったように袖へ戻した。
速い。
普通の薬師の動きではない。
「では、失礼いたします。どうか、お大事に」
カシウスは微笑んだまま退室した。
扉が閉まる。
直後、リディアが小さく息を吐き、毛布の中で震えた。
「あの人……手袋の奥で、鐘を隠してる」
「見えたのか」
「見えたんじゃ、ないです。聞こえました。鳴ってない鐘の音が、袖の中で眠ってる」
アレンは口元を歪めた。
「上等だ。向こうから顔を出してくれた」
ルシアンが静かに頷く。
「ただ、まだ証拠が足りない。王宮香薬院長代理を、感覚だけで拘束するわけにはいかないね」
「分かってる。だから泳がせる」
アレンは床の一点へ膝をついた。
カシウスが立っていた場所。そこに残った、肉眼ではほとんど見えない黒銀の粉を、和紙片でそっと拾い上げる。
「フェリス。これをエレノアへ」
「承知しました」
エレノアが楽しげに、しかし目だけは冷たく笑った。
「解析してあげる。もし鐘紋由来なら、香薬院の倉庫をひっくり返す理由になるわ」
リディアが、不安そうにアレンを見上げた。
「わたし……役に立ちましたか」
アレンは少しだけ沈黙した。
礼を言えば、この子はまた自分を鍵として差し出すかもしれない。役に立てと言えば、恐怖を飲み込んで無理をする。
だから、短く言った。
「無理をした。だが、助かった」
リディアの淡い鐘青色の瞳が、わずかに揺れる。
「……じゃあ、次は、もう少しだけ頑張ります」
「頑張る前に寝ろ。倒れた案内役ほど邪魔なものはねえ」
「アレン」
ルシアンが呆れたように名前を呼ぶ。
リディアは一瞬きょとんとし、それから毛布の中で小さく笑った。
本当に小さな笑みだった。
けれど、地下で吊られていた鐘守の少女が初めて見せた、鍵ではない顔だった。
アレンは黒銀の粉を包み、扉の向こうを見据える。
白い手袋。
甘い薬の匂い。
袖の中で眠る、鳴っていない鐘。
「まずは香薬院だ」
静かな声が、結界室に落ちた。
「親鐘へ行く前に、王城の毒を抜く」
第108話をお読みいただきありがとうございました!
今回は、リディアの魅力をどう出すかを意識しました。
耳飾りに触れる仕草や、蜂蜜湯で少しだけ安心するところは可愛く書けたかなと思います。
一方で、白い手袋の男カシウスの登場で、王城内の不穏さもぐっと強くなりました。
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