第23話「高瀬悠斗という人」
高瀬悠斗は、朝から気が利く。
詩織がデスクの引き出しを開けたり閉めたりしていると、「ペン、替えのここにあるよ」と言いながら自分のデスクの引き出しから出してくれる。詩織が「ありがとうございます」と言うと、「気にしないで」と返す。その「気にしないで」が、本当に気にしていない声だ。
文芸部門の三年目先輩、高瀬悠斗、二十五歳。
担当作家は今のところ三人。全員、締切をよく飛ばす系らしい。
なのに高瀬は、穏やかだ。
詩織が「大変じゃないですか、締切が…」と聞くと、「大変だよ」とあっさり言う。「どうするんですか」と続けると、「作家さんによって違う。催促が効く人と、効かない人がいる。効かない人は、ひたすら待つ」。それだけ。
その「ひたすら待つ」の言い方に、嫌みがない。ただの事実として言っている。
三年でそこまで達観できるのか。詩織には少し分からなかった。
四月も中頃になると、詩織の職場生活にも少し余裕が出てくる。
システムの入力順は身体で覚えた。書類の提出先は一週間で全部メモした。先輩の名前と担当作家の名前もだいたい一致してきた。
お昼に、同期の亜美と近くの定食屋に行くのが習慣になった。
亜美は営業部門の配属で、詩織とは部屋が違う。でも昼は一緒に食べることが多い。
「高瀬さん、また助けてくれたの?」
亜美がランチのチキン南蛮を取り分けながら言った。
「原稿の版管理の仕組みが分からなくて。説明してもらったら一発で分かった」
「説明が上手なんだね」
「上手い。聞きやすい」
「好きなんじゃないの」
詩織は少し止まった。
「いや、そういうのじゃないけど」
「え、なんで。素敵じゃん」
「素敵だとは思う。でも」
でも、の先が出てこなかった。
亜美が「でも?」と続きを待っている。定食屋の油の匂いが漂っている。外では四月の昼の光が窓を白く照らしている。
「……なんか、違う感じがする」
「違う感じって何」
「分からない。うまく言えない」
亜美が少し首をかしげた。「好みじゃないってこと?」
「好みじゃないわけでもないんだけど」
「じゃあ何なの」
「分からない」
二回目の「分からない」を言いながら、詩織はチキン南蛮を食べた。
甘くて、少し酸っぱい。
遼が「よかったな」と言うときの声と、高瀬が「気にしないで」と言うときの声が、なんとなく頭の中で並んだ。
どちらも優しい声だ。どちらも悪意がない。
でも、後者を聞いてもぽかっとしない。
なぜか。分からない。
亜美が「難しいね」と言った。詩織は「そうだね」と返した。
その週の水曜日。
夕方、デスクで版管理のシステムと格闘していると、高瀬が帰り支度をしながら声をかけてきた。
「桜井さん、今日残業?」
「少しだけ。これの整理が終わったら帰ります」
「あのシステム、慣れた?」
「だいぶ。先週よりは速くなりました」
「最初の二週間が一番しんどいから。一ヶ月経ったら楽になる」
そう言って、高瀬が上着を羽織った。
「あの」と詩織が言った。「担当作家さんが締切を飛ばすとき、怒らないんですか」
高瀬が少し考えた。
「……怒っても原稿は来ないから」
「そうですね」
「関係が壊れると余計困るし。まあ、怒りたくなる気持ちはあるけど」
「それを出さないのが、すごいなと思って」
「出さないんじゃなくて、出してもしょうがないから、落ち着いてるだけだよ」
高瀬がさらっと言って、「お疲れ」と手を上げて帰っていく。
詩織はその背中を少しの間、見ていた。
いい人だ。本当に。
でも——そういうことじゃない何かが、ずっとどこかにある。
木曜の夜。
部屋に帰って、スマホを開いた。
遼からのLINEが来ていた。
「今日どうだった」
珍しい。向こうから聞いてくることは少ない。詩織は少し笑いながら返す。
「普通だった。でも少し慣れてきた」
「そうか」
「高瀬さんてさ」
「先輩の」
「そう。なんか、すごく丁寧な人なんだよね。怒らないし、説明うまいし、気が利くし」
「いい人だな」
「うん。同期にも高瀬さん素敵だよねって話題になる」
既読になって、少し間があった。
「詩織はどう思うんだ」
詩織は画面を見た。
遼がこういう聞き方をすることは、あまりない。「よかったな」で終わらせる人だ。なのに今日は「詩織はどう思うんだ」と聞いてきた。
「素敵だと思う。でも」
「でも」
「なんか違う感じがする。うまく言えないけど」
しばらく間があった。
「……そうか」
「そうかって何?」
「いや、そうか、と思っただけ」
「何をそうかと思ったの」
「別に」
詩織は少し呆れた。この人は本当に、掘り下げない。
「遼って、誰かを好きになったことある?」
「……どうだろ」
「なにそれ」
「自分でもよく分からない」
詩織は、その答えをしばらく抱えた。それから、そっとしまった。
「まあ、そのうち分かるんじゃないの」
「そうかもな」
「……遼って、自分のことに一番鈍いよ」
「そうか?」
「そうだよ。おやすみ」
「おやすみ」
金曜日。
昼休みに、高瀬が「今日いい天気だね」と言いながら窓の外を見ていた。
詩織も窓を見た。青い空。ビルの合間に、少し遅い桜がまだ残っている。
「花見、行った?」と高瀬が聞く。
「行けなかったです。入社前後でバタバタしてて」
「俺も今年は行けなかった。毎年行こうと思って、毎年タイミング逃す」
「来年こそ、ですね」
「来年こそ、ね」
高瀬が笑った。穏やかな笑い方。詩織も笑い返した。
悪い感じは、全くない。
一緒にいて、落ち着く。話しやすい。何も気を遣わなくていい。
それは確かなことだ。
でも、なんとなく、帰り道に遼に「今日どうだった」とLINEしたくなる気持ちとは、また別の話だ。
そういうことだ、と詩織は思った。分かったわけではない。でも、そういうことなんだろう。
柊家のリビング。
遼はモニターの前にいた。
プログラムの作業。いつも通り。コーヒーカップが二個、空になっている。
夜の十時過ぎに、華がドアを開けて入ってきた。
「遼、お腹空いた」
「冷蔵庫」
「何がある」
「昨日の豚汁の残りと、卵」
華がキッチンへ向かいながら「卵とじにする」と言う。遼は「勝手に」と返す。
鍋の音が聞こえてくる中、遼はモニターを見ていた。
さっきの詩織とのLINEが、少し頭の隅に残っていた。
高瀬さんてさ、なんか違う感じがする。
なぜ詩織がそう言ったのか、遼には分からない。高瀬という人間は詩織の話だと素直にいい人そうで、遼には判断材料がない。
でも「違う感じがする」と詩織が言った。
その「違う」が何を指しているのか、遼には分からない。分からないのに、少し気になっている。
気になっている理由も、分からない。
「遼、食べる?」
華の声。
「食う」
モニターを一時停止して、キッチンに向かった。
頭の隅の「違う」は、まだそこにあった。
金曜の夕方、詩織の職場。
定時の少し前に、高瀬が詩織のデスクに来た。
「桜井さん、ちょっといい?」
「はい」
「来週の火曜、仕事終わりに先輩と後輩で飲みに行くんだけど。もし良かったら」
詩織は少し考えた。
「行きます、ありがとうございます」
「よかった。あと」
高瀬が少し間を置いた。
「もしよければ、二人で飯でも行かない? 歓迎の意味で」
詩織は、その言葉を受け取った。
高瀬の顔。穏やか。でも、少し真剣な目をしている。
これは、何の意味を持つ問いかけか——詩織は一瞬で分かった。分かって、少し待った。
「……ありがとうございます」
「いやいや、そんな大げさじゃなくて」
「でも、少し考えてもいいですか」
高瀬が少し目を細めた。
「うん、もちろん」
「ありがとうございます」
高瀬が自分のデスクに戻っていく。
詩織は手元の書類に目を落とした。
視線が滑って、文字が入ってこない。
考える、と言った。断る理由が、言葉にできる形でない。高瀬は誠実で、優しくて、一緒にいて楽だ。
でも。
でも、という言葉が、また出てくる。
その夜、帰り道。
詩織は歩きながらスマホを取り出した。
遼のトーク画面を開いた。
何を送ろうか、少し考えた。
高瀬さんに飯に誘われた、と送ったら「よかったな」と返ってくる。そういう人だ。
でも今は、「よかったな」が聞きたいわけじゃない。
かといって何が聞きたいかも、分からない。
「疲れた」
それだけ送った。
既読がついて、すぐ返ってきた。
「プリン食うか」
詩織は歩きながら少し笑った。
「今日は自分で買って帰る」
「そうか」
「遼はどこにいるの」
「家。プログラム」
「そっか」
詩織はスマホをポケットにしまった。
コンビニに寄った。プリンコーナーの前に立って、先週と同じやつを選んだ。二個手に取って、一個戻した。
一個だけ会計して、外に出た。
夜の道。四月の空気。
一人で食べるプリンは、先週と同じ味のはずだ。でも何かが少し違う。何が違うか、分からない。
ただ——先週の夜の方が、よかった。
その事実だけが、はっきりしていた。
土曜の昼。
柊家のダイニング。
凛が帰ってきた。ロケだったらしく、顔が少し疲れている。
「おかえり」と遼が言わず、華が「お姉ちゃんおかえりー!」と言う。
凛がソファに倒れ込んだ。「疲れた。ご飯は」
「作ってない」と遼。
「なんで」
「土曜だから」
「土曜は作らないの?」
「昼は各自」
「そんなルールある?」
「ある」
「いつ決めたの」
「今」
凛が枕をつかんで遼に投げた。遼が何事もなくかわした。
華がキッチンから「お姉ちゃんパスタでいい?」と言う。
「いい。ありがとう」
凛がソファで体を起こした。しばらくぼんやりと宙を見ている。
「遼」
「何」
「神崎監督ってどういう人か知ってる?」
遼がモニターから視線を上げた。珍しい問いかけだ。
「知らない。有名なの?」
「ドラマの賞、何個か取ってる監督。今度のドラマの」
「そうか」
「撮影が始まって、最初に言われたのが『上手い。でも安全圏にいる』って」
遼が少し止まった。
「それ、褒めてるのか?」
「褒めてない」凛がはっきり言う。「ダメ出し」
「……そうか」
「上手いけど安全圏、って。どういう意味か分かる?」
遼がモニターに向き直りながら、少し考えている。
「……計算した範囲で動いてる、ってことじゃないか」
「そう」
「凛はそういう演技するのか」
「ずっとそうしてきたから」と凛は言った。「それが悪いことだとは思ってなかった。でも」
遼が凛を見た。
「でも、監督に言われると。なんか、刺さった」
華がパスタを湯切りする音がキッチンから聞こえてくる。
「計算の外に出る演技って、できるのか」と遼が聞いた。
「分からない。やったことがないから」
「設計通りに動かないのって、怖くないのか」
「怖いよ」
「でも監督はそっちを求めてる」
「そう」
遼が少し首をかしげた。
「設計通りに動かないのが面白いことって、ある。俺はそっちの方が好きだ」
凛がソファから遼を見た。
「機械の話してる?」
「そう。でも、同じじゃないか」
凛は少し黙った。
華が「パスタ完成!」とプレートを二枚持ってきた。一枚を凛に渡して、もう一枚を遼のデスクに置いた。
「遼の分も作った」
「ありがとう」
華がにやにやした。「今日機嫌いい?」
「普通」
「絶対いい」
「そうか」
凛がパスタを食べながら、遼の横顔を見ていた。
設計通りに動かないのが面白い。
そういう発想が、どこから来るのか分からない。でも、何かが少し動いた気がした。
その夜、凛がベッドに入ってから、スマホを見た。
神崎監督からのメッセージではない。次回の撮影スケジュール確認、それだけ。
「安全圏にいる」という言葉が、また浮かんだ。
傷ついたのか。傷ついた、と思う。
でも——無視できない。それも確かだ。
「上手い」と「安全圏」の両方を言われた。片方だけなら流せた。両方言われると、なぜか残る。
分かっている監督に言われた、という感覚がある。見抜かれた、という感覚。
それが怖かったのか、嬉しかったのか——まだ、分からない。
同じ夜、詩織のアパート。
窓の外を見た。
柊家のマンションが見える。遼の部屋の窓も見える。灯りがついている。
高瀬の誘いに、どう返事をするか。まだ決まっていない。
断る理由が、言葉にならない。「違う感じがする」という感覚が、言葉にならない。
ただ——一人でコンビニのプリンを食べた今夜より、遼の隣のベンチで食べた先週の方が、確かによかった。
それが何を意味するのか、詩織はまだ問いにしていない。
問いにする前に、また窓を見た。
遼の部屋の窓に、灯りがついている。
それだけで、今夜は十分だ。




