柊家の夜明け前 Episode 2「柊海斗、世界を直したい」
柊海斗が初めて何かを分解したのは、五歳のときだった。
台所の時計が止まった。
母が「電池切れかな」と呟いて、そのまま棚に放置した。
海斗はそれが気になって仕方なかった。
その夜、家族が寝静まってから、海斗は布団を抜け出した。台所の椅子を踏み台にして、棚から時計を取り下ろした。
食卓に置いて、裏蓋を外す。歯車が並んでいる。じっと見た。一つ、位置がおかしかった。指で押し戻した。裏蓋を閉めた。
時計を壁に戻して、布団に戻った。
翌朝、母が起きてくると、時計は動いている。
「あれ?動いてる……」
「電池じゃなかった。歯車が一個ずれてた」
五歳の海斗は、椅子に座って朝ごはんを食べながら言った。
母はしばらく黙っていた。
「直し方、分かったの?」
「なんとなく」
なんとなく、ではなかった。
でも海斗には、それを説明する言葉がなかった。歯車の位置を見ていたら、どこが引っかかっているか分かった。引っかかりを直したら動いた。それだけ。
母は時計をもう一度下ろしてまじまじと確認し、再び壁に掛けた。
それから父に言った。
「この子、変かもしれない」
父は新聞から顔を上げずに言った。
「俺に似たんだろ」
高校を卒業する年まで、海斗は色々なものを直した。
近所の自転車。壊れたラジオ。隣の婆さんの洗濯機。友人のゲーム機。学校のプロジェクター。
頼まれて直したものもあれば、壊れているのが目に入って気になって直したものもあった。
お礼を貰うことは少なかった。
お礼を貰いたいと思ったことも、ほとんどなかった。
ただ、壊れているものが直ると気持ちよかった。
それだけだった。
大学は工学部に進む。
電気電子工学科。選ぶのに一秒も迷わなかった。
講義は退屈だった。
教授が黒板に書いていることは、大半がすでに知っていた。知らないことは本で調べれば分かった。知識として知っているだけでなく、実際に手を動かして確かめたことも多かった。
だから授業中は別のことを考えていた。
たとえば、実験室の換気扇の回転数が設計値より落ちていることとか。
そして、電気系の実験装置の一台が微妙にノイズを出していることとか。
どちらもそのうち直した。
誰に頼まれたわけでもなかった。
助教に「なんでそんなことしてるの」と聞かれたので「気になったので」と答えたら、しばらく黙られた。
大学二年生の春、海斗は学内の電気系サークルに顔を出した。
顔を出した、というのは正確ではない。たまたまサークルの部室の前を通ったら、メンバーが回路図を前に頭を抱えていたので、「何が問題ですか」と聞いたのが始まりだった。
サークルの名前は「電研」といった。電気研究会の略で、年に一度学園祭でロボットを展示している。その年は制御回路がうまく動かず、発表まで二週間しかないところで詰まっていた。
「ここ、ICの入力電圧が足りてない」
海斗は回路図を見て三十秒で言った。
「え?」
「この部分、設計だと五ボルトのはずだけど、実際には三・七ボルトしか来てない。電圧降下してる」
「な、なんで分かるんですか」
「回路図見たら分かる」
それだけ言って、海斗は部室の電源を借りてテスターを当て始めた。
十五分後、問題が特定された。
三十分後、修正案が出た。
翌日、部品を交換して動作確認する。
ロボットは動いた。
「……すごい」
部長が呆然と言った。
海斗は工具を片付けながら言った。
「あとここも、そのうちノイズが出るかもしれない。部品交換しといた方がいい」
「え、どこですか?」
「ここ」
指差した場所を、全員でメモする。
海斗は荷物をまとめて立ち上がった。
「じゃあ」
「あ、あのっ、名前教えてもらえますか!」
「柊です」
「何年ですか?」
「二年」
「また来てもらえますか!」
海斗は少し考えた。
「壊れたら来ます」
それだけ言って出ていった。
部室に残った電研のメンバーたちは、しばらく顔を見合わせていた。
「……なんだったんだ、今の」
「神様?」
「神様だと思う」
三年生の夏、海斗はアルバイトを始める。
電気設備の保守管理会社だった。ビルや工場の電気系統を定期点検したり、トラブルが起きたときに対応したりする仕事だ。
学生には難しいと思われていた仕事だったが、採用担当者が面接中に「試しにこれ見てみて」と持ってきた故障した制御盤の図面を、海斗が五分で読み解いたので、その場で採用が決まった。
現場には色々な人間がいた。
ベテランの職人。自分のやり方にこだわる人。新しいことを嫌う人。逆に、海斗の若さを見て舐めてかかる人。
海斗はそういうことをあまり気にしなかった。
仕事に来ているのであって、関係性を構築しに来ているわけではない。問題があれば直す。それだけだった。
ある日、ベテランの職人、吉村という五十代の男性に言われた。
「お前、仕事は速いな」
「そうですか」
「でも愛想がない」
「そうですね」
「客商売なんだから、もう少し愛想よくしろ」
「分かりました」
海斗は頷いた。
そして翌日から、仕事を終えたあとに「お役に立てて良かったです」と一言つけ加えるようにした。
吉村はそれを見て「そういう意味じゃないんだが」と言ったが、何が違うのかよく分からなかったので海斗はそのまま続けた。
吉村はある日、珍しく真面目な顔で言った。
「お前、卒業したらうちに来い」
「ありがとうございます。考えます」
「考えます、って言っておいて来ないやつの顔だな」
「そうかもしれません」
吉村は苦笑した。
「なんで?うちじゃ不満か?」
「不満はないです。ただ、もっと壊れているものを直したい」
「もっと?」
「一つのビルじゃなくて、もっと大きいものを。一つの現場じゃなくて、もっと複雑なものを」
吉村は少し黙った。
「……欲張りなんだな」
「そうですか」
「普通、でかいことを言う若いやつは中身がないもんだけど」
「どうでしょう」
「お前は中身がある分、たちが悪い」
海斗には、それが褒め言葉かどうか判断できなかった。
吉村はため息をついた。
「まあ、いい仕事場が見つかるといいな」
「ありがとうございます」
四年生になる年の春。
就職活動は一社だけ受けた。
大手の電機メーカーだった。技術職の採用試験で、筆記と実技と面接があった。
筆記はほぼ満点だった。
実技は、出題された制御系の設計問題を規定時間の半分で終わらせた。余った時間に設計上の改善案も三つ書き添えた。
面接で採用担当者に言われた。
「非常に優秀ですね。ぜひ来てほしい」
「ありがとうございます」
「どんな仕事がしたいですか?」
「現場に出て、壊れているものを直す仕事がしたいです」
採用担当者は少し困った顔をした。
「うちは大手ですから、すぐ現場というわけにはいかなくて……まず研修があって、それから部署配属になって」
「どれくらいで現場に出られますか」
「早くて三年くらい……」
「そうですか」
海斗は少し考えた。
「他の会社も受けてみます」
「え、今の答えが理由ですか?」
「はい。三年待つのは少し長い気がします」
採用担当者は返事に詰まった。
海斗は頭を下げて面接室を出た。
廊下を歩きながら、やはり大きな会社は向いていないかもしれないと思った。
壊れているものを直したい。
ただ、それだけだった。
それが三年待たないとできないというのは、海斗の感覚では理解しづらかった。
海斗は修士課程への進学を決めた。
修士一年目の秋。
縁あって、海外の技術支援プロジェクトに参加することになった。
東南アジアの発展途上国で、古い水処理設備の電気系統を修復するという仕事である。研究室の教授が持ってきた話で、「英語が読めて機械が分かる人間が足りない」というので、海斗が手を挙げた。
正確には、教授が「誰か行ける人は」と言ったとき、海斗だけが手を挙げた。
他のメンバーは全員下を向いていた。
現地に着くと、設備は想像以上に老朽化していた。
配線は錆びていた。図面は古く、実際の配線と一致していない箇所が複数あった。部品は現地調達できるものと、できないものが混在していた。
最初の三日間で、海斗は設備全体の現状を把握する。
現地の担当者が言った。
「この設備、修復できると思うか?」
「できます」
「本当に?専門家も何人か来たんだが、難しいと言って帰った」
「どこが難しいか、聞きましたか」
「いや……難しいと言うだけで」
「分かりました。一週間もらえますか」
担当者は半信半疑だったが、うなずいた。
海斗は一週間、現場に泊まり込んだ。
現地の作業員と一緒に動きながら、必要な部品を特定し、調達できないものは代替品を探した。配線を引き直した。制御系のプログラムを書き直した。
一週間後、設備は動いた。
担当者が言った。
「信じられない」
「設計自体は悪くなかったです。ただ、長年のメンテナンス不足で接触不良が積み重なっていただけで」
「それを一週間で……」
「時間があればもう少し精度を上げられますが、実用上は問題ないです」
担当者はしばらく無言となった。
それから、海斗の手を両手で握った。
「ありがとう」
海斗は少し戸惑った。
礼を言われることに、まだ慣れていなかった。
「あー。お役に立てて良かったです」
吉村に教わった言葉を、海斗は使った。
帰国便の中で、海斗は窓の外を見ていた。
夜の空。雲の上は晴れていた。
現場に行けばいくほど、世界は広かった。
壊れているものが多かった。
古いもの。複雑なもの。誰も手をつけられなかったもの。
全部ではないにしても、相当数は直せる気がした。
直せる場所に行けばいい。
それだけのことだった。
海斗は窓から視線を外して、手元の技術書を開いた。
隣の座席が空いているのを確認してから、ノートを広げた。
現地で気になったことをいくつか書き留めた。
設備の制御系に改良の余地があった。予算と部品が揃えば、もっと効率的な設計にできる。
次に行く機会があれば、試してみたい。
ペンが動く。
夜の上空を、飛行機が進んでいく。
海斗は出てきた機内食をチラリとだけ見て、おもむろにフォークで刺して口に入れる。
紙の上に、設計図が広がっていった。
羽田に着いたのは深夜だった。
電車を乗り継いで、アパートに戻った。
部屋に入ると、郵便受けに企業からのダイレクトメールが三通入っていた。
全部読まずに捨てた。
シャワーを浴びて、作業机に座った。
工具箱を開く。
出発前に途中だった基板の修復が残っている。隣の部屋の田中という学生に頼まれたものだった。
ハンダゴテに電源を入れる。
温まるまでの数十秒、海斗は何も考えずに机を見ていた。
静かだった。
海外の現場の喧騒と、羽田空港の人ごみと、電車の音と。
全部が遠くなって、工具箱の中の金属の匂いだけが残った。
ここが一番、落ち着く。
機械の前。
問題の前。
答えが出るまで向き合い続ける、その感覚。
ハンダゴテの赤いランプが点灯した。
海斗は作業を始めた。
夜の高円寺。
アパートの一室だけに、明かりがついていた。




