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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
柊遼と桜井詩織

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柊遼 Episode 5「言い足りなかったこと」

 母が春に発ってから、半年が経った。

 (ひいらぎ)家は静かになった、というわけではない。(りん)がいる。(はな)がいる。二人がいれば、台所も廊下も、あいかわらず音で満ちている。ただ、母の鼻歌だけが消えた。台所の音の種類が、少し変わった。遼はそれに気づいていたが、誰にも言わなかった。言う理由が見当たらなかった。

 変わったことと変わらないことを、遼は区別して考えない。変わったなら変わったで、今の状態に対応する。それだけだ。

 凛が夕飯を作るようになった。最初は焦げたり、味が薄かったりした。遼は黙って食べた。華は正直に「ちょっと変な味」と言った。凛が「じゃあ自分で作れ」と言った。華が「ごめん、おいしい」と訂正した。(りょう)はそのやりとりを聞きながら、凛の作った味噌汁を飲んだ。だしの引き方がまだ浅い。でも飲める。

 それでいい、と思っていた。

 凛は文句を言いながらも毎晩台所に立っている。華は凛の作ったものを食べながら感想を言う。失敗した日も成功した日も、二人は台所にいる。それが今の柊家の形だ。

 遼はその形を変えようとは思わない。でも、維持したいとは思っている。凛が疲れているときは皿を洗う。華が眠そうなときは風呂を先に入れる。誰も頼まない。遼から気づいて動く。頼まれてからでは遅い場合がある、ということを遼は知っていた。

 家族に何かをしてあげている、という感覚はない。ただ、状態を正常に保つために必要なことをしている。壊れかけた部品を早めに交換するのと、同じことだ。

 そう思っていたが、それが愛情かどうかは、遼には分からない。


 十一月の半ばに、理科室で実験があった。

 電球と電池と抵抗を使った回路を組んで、電流と電圧を測る。単純な実験だ。遼のグループは早々に終わった。遼はノートに計算式を書きながら、次の作業を頭の中で組んでいた。今夜の作業だ。先週から取り掛かっているラジオ受信機の、コイルの巻き数を調整する必要がある。計算では合っているはずなのに、周波数がわずかにずれる。どこに誤差が出ているか。

 前の方のグループで声が上がったのは、そのときだ。

 「先生、電球が光らないんですけど」

 坂本先生が近づいていった。配線を確認している。首をかしげている。「配線は合ってるんだが……」と独り言のように言う。

 遼は手を止めた。

 立って、そのグループの実験台に近づく。「少し見てもいいですか」と先生に言った。先生が「どうぞ」と言う前に、もう手が動いていた。

 回路を指でたどった。電池の向き——問題ない。電球の接続——問題ない。抵抗——待て。端子の感触が変わる。ここだ。

 もう一つ確認した。抵抗値が計算と少しずれている。誤差範囲内だが、気になる数字だ。これは後で言うか、あるいは言わなくていいかもしれない。今は先に接触不良を直す。

 端子を押し直した。

 電球が光った。

 周囲が声を上げた。先生が「そうか、ありがとう」と言った。遼は「接触不良でした」とだけ言って席に戻った。

 坂本先生がクラス全体に向けて「接触不良には気をつけるように」と言っている。遼はノートの続きを書いた。もう一つの問題——抵抗値の誤差——を言うタイミングを計っていた。でも授業は先へ進んだ。計測の結果を記録する作業に移って、それきりになった。

 別にいいか、と思った。

 実験は動いている。誤差範囲内だ。大きな問題ではない。言わなくても授業は完結する。

 ただ、少し引っかかった。

 「言い忘れた」ではない。言おうかどうか考えて、言わないまま授業が終わった。それが「言い足りなかった」という感覚として残った。「言い忘れた」と「言い足りなかった」は違う。その違いが自分でもよく分からなかった。

 席に戻りながら、ふと視線を感じた。

 気のせいかもしれない。でも視線の方向に目を向けると、詩織(しおり)が遼の方を見ていた。目が合った。詩織はすぐ本に視線を落とした。

 何でもない、と思った。授業中に誰かが立ち歩いたから目を向けた、それだけのことだ。

 でも席に戻ってからも、その一瞬が少し頭に残った。詩織の目が、遼の手元ではなく、遼が確認した場所を追っていたような気がした。回路のどこを見たかを、見ていたような。

 気のせいかもしれない。でも確かめる方法もない。


 放課後、詩織と帰り道が重なった。

 十一月の夕方は暗くなるのが早い。四時を過ぎると空の色が変わって、商店街の灯りがぽつぽつと点き始める。遼は少し肌寒いと感じながら歩いていた。

 「接触不良って、触っただけで分かるの」

 詩織が言った。今日の実験のことを見ていたらしい。

 「なんとなく」

 「なんとなく?」

 「端子の感触が変わるから。ちゃんとはまってると、少し硬い」

 詩織は「へえ」と言った。それ以上は聞かなかった。遼も続けなかった。

 「今日の実験、見てた?」と聞こうとして、やめた。なぜ聞くのか、理由が分からなかった。「全部確認した」という話を誰かにしたかったのかもしれない。でも「したかった」という自覚も、その時点ではなかった。

 商店街に入ったところで、幸江(さちえ)の店の前を通った。

 「遼くーん」

 幸江がエプロン姿で店先から声をかけてくる。「今日も遅かったね。今日のおかずはひじきとコロッケだよ」

 「コロッケください」と遼は言った。「何個」「三人分」。

 幸江が包み始める。詩織が少し後ろで立っている。幸江が詩織を見て「詩織ちゃんも今日一緒?」と言った。詩織が「はい」と答えた。「じゃあ一個余分に入れとくよ」と幸江が言う。「いいですよ、お金払います」と遼が言った。「いいからいいから」と幸江は笑った。

 コロッケの包みを受け取りながら、「頑張ってるね、三人とも」と幸江が言った。

 幸江が言った。遼は財布を出しながら、「田中さんが隣にいるので」と答えた。余計なことを言うつもりはなかった。ただ、本当のことだ。幸江が隣にいるから、夕飯のおかずがある。幸江が声をかけてくるから、帰り道に寄る場所がある。それだけのことだが、それが今の柊家には大事だと分かっていた。

 「あたしは隣にいるだけだよ」と幸江は笑った。

 コロッケの包みを受け取って、詩織と並んで歩き始めた。

 詩織が「遼くんって、幸江さんとよく話すんだね」と言った。

 「寄るから」

 「私の話も出るの?」

 遼は少し考えた。出るのかもしれない。意識したことはなかった。でも幸江が詩織の名前を当然のように知っていた。そういうことだろう。

 「さあ」と遼は言った。

 詩織が小さく笑った。

 遼は前を向いて歩いた。

 「幸江さんって、優しいね」

 しばらく歩いてから、詩織が言った。

 「そうかな」

 「そうだよ。遼くんのこと心配してるんだと思う」

 遼は少し考えた。心配、という言葉の重さを測った。幸江が「頑張ってるね」と言うのは、心配から来ているのかもしれない。でも遼には、幸江のそれが重くなかった。重くない心配だ。「大丈夫か」ではなく「隣にいる」という形の心配だから、受け取りやすい。

 「嫌いじゃない」と遼は言った。

 詩織がまた笑った。今度は少し大きかった。

 「なんで笑うの」

 「なんか遼くんらしいと思って」

 遼くんらしい、が何を指すのか、遼には分からなかった。でも詩織が笑っているから、悪い意味ではないと分かった。それで十分だ。


 柊家の前で別れた。

 家に入って、三人分のコロッケを台所のテーブルに置いた。凛が「あ、幸江さんとこの」と言った。華が「やった」と言った。

 遼は自分の部屋に上がった。

 机の上にラジオ受信機の基板がある。先週から取り掛かっている。コイルの巻き数を調整すれば周波数が合うはずなのに、わずかにずれが残っている。どこに誤差が出ているのか、まだ特定できていない。今夜はそれに集中するつもりだった。

 ハンダゴテを温める間、台所から凛と華の声が聞こえてくる。凛が「宿題やったの」と言っていた。華が「やった」と言う。「本当に?」「本当に」「見せて」「後で」。毎晩同じやりとりだ。遼はそれを聞きながら、コイルの端を指でなぞった。

 家の音が聞こえる間は、何かが正常に動いている。遼にとってそれは、回路に電流が流れているかどうかを確かめるのと同じ感覚だ。音がある。だから問題ない。そういうことだ。

 手を動かしながら、理科室のことが頭に浮かんだ。抵抗値の誤差。あれを言うべきだったかどうか。

 言わなくてよかったと思う。言っても授業には関係がない。先生も気にしないだろう。誰も困らない。

 でも引っかかりが消えない。

 「言い足りなかった」という感覚の正体が、よく分からない。言い忘れたなら次に言えばいい。でも今回は忘れたのではなく、言う場所を失っただけだ。言いたい内容が宙に浮いたまま、授業が終わった。それが残っている。

 先生に言うか。今から先生に連絡する理由が立たない。先生のLINEも知らない。

 遼は手を止めた。

 スマホを手に取って、詩織にLINEを送った。

 「今日の理科、もう一つ直すとこあったんだけど言いそびれた」

 送ってから、なぜ詩織に送ったのかを少し考えた。先生のLINEを知らない——それが一番の理由だ。でも他に送れる相手がいなかったわけでもない。凛に言えばよかった。でも凛に言っても「へえ、そうなの」で終わる。華に言っても同じだ。

 詩織ならうるさくしない。変に騒がない。それだけだ。

 「どこ」とすぐ返ってきた。

 「抵抗値が計算と合ってなかった。でも誤差範囲内だったから言わなくていいか、と思って」

 「そんなとこまで見てたの」

 「見てただけ」

 少し間があって、「そっか」と返ってきた。

 既読をつけて、遼はスマホを置いた。

 基板に向き直る。コイルの端を持って、巻き数を一回分ほどほどいてみた。テスターを当てる。周波数を確認する。まだ少しずれている。もう一回ほどく。

 手を動かしながら、さっきの「どこ」という返信の速さを思い出した。

 速かった。

 考えてから返した速さではなかった。すでに「もう一つある」と思っていた人間が返す速さだった。

 詩織は見ていたのかもしれない。接触不良を直す前に、遼が回路全体を一度確認したことを。遼がどこを見ていたかを、見ていたのかもしれない。

 確認しなかった。「気づいてたの?」と聞けばよかった。でも聞く理由が分からなかった。気づいていたとしても、いなかったとしても、それで何かが変わるわけではない。

 そう思った。

 でも手がいつもより丁寧に動いていた。コイルの端を余計に確認した。テスターを二回当てた。遼は気づかなかった。気づかないまま、夜が更けていった。


 布団に入っても、すぐには眠れなかった。

 眠れない理由は分からない。疲れている。作業も一段落した。眠っていいはずだ。でも目が開いている。

 コイルの調整は、結局今夜では終わらなかった。あと一回か二回、巻き数をほどけば合うかもしれない。でも今夜の遼の手は、いつもより慎重すぎた。一回ほどいてはテスターを当て、また確認する。その繰り返しに時間がかかった。

 なぜそんなに慎重だったのか、理由が分からない。作業に集中していたはずなのに、何かが違った。

 詩織の「どこ」という返信のことを、作業中も何度か思い出した。速かった。あの速さは、考えてから返した速さではない。もう分かっていた人間の速さだ。詩織は遼の手元だけでなく、遼の視線がどこへ向かったかを追っていた。そういうことだと思う。

 天井を見ながら、「詩織は見ていたんだな」という気がした。

 何を、とは言えない。理科室での遼の手の動きを見ていた。それは事実だ。でも「見ていた」という感覚は、それだけではないような気がした。

 詩織はよく見る。本を読む目で、周りを見る。本の中の言葉を追うときと同じ集中の仕方で、外の何かを見ている。それが遼には前から分かっていた。分かっていたが、何も言わなかった。言う理由がなかったから。

 今日、詩織に「言いそびれた」と送った。

 なぜ詩織だったのか、を考えながら眠くなっていた。答えが出る前に眠った。答えが出なくてもよかった。でも「詩織は見ていた」という感覚だけが、眠りに落ちる前の遼の頭に残っていた。

 窓の外に斜め向かいの家がある。灯りは、もう消えていた。


 翌日、学校で詩織と顔を合わせた。

 廊下で一度だけすれ違った。詩織は本を持っていた。遼を見て、小さくうなずいた。遼もうなずいた。それだけだ。

 「昨日のLINE」のことには触れなかった。触れる必要がなかった。伝わるものは伝わった。伝わらないものは、元から言葉にならなかった。

 どちらでも、いい。

 そう思った。でも廊下を歩きながら、もう一度だけ「聞けばよかった」という感覚が浮かんだ。気づいてたの、と。

 その感覚の名前を、遼はまだ知らない。

 ただ、帰り道に詩織と並んで歩いているとき、いつもより少しだけ歩くのが遅かった。気づかないまま、遅かった。

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