柊凛 主演 深夜ドラマ「一生、君を忘れられない」
このドラマは、柊凛が21歳のとき——深夜枠での初主演作品として制作された。
放映後、視聴者から異例の反響があった。
「こんな役をやらせてしまって申し訳なかった」と、後に監督が語った作品である。
朝、目が覚めた。
カーテンの隙間から、光が差し込んでいる。
細い光だ。
でも、今日は晴れている。
菜摘はしばらく、天井を見ていた。
白い天井。
何もない天井。
毎朝、同じ天井を見ている。
いつからだろう。
数えるのをやめてしまったから、もうわからない。
起き上がり、椅子の背にかけてあったコートを手に取った。
白いコートだ。
袖を通すと、少し大きい。
買ったときはちょうどよかったのに。
少し痩せたんだな、と思った。
鏡を見る。
自分の顔が映っている。
久しぶりに、ちゃんと自分の顔を見た気がした。
悪くない。
今日は、会いに行こう。
ずっとそう思っていた。
ずっと——ずっと、そう思っていた。
廊下に出る。
静かだ。
足音がしない。
誰もいない。
いつもそうだ。
ここは静かすぎる。
いつも静かすぎて、自分の息の音まで聞こえるくらいだ。
階段を下り、出口に向かった。
誰かに声をかけられると思っていた。
でも、誰も来ない。
扉を押した。
外の空気が、顔に当たる。
冷たい。
十一月の風だ。
菜摘は少しだけ目を細め、それから歩き始めた。
駅まで、十分ほど歩く。
道は覚えている。
前にも歩いたことがある。
いつだったかな——
思い出せない。
でも、足は覚えていた。
右に曲がって、橋を渡って、左に曲がる。
横断歩道の信号が青になるのを待ちながら、空を見上げた。
青い。
雲が、ゆっくり流れていく。
あの人も、今日は晴れていると思っているだろうか。
思っているといいな。
信号が変わる。
渡った。
電車に乗り、座席に座って、窓の外を見る。
街が流れていく。
マンション、コンビニ、公園、歩道橋。
全部、知っている景色だ。
何度も通ったから。
彼のバイト先に行くとき、いつもこの電車だった。
迎えに行くたびに、この景色を見ていた。
早く着かないかな、と思いながら。
いつも、そう思いながら。
窓に自分の顔が映っている。
笑っていた。
久しぶりに、笑っている自分を見た気がした。
そうか、今日は笑えるんだ。
よかった。
あの人に会うのに、暗い顔はよくない。
思い出す。
去年の夏のこと。
彼の部屋で、二人でアイスを食べた。
チョコレート味のやつで、暑いのに食べるのが遅くて、手に溶けてこぼした。
怒られた。
「なにやってんだよ」って。
でも声は怒っていない。
ちょっと笑っていた。
怒られたのに、なぜか嬉しかった。
怒ってくれるってことは、気にしてくれてるってことだから。
そう思っていた。
その前の年の冬。
ケンカして、泣いた。
何でケンカしたのか、もう覚えていない。
たぶん、たいしたことじゃなかった。
でも泣いた。
部屋に帰って、ひとりで。
翌朝、ドアノブに缶コーヒーがかかっていた。
何も言わない。
メモも何もない。
ただ、缶コーヒーだけ。
でも分かった。
あの人が来てくれたんだって。
それだけで、もういいと思った。
好きだった。
ずっと、ずっと好きだった。
大きい手。
声が低くて、でも話すとき少し優しくなる。
私の名前を呼ぶとき、ちょっとだけ間があった。
「な……つみ」って。
それが好きだった。
菜摘ってそんなに言いにくい名前じゃないのに、なんでだろうって思っていた。
でも今はわかる。
たぶんあの人も、少し、緊張していたんだと思う。
電車を降りる。
人が多い。
みんな、どこかへ向かっている。
菜摘も向かっている。
あの人のバイト先へ。
何度も迎えに行ったから、道は覚えている。
目をつぶっても行ける。
改札を出て、右に曲がって、商店街を抜けて、角のコンビニを左に曲がる。
そこに、あの人のバイト先がある。
歩きながら、思い出す。
殴られたこともあった。
唐突に、そんな記憶が来た。
でも——好き。
怒ってくれるってことは、気にしてくれてるってことだから。
平手打ちされたこともあった。
でも——好き。
あの人は感情的なだけだ。
本当は優しい人だから。
お金、たくさんあげた。
「ちょっと足りなくて」って言われるたびに、渡した。
財布が空になるまで。
でも——好き。
困ってたんだから、しょうがない。
好き、好き、好き。
好きだった——ずっと——
足が止まる。
横断歩道の前。
信号は青だ。
でも渡れない。
ゆっくりと、別の記憶が浮かんでくる。
去年の秋のこと。
いつものようにバイト先に迎えに行ったとき。
ガラス越しに、彼が見えた。
笑っていた。
隣に、知らない女の子がいた。
同じ制服を着た、女の子。
彼は、その子に向かって笑っていた。
私に向けた笑顔じゃない笑い方で。
私が入っていったら、彼は少し顔を引きつらせた。
「あ、菜摘。バイト終わりに来たの?」
「うん」
「こっちはここのバイトの子。友達だよ」
その子は会釈した。
かわいい子だった。
私は笑顔を作った。
「そうなんだ。よろしくね」
声が震えていないか、ずっと確認していた。
あの日の帰り道、電車の中でずっと泣いた。
泣き続けて、乗り換えを間違えて、知らない駅で降りた。
ベンチに座って、スマホを握りしめて、電話しようとして、できなかった。
でも——
友達なんかじゃ、なかった。
全然、違った。
信号が赤になる。
菜摘は立ったまま、空を見た。
好き、好き、好き——
嫌い。
嫌い。
嫌い。
同じ頃。
菜摘の携帯が、鳴り続けている。
ずっと前から、気づいていた。
バイブが、コートのポケットの中で震え続けている。
画面を見る。
病院からだ。
菜摘はそれを、ポケットの奥に押し込んだ。
今は、関係ない。
商店街を抜ける。
あの子と、今も会ってるのかな。
思った。
たぶん、会っている。
あの笑い方は、そういう笑い方だった。
私には、一度もしてくれなかった笑い方。
なんで。
こんなに好きだったのに。
こんなに、全部あげたのに。
角を曲がった。
見覚えのある店が見える。
コンビニのガラスに、自分が映っていた。
白いコートを着た女が、立っている。
右手に、シャープペンシルを持っていた。
左手に、ボールペンを持っていた。
いつ、握ったのか。
覚えていない。
バッグの中に入っていたのか。
それとも、ずっと持っていたのか。
でも——ちゃんと、持っていた。
ガラスの中の自分を見る。
笑っていた。
自動ドアが開く。
入店を知らせるベルが鳴る。
温かい空気が、顔に当たった。
レジの向こうに、彼がいた。
黒い制服を着て、タブレットの画面を見ている。
その隣に——
女の子がいた。
同じ制服を着た女の子が、棚の整理をしていた。
バイト先の子だ。
あの日ガラス越しに見た子。
すぐに分かった。
忘れるはずがない。
彼が顔を上げる。
菜摘を見た。
一秒。
二秒。
「……菜摘」
声が、かすれていた。
「お前、病院に——」
「いたよ」
菜摘は笑う。
「でも来ちゃった」
「なんで」
「会いたかったから」
「……」
彼の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
一歩、後退る。
レジカウンターに背中がぶつかった。
女の子が手を止める。
怯えた顔で、彼を見た。
少し前。
6時半の検温ラウンド。
看護師が204号室のドアをノックした。
「桐島さん、検温の時間です」
返事がない。
もう一度、ノックした。
静かだった。
ドアを開けた。
ベッドは、きれいに整えられていた。
シーツにしわひとつない。
まるで最初から、誰もいなかったように。
窓が、半分開いていた。
外は、晴れている。
椅子の背に、目が行った。
白いコートが、ない。
看護師はしばらく、部屋の中に立ったまま動けなかった。
それから、廊下を走った。
菜摘は、ゆっくりと近づいた。
急がない。
急ぐ必要はない。
店内には、ほかに客が二人いる。
棚の向こう側にいる。
まだ気づいていない。
「菜摘、やめろ。落ち着け。ちゃんと病院に戻れ。な?」
声が、少し震えていた。
菜摘は首をかしげた。
「やめるって、何を?」
「……お前」
「大丈夫だよ」
菜摘は言った。
柔らかく。
笑顔で。
「もう全部、大丈夫だから」
本当に、大丈夫だった。
こんなに大丈夫なのは、久しぶりのことだ。
彼の顔を見る。
怯えている。
こんな顔、初めて見た。
ずっと一緒にいたのに、一度も見たことがなかった。
殴るときは怒っていた。
平手打ちするときは苛立っていた。
お金を受け取るときは平然としていた。
でも——こんな顔は、一度も。
もっと早く見たかった。
この顔を。
私だけに向けた、この顔を。
心の底から、笑った。
この人の顔を、最後まで見ていよう。
この表情が——
「トラウマにしてあげる」
菜摘は、静かに言った。
右手を、ゆっくりと自分の首へ運ぶ。
シャープペンシルの先端が、皮膚に触れた。
冷たい。
「やめ——」
刺した。
引き抜いた。
左手を、同じ場所へ。
ボールペンの先端。
刺した。
引き抜いた。
痛みは、あまりない。
熱い。
生温かいものが、首を伝っていくのが分かった。
白いコートに、何かが落ちる。
ああ。
血って、こんなに温かいんだ。
知らなかった。
彼の悲鳴が、聞こえる。
遠い。
女の子の泣き声も聞こえた。
棚の向こうで、誰かが何かを落とす音がする。
誰かが叫んでいる。
でも全部、遠い。
菜摘は笑ったまま、ゆっくりと床に膝をついた。
冷たいタイルに、膝が触れる。
白いコートの裾が広がった。
赤が、じわじわと滲んでいく。
きれい。
すごく、きれいな色だ。
視界が、少しずつ揺れる。
彼の顔が、ぼやけていく。
泣いていた。
泣いてる。
あの人が、泣いてる。
こんな顔、一度も見せてくれなかったのに。
やっと、見せてくれた。
やっと——
床に血が落ちる音が、静かに響く。
菜摘は、それをとても幸せそうに聞いていた。
「ほらね」
「これで一生——」
瞼が、重くなる。
「——私を忘れられない」
Fin.
放映後、深夜にもかかわらずSNSのトレンドに「#一生君を忘れられない」が浮上した。
翌朝のワイドショーは、最終シーンを繰り返し特集した。
一部の視聴者から「放送すべきでなかった」という声が上がる一方、
「これまで見たドラマの中で一番忘れられない」というコメントが数万件寄せられた。
柊凛はその年、この役で初めて演技賞の候補にノミネートされた。
授賞式のインタビューで、凛はこう語っている。
「撮影が終わった夜、しばらく眠れませんでした。
菜摘が怖いんじゃなくて——
菜摘のことが、分かる気がして。
それが、怖かった」
記者が「どういう意味ですか」と聞いた。
凛は少し考えてから、こう答えた。
「好きすぎて、おかしくなる感覚。
誰でも、持ってると思うんです。
奥の方に。
菜摘は、それを——最後まで手放さなかった」
その言葉は翌日、各メディアに大きく取り上げられた。




