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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
柊遼と桜井詩織

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桜井詩織 Episode 5「三つの窓」

 四月というのは、何かが変わる月だ。

 桜が散って、新しいクラスになって、世界が少し横にずれる。去年と同じ場所に立っているはずなのに、周囲の景色だけが違う。そういう月だ。

 高校二年生の春、詩織が最初に気づいたのは、凛ちゃんの帰宅時間だった。

 柊凛は、スカウトされた。

 詩織がそれを知ったのは、遼くんから直接ではなく、商店街の田中さんからだ。

「凛ちゃんにね、事務所の人が声をかけてきたんだって。大学入ったばかりなのに、やっぱりああいう子はどこにいても目につくんだねえ」

 田中さんは惣菜を詰めながら言った。特に興奮した様子でもなく、まるで天気の話をするように。

「そうなんですか」

「うちのお父さんも言ってたよ。あの凛ちゃんがテレビに出る時代になったか、って」

 詩織は「そうですね」と返して、コロッケを受け取った。

 その夜、柊家の窓を確認した。左の窓——凛ちゃんの部屋——に灯りがついている。右の窓——遼くんの部屋——にも灯りがついている。いつも通りだ。

 いつも通り、だった。

 翌朝、登校の途中で遼くんと並んだ。四月の朝の光は薄く、まだどこか冬の名残がある。商店街のシャッターが半分開きかけていて、パン屋から焼ける匂いがした。

「凛ちゃん、やるって言ったの? 事務所の話」

 詩織が聞いた。何でもない風を装って。

「うん」

「止めなかったの」

「止める理由がない」

「心配じゃないの」

「別に」

「そっけないね」

 遼くんは前を向いたまま歩いている。何も感じていない顔。というより、遼くんはいつもそういう顔をしていて、何かを感じていても外には出てこない。

「凛ちゃん、変わっちゃうかも」

 詩織が言うと、遼くんはしばらく黙った。

「変わるかもな」

「寂しくないの」

「別に」

「また別に」

「そういうもんだろ」

 数歩分の沈黙。それから詩織は聞いた。

「遼くんは変わらないの」

「何が」

「何でも」

 今度は答えなかった。でも、しばらくしてぽつりと言った。

「変える理由がない」

 答えなのか独り言なのか、詩織には分からなかった。

 でも胸の中で、何かが少し落ち着いた。

 それから柊家の様子が、少しずつ変わっていった。

 凛ちゃんが帰ってくる時間が不規則になった。以前は夕方六時前後だったのが、七時になり、八時になる日も出てきた。週に一度か二度、見慣れない黒いワンボックスが柊家の前に止まる。

 ある夜、左の窓に灯りがついたまま日付が変わった。

 詩織はそれを、自分の部屋の窓から見ていた。

 右の窓は、今日も変わらずついている。

 遼くんの部屋。

 五月になり、凛ちゃんはCMの仕事を始めた。柊家の夕食の話題に「撮影」という言葉が混ざるようになったと、田中さんから聞いた。遼くんの口からそういう話が出ることはない。

 国民的女優への道が始まる——などとは、まだ誰も思っていない時期だ。近所の、きれいな大学生が何かの仕事を始めた、というくらいの話だった。

 遼くんの部屋の灯りは、変わらずついている。

 毎晩、右の窓。同じ時間に点いて、少し遅い時間に消える。

 詩織は毎晩それを確認した。確認している、という自覚なく、確認した。

 六月のある夜、気づいたことがある。

 左の窓——凛ちゃんの部屋——が暗い日が増えていた。帰りが遅いのか、外泊しているのか。柊家の窓から凛ちゃんの気配が減っていく。

 でも右の窓は変わらない。

 遼くんはそこにいる。今日も、昨日も、おそらく明日も。

 右の窓がついていることを確認して、胸の奥の何かが「よし」と言う。毎晩そうしていることに、この夜も気づかなかった。気づく必要がないと思っていたから。

 七月になると、凛ちゃんの話が学校にまで届いてきた。

 CMが流れ始めた。詩織の母が「あら、あの子じゃない」と言った。「近所の」と詩織が補足した。母はへえ、と言ってチャンネルを変えた。

 廊下でも会話を聞いた。「柊くんのお姉さん、テレビ出てるんだって」「うちの母が見たって言ってた」。

 そのたびに、詩織の中で何かが静かに言った。

 みんなが今知ったことを、私はずっと知っていた。

 ずっと、知っていた。

「見た? 凛ちゃんのCM」

 ある日、詩織は遼くんに聞いた。

「見てない」

「テレビで流れてるのに」

「テレビつけないから」

「つけてよ」

「なんで」

 詩織は少し笑った。遼くんは本当に興味がない。凛ちゃんが有名になっていくことに、何一つ動じていない。その変わらなさが、詩織にはどこか安心だった。

 安心の理由を、詩織は考えなかった。考えなかった——というより、考えないようにしていた。どちらかは、もう分からない。

 夏の終わりのある夕方、図書館からの帰り道で凛ちゃんと会った。

 黒いワンボックスが柊家の前に止まっていて、後部座席のドアが開いて、凛ちゃんが降りてくる。立ち方が少し変わっていた。服が変わったのか、顔つきが変わったのか、うまく分からない。でも確かに何かが変わっていた。

「詩織ちゃん、久しぶり」

「お疲れ様です」

「なんか他人みたい」

「あはは」

「遼は?」

「部屋にいるんじゃないですか」

 車が走り去った後、二人でしばらく立っていた。夏の夕暮れ、西の空がオレンジに染まって、商店街の灯りが点き始める。

「変わったかな、私」

 凛ちゃんが言った。詩織への問いかけではなく、独り言に近かった。

「少し」と詩織は正直に答えた。

「遼は変わったって思う?」

「たぶん、思わないと思います」

 凛ちゃんは少し笑った。「そうだよね」と言って、家に入っていった。

 詩織はその場に残って、柊家の窓を見上げた。

 夕暮れの中、右の窓に灯りがついていた。

 九月になった。

 凛ちゃんの仕事が増えていった。週に一度だった黒い車が、二度になり、三度になる。テレビに出る頻度も上がって、学校での話題に凛ちゃんの名前が混ざる日が増えた。

 遼は変わらなかった。

 その変わらなさが、詩織にとって何かの基準になっていた。柊家が変わっていくことの速度を、右の窓の変わらなさで測っていた。右の窓がある限り、何かが保たれている。そういう感覚だった。

 感覚、と言えるほど意識していたわけでもない。ただそこにあるものとして、右の窓があった。

 十月の末に、今度は華ちゃんの話を聞いた。

 田中さんからではなく、今度は遼から直接だった。帰り道、商店街に差し掛かったとき、遼が言った。

「華がオーディション受けるって言い出した」

「オーディション?」

「凛の事務所のやつ。自分で調べて、自分で申し込んだらしい」

 詩織は少し驚いた。

「華ちゃんが自分で?」

「うん」

「凛ちゃんは何て言ったの」

「知らなかったって言ってた。華が勝手にやったから」

「止めないの、遼は」

「なんで止めるんだ」

 前を向いたまま、それだけ言う。詩織はその横顔を見た。

 何も感じていない顔。いつも通りの顔。

 凛ちゃんのときも同じだった、と思った。この人は誰が変わっていっても、同じ顔をしている。感情が外に出ない。動じない。

 それが遼だった。

 それが——遼だった。

 十一月、華ちゃんのオーディションの結果が出た。

 合格だった。

 田中さんが教えてくれた。店先で包みを渡しながら、「華ちゃんも受かったんだってね、すごいねえ」と笑いながら言った。詩織は「そうなんですか」と返した。驚いた、というより、そうか、と思った。

 そうか。そういうことになっていくのか。

 その夜、窓を見た。

 左の窓——凛ちゃんの部屋——に灯りがついている。今日は早く帰っているらしい。その隣、少し下の小さな窓——華ちゃんの部屋——にも灯りがある。

 そして右の窓。

 遼の部屋の灯り。いつも通りの場所に、いつも通りの明るさで、ついている。

 詩織は三つの窓を順番に見た。

 左、下、右。

 左と下は、これから変わっていく。すでに変わり始めている。柊家の二人が、外の世界に向かって動いていく。

 右の窓だけが、動かない。

 その夜は、なかなか眠れなかった。

 布団の中で天井を見ていた。右の窓の方を向いて横になっていた。カーテン越しに、灯りの輪郭が薄く見える。

 凛ちゃんが変わっていく。華ちゃんも変わっていく。柊家がどんどん外の世界と繋がっていく。

 遼は変わらない。

 その事実を、詩織は何度も確認した。確認した、というより、心の中で繰り返した。繰り返すたびに、少し落ち着いた。

 変える理由がない、と言っていた。

 そうだ。遼には、変える理由がない。機械が好きで、部屋にいて、今日も右の窓に灯りをつけている。それだけの人だ。それだけの——

 そこで、何かが滑り込んできた。

 もし理由ができたら。

 誰かに見つけられたら。外の世界に引っ張られたら。右の窓の灯りが、ある日突然なくなったら。

 胸の奥に、冷たいものが落ちた。

 落ちた、と思った瞬間、それは消えていた。消えた、のではなく、消された。詩織の中の何かが、素早く、丁寧に、その想像を封じた。封じたのは誰か。詩織自身なのか、詩織の中の別の何かなのか。

 分からなかった。

 ただ、右の窓を見た。

 灯りはまだついている。

 ついている。

 それを確認したとき、胸の奥の何かがわずかに緩んだ。緩む感覚に、詩織は少し止まった。なぜ緩む? 灯りがついているだけなのに、なぜ——

 その問いも、すぐに静かになった。

 静かにしたのは誰か。

 もう、分からない。

 詩織は布団を引き上げた。目を閉じた。

 瞼の裏に、右の四角い光が残った。毎晩残る。小学五年生の頃から、形を変えながら、毎晩ここに残ってきた。

 明日もそこにある。明後日も、その次の日も。

 遼はそこにいる。

 いてくれる——その言葉が浮かんで、詩織はそれをすぐに違う言葉に換えた。「いる」だ。「いてくれる」ではない。遼は、ただいるだけだ。詩織のためにいるわけじゃない。

 でも——いる。

 それだけで十分だ。十分、なはずだ。

 十分、なはずなのに。

 胸の奥の、さらに奥の方で、何かが言っていた。

 ずっとそこにいてほしい。

 いなくならないでほしい。

 外に行かないでほしい。

 変わらないでほしい。

 誰にも見つけられないでほしい。

 その声に、詩織は気づかなかった。

 気づかないようにしていたのか、本当に気づいていなかったのか。

 もう、どちらか分からない。

 右の窓の灯りが消えた。

 遼が眠ったのだと思った。

 詩織もそれに合わせるように目を閉じた。

 合わせた、という自覚は、なかった。

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