第18話「噂」
月曜日の午後。
大学、工学部の廊下。
伊藤教授が、講義用の資料を抱えて歩く。
三年生向けの制御工学の授業で使う予定のプリント。
制御工学の最新事例を紹介する内容だ。
その中に——
参考資料として、柊遼の卒論から抜粋したページが数枚。
優秀な卒論の実例として、学生に見せるつもりだった。
伊藤教授は教室に入り、プリントを配る。
「今日は、最新の制御アルゴリズムについて話す。このプリントに、非常に優れた事例が載っている」
学生たちがプリントを受け取った。
その中の一人、就活を始めたばかりの三年生がページをめくる。
目を見張った。
「……これ、すごい」
講義が終わった後、その学生は友人に見せた。
「これ見てよ。うちの大学の先輩が書いたらしい」
「マジで? どれどれ……うわ、本当にすごいな」
「俺、この前IT企業のインターンで知り合った社員さんに見せてみる」
「いいの?」
「参考資料だし、大丈夫でしょ」
学生は、プリントをスマホで撮影する。
そして、インターンで知り合ったエンジニアに送った。
それが——
すべての始まりだった。
火曜日の午前。
都内、IT企業の会議室。
若手エンジニア三人が、昼休みにスマホを見ながら話す。
「なあ、この資料見た?」
一人が言った。
「どれ?」
「ドローンの障害物回避アルゴリズム最適化。インターン生が大学の授業で配られたって」
「ああ、見た。すごいよな」
もう一人が頷く。
「演算速度四十二パーセント向上って、うちの部署でやってることより上だぞ」
「マジで?」
「マジ。しかも、コア部分を全部独自開発してる」
「学生が……?」
「らしい。卒論からの抜粋だって」
三人は顔を見合わせた。
「名前は?」
「プリントには載ってなかったけど、インターン生が教授に聞いたら柊遼っていう四年生らしい」
「うちの会社、その学生にアプローチしたりしないのかな」
「多分、もうしてるんじゃない? この業界、動き早いから」
同じ日の夕方、大学の教授室。
田中教授の携帯が鳴る。
知り合いのエンジニアからだ。
「田中先生、お久しぶりです」
「ああ、どうした?」
「実は、先生の大学の学生さんの研究が、業界で話題になってるんですが」
「……何?」
「柊遼さんという方の、ドローン制御の研究です。資料が回ってきまして」
田中教授の顔から血の気が引いた。
「どこから……?」
「詳しくは分かりませんが、大学の授業で配られた資料だと聞きました」
電話を切った後、田中教授は急いで伊藤教授の研究室へ向かう。
伊藤教授の研究室。
ノックをして入ると、伊藤教授が書類を整理していた。
「田中先生、どうしました?」
「伊藤先生、月曜の授業で何か配りましたか?」
「ええ、制御工学の参考資料を……あっ」
伊藤教授の顔色が変わる。
「柊くんの卒論、抜粋を入れてしまいました」
「学生に?」
「はい……優秀な事例として。まずかったですか?」
「業界に流出しています」
「え……」
伊藤教授が青ざめた。
「申し訳ありません。完全に私の不注意です」
「いや、悪意があったわけじゃない」
田中教授はため息をつく。
「ただ……もう広がってしまった」
「柊くんには?」
「まだ言っていません」
二人は顔を見合わせた。
取り返しはつかない。
柊遼の研究は、もう業界の知るところとなった。
同じ頃、別のIT企業。
開発部のオープンスペースで、ベテランエンジニア二人が立ち話をする。
「課長、聞きました? 例の回路設計の話」
「ああ、TechVisionが狙ってる学生だろ」
「あれ、本当なんですか?」
「らしいな。CTOが直接日本まで来たって話だ」
「CTOが!?」
若手エンジニアの目が丸くなった。
「普通、そこまでしないですよね」
「しない。よっぽどだ」
課長は腕を組む。
「論文を読んだが、確かにレベルが違う。あれは学部生の仕事じゃない」
「どのくらいすごいんですか?」
「企業の研究所が三年かけてやる内容を、一人で半年でやってる」
「……」
「しかも、独学だそうだ」
「天才ですね」
「天才というより……何かが違うんだろうな」
課長は少し考えた。
「普通のエンジニアは、既存の手法を組み合わせる。でも、あの学生は根本から考え直してる」
「それができるって、すごいですね」
「ああ。だからTechVisionが動いた」
別の会議室。
電子機器メーカーの技術部門。
部長が部下三人に資料を配る。
「これを見てくれ」
部下たちが資料を開いた。
ドローンの制御システムに関する論文だ。
「これは……」
「すごい内容ですね」
「ああ。で、この著者なんだが」
部長が続ける。
「匿名になってるが、業界ではもう特定されてる」
「誰ですか?」
「柊遼という学生だ」
部下たちがメモを取った。
「国立大学の工学部。今年卒業予定」
「うちもアプローチしますか?」
「もう遅い」
部長が首を振る。
「TechVisionが先に動いてる。それも、CTOが直接」
「ロバート・チェンですか?」
「ああ。本気だ」
部下たちは顔を見合わせた。
「でも、まだ確定じゃないですよね?」
「そうだ。だから、念のため情報は追っておけ」
「分かりました」
SNS上でも、話題になり始めていた。
エンジニア向けの掲示板。
スレッド:「謎の天才学生について」
>>1
最近資料が出回ってるドローン制御の学生、誰か情報持ってる?
>>5
柊遼って名前らしい。国立大学の4年生。
>>12
大学の授業で配られた資料が流出したって話。
>>18
マジ? 誰が流したんだ。
>>23
就活中の3年生がインターン先の社員に見せたらしい。
>>34
資料読んだけど、確かにやばい。学部生のレベルじゃない。
>>41
TechVisionのCTOが直接会いに行ったって話、これ関係ある?
>>56
たぶん関係ある。業界じゃもう有名人らしい。
>>67
本人、この流出知ってるのかな。
>>72
知らないんじゃない? 資料には名前載ってなかったし。
>>88
そういう奴が一番やばいんだよな……
業界の噂は、静かに広がっていく。
「謎の天才エンジニア」
「柊遼」
その名前が、少しずつ認知され始めていた。
だが——
当の本人は、何も知らない。
その頃、遼は大学の図書館にいた。
卒論は終わったが、まだ春休みまで時間がある。
新しい技術書を読んでいた。
量子コンピュータに関する最新の論文。
興味深い。
ページをめくる。
スマホが鳴った。
詩織からのLINEだ。
「お疲れ様。今日、時間ある?」
遼は少し考えた。
「午後なら」
「じゃあカフェ行こうよ。久しぶりに」
「分かった」
遼はスマホをしまう。
論文に戻った。
自分が業界で話題になっているなんて、知る由もなかった。
同じ頃、都内のホテル。
ロバートは荷造りをしていた。
明日、アメリカに帰る。
二週間の日本滞在。
長かったようで、短かった。
ロバートはスーツケースを見る。
まだ少し余裕がある。
秋葉原で買ったフィギュアやマンガは、すでに詰めた。
でも——
「One more trip...」(もう一回だけ……)
ロバートが呟く。
柊遼との面談は成功した。
良い話ができた。
この高揚感を、何かで記念したい。
ロバートは決めた。
「Let's go to Akihabara one last time.」(最後にもう一度秋葉原へ行こう)
午後二時。
秋葉原。
ロバートは私服に着替えて、街を歩く。
ジーンズ、パーカー、キャップ、サングラス。
いつもの変装だ。
今日は一人。
ケビンとエミリーは、別の用事がある。
ロバートは、それでいいと思った。
一人で、好きなものを見たい。
誰にも邪魔されずに。
最初に入ったのは、アニメグッズの店。
新作フィギュアのコーナーへ直行する。
目当てのキャラクターがあった。
限定版。
ロバートは迷わず手に取った。
それから、隣の棚へ。
別のシリーズのフィギュア。
これもいい。
手に取る。
次の棚。
また一つ。
気づいたら、両手がいっぱいだった。
「...I need a basket.」(……かごが必要だ)
ロバートは店員に声をかける。
「Excuse me, basket please.」(すみません、かごください)
「はい、どうぞ」
店員がかごを渡してくれた。
ロバートは、手に持っていたフィギュアをかごに入れる。
そして——
また棚を見て回った。
マンガのコーナーへ。
新刊が並んでいる。
お気に入りのシリーズの最新巻。
手に取る。
かごに入れる。
隣のシリーズ。
また手に取った。
気づいたら、かごが重い。
「...Maybe too much.」(……ちょっと多いかな)
ロバートは少し笑う。
でも、やめられない。
どれも欲しい。
全部、記念だ。
柊遼との面談が成功した、記念。
ロバートは、さらに棚を見て回った。
十分後。
かごは、もう限界だった。
フィギュア五箱、マンガ十冊、小物がいくつか。
ロバートは、かごを両手で抱えながらレジに向かう。
重い。
でも、幸せだ。
レジまで、あと少し。
その時——
ロバートの足が、床の段差に引っかかった。
「Whoa—!」
バランスが崩れる。
かごが傾く。
中身が——
ばらばらと、床に散らばった。
フィギュアの箱。
マンガ。
小物。
全部、床の上。
「...Oh no.」(……やばい)
ロバートは膝をついた。
拾わないと。
店員に迷惑をかけてしまう。
慌てて、フィギュアの箱を拾い始める。
その時、隣から手が伸びてきた。
誰かが、マンガを拾っている。
ロバートは顔を上げた。
そこには——
黒髪の、背の高い青年がいた。
二十代前半くらい。
整った顔立ち。
黒いシャツとジーンズ。
シンプルだが、オーラがある。
青年は、黙々とマンガを拾っていた。
「Ah, thank you...」(あ、ありがとう……)
ロバートは英語で言った。
青年は少し笑う。
「No problem.」(大丈夫ですよ)
流暢な英語だった。
二人で協力して、商品を拾う。
フィギュアの箱。
マンガ。
小物。
全部、かごに戻した。
「Thank you so much. I'm sorry for the trouble.」(本当にありがとう。迷惑かけてすみません)
「It's okay. Happens to everyone.」(大丈夫です。誰にでもあることですから)
青年は穏やかに笑った。
ロバートは、その態度に感心する。
親切で、落ち着いていて、自然体。
嫌な顔一つしない。
「Are you a tourist?」(観光客の方ですか?)
青年が聞いた。
「Ah, kind of. Business trip, actually.」(ああ、まあ。実は出張です)
「I see. Enjoy Akihabara.」(そうですか。秋葉原を楽しんでください)
「Thank you. And... you have good taste.」(ありがとう。それと……あなたは良い趣味をしてますね)
ロバートは、青年が持っている袋を見た。
アニメグッズの店の袋だ。
青年は少し照れたように笑う。
「You too.」(あなたもですね)
二人は、少し笑い合った。
「Well, take care.」(では、お気をつけて)
青年はそう言って、店を出て行く。
ロバートは、その背中を見送った。
「...Nice guy.」(……いい人だな)
小さく呟く。
そして、ふと思った。
あの青年、どこかで見た気がする。
でも、思い出せない。
まあ、いいか。
ロバートはレジに向かった。
外に出た青年——黒瀬綺羅は、少し笑っていた。
「外国人にも熱狂的なオタクがいるのね。仕事で日本に来て買い漁るのはよっぽどだわ」
黒瀬はサングラスをかけ直す。
今日は変装して、一人で秋葉原に来ていた。
新作のBL同人誌を買うために。
仕事の合間の、貴重な自由時間。
誰にも見つからずに、好きなものを買えた。
満足だ。
黒瀬は袋を持って、駅へ向かう。
気分が良かった。
世界中に、同じ趣味の人間がいる。
それが、なんだか嬉しい。
その夜、ホテル。
ロバートは、今日買ったものを並べていた。
フィギュア五箱。
マンガ十冊。
小物。
全部、素晴らしい。
ロバートは満足した。
日本での最後の買い物。
完璧だった。
ロバートはスマホを取り出し、本社へメールを書く。
Returning tomorrow.
Meeting with Hiiragi went well.
He's considering our offer.
Will follow up after he graduates.
P.S. Japan was amazing.
R.
(明日帰国します。
柊との面談はうまくいきました。
彼は我々のオファーを検討しています。
卒業後にフォローアップします。
追伸:日本は素晴らしかった。
R.)
送信。
ロバートは窓の外を見た。
東京の夜景。
最後の夜。
明日、アメリカへ帰る。
でも——
また来るだろう。
柊遼がどんな選択をするにしても。
この街には、また来たい。
ロバートは静かに、そう思った。
翌朝、水曜日。
大学の廊下。
遼は実験室に向かっていた。
春休みまで、あと数日。
それまで、少し実験を続けるつもりだ。
廊下で、田中教授とすれ違う。
「柊くん、おはよう」
「おはようございます」
「少し、時間あるか?」
「はい」
二人は、教授室に入った。
田中教授は、椅子に座る。
遼も座った。
「柊くん、学会の件なんだが」
「……はい」
「やはり、出してほしい」
田中教授は真剣な顔で言った。
「君の研究は、評価されるべきだ」
「……恥ずかしいです」
「分かってる。でも、これは君だけの問題じゃない」
田中教授が前のめりになる。
「君の研究を見た他の教授たち、みんな同じことを言ってる。あれを埋もれさせるのは、もったいないと」
「……」
「企業も、君を狙ってる。TechVisionだけじゃない。他の企業も動き始めてる」
遼は少し驚いた顔をした。
「他の企業も……?」
「ああ。君の論文、業界で話題になってる」
「……知りませんでした」
「そうだろうな。君はそういうことに興味がないから」
田中教授は少し笑う。
「でも、現実として、君はもう注目されてる。『謎の天才エンジニア』として」
「天才……」
遼は首を傾げた。
「普通だと思うんですが」
「普通じゃない」
田中教授はきっぱり言った。
「何度も言うが、君は特別だ」
遼は黙っていた。
田中教授は、少し間を置く。
「学会のこと、もう一度考えてくれないか」
「……考えます」
「ありがとう」
田中教授は静かに頷いた。
教授室を出た後、遼は廊下を歩きながら考えた。
学会。
人前で発表する。
それは、本当に嫌だ。
でも——
教授たちが、そこまで言うなら。
少しは、考えた方がいいのかもしれない。
遼は窓の外を見る。
春の空。
もうすぐ、新しい季節が来る。
自分の未来も、どこかで変わるのかもしれない。
遼は、そんなことをぼんやりと考えながら、実験室へ向かった。
その頃、羽田空港。
ロバートは搭乗ゲートに向かっていた。
スーツ姿。
ビジネスマンの顔。
でも、スーツケースの中には——
フィギュアとマンガが詰まっている。
ロバートは少し笑った。
日本、最高だった。
柊遼にも会えた。
秋葉原も楽しんだ。
完璧な出張。
搭乗アナウンスが流れた。
ロバートは、ゲートをくぐる。
また来よう。
必ず。
ロバートは、そう心に誓った。




