第63.5話「MINA、公開」
映画「MINA:復讐の悲しき暗殺者」の公開初日は、よく晴れた土曜日だった。
全国の映画館で、朝の回から、行列ができた。行列、というのは、映画館の人にとっては、月に一回、見られるかどうかの光景だった。今月の柊華主演映画は、それが、毎時間、起きていた。
SNSでは、ハッシュタグが、二つ、流れていた。
ひとつは「#MINA公開」、もうひとつは「#柊華のアクション」だった。後者の方が、二倍、勢いがあった。アクションのシーンを切り取った短い動画が、誰かに撮られ、投稿された。撮影禁止の映画館で誰がどう撮ったのかは、誰も追及しなかった。追及すると、業界の悪い側面が、見えてしまう。
投稿された動画には、コメントが、ついていた。
「柊華、刃物の振り方、本物っぽい」
「お姉ちゃんが女優界の女神なら、妹は女優界の戦士だ」
「家系図、見せて」
最後のコメントが、いちばん、いいねが、ついていた。
柊華は、その日、初日舞台挨拶のため、新宿の映画館に、いた。
舞台挨拶というのは、業界用語で、ステージで、客に挨拶する仕事だった。挨拶だけなら、五分で終わる。でも、舞台挨拶には、必ず、記者の質問がついてくる。質問は、五分では終わらない。
舞台の袖で、華は水城蒼真と並んで、立っていた。
並んで立っていたが、お互い、ほとんど何も話さなかった。話さないのは、緊張ではない。緊張ではないが、なんとなく、話さなかった。最近、二人のあいだで、こういう「話さない」が、増えていた。話さないあいだ、二人とも、お互いのことを、たぶん考えていた。考えていたが、話さなかった。
「お時間です」
ステージマネージャーが声をかけた。
「はい」
華が答えた。
蒼真が軽く頷いた。
二人で、ステージに出た。
ステージは明るかった。
客席は暗かった。
暗いところに、たくさんの人がいた。たくさんの人がいっせいに拍手をした。拍手の音が、ステージの華の耳に届いた。届いたが、華はその音を、いつも通りに受け取った。受け取り方がいつも通り、というのが、華の女優としての五年分の蓄積だった。
司会者が紹介を始めた。
紹介のあいだ、華はステージの上で、自分の顔を女優の顔に保った。隣の蒼真も、自分の顔を誠実な俳優の顔に保っていた。二人とも、自分の顔をちゃんと保っていた。保っていたが、ステージの上で、お互いの顔を見ようとはしなかった。
見たら、何かがこぼれる気がした。
こぼれる前に、ステージの時間が進んだ。
質疑応答に入った。
司会者が客席を見渡した。
「ご質問のある方」
手がいくつか挙がった。
司会者が一人を指した。指された人が立ち上がった。記者バッジをつけた、中年の男性だった。
「水城さんに、伺います」
「はい」
「リュウが、終盤で、MINAに対して、手を抜く場面がありました」
「はい」
「あれは、リュウが、なぜ、手を抜いたのか、水城さんは、どう、解釈されましたか」
蒼真が少し止まった。
止まったのを、ステージの華は感じた。蒼真が止まったとき、隣の華の左半身に、空気の濃度がわずかに変わる。それが最近、華に分かるようになっていた。本人にも分からない種類の感知だった。
止まったあと、蒼真はこう答えた。
「……選んだ、ということだと思います」
「選んだ」
「リュウは、勝つことよりも、MINAを、選んだ」
「なるほど」
「具体的に、何を、選んだのかは、台本にも、書いていません」
「はい」
「でも、選んだのは、たしかです」
「はい」
「それが、どんな選択だったとしても、リュウは、選んだ」
司会者が、頷いた。
観客席で、誰かが小さく息を吐いた。何人かが頷いた。
華はステージの上で、その答えを聞いていた。
聞いていた華の左半身に、ふっと温度が上がった。温度が上がった理由を、華は女優の顔の下で整理した。整理しきれないまま、整理する時間が終わった。
司会者が次の質問者を指した。
舞台挨拶が終わった。
二人はステージから、袖にはけた。
はけた瞬間、華の女優の顔が、ふっと解けた。解けた顔のまま、華は楽屋に向かった。蒼真も別の楽屋に向かった。
別の楽屋に向かう途中、廊下で二人はすれ違った。
すれ違いざま、蒼真は何も言わなかった。
華も何も言わなかった。
言わなかったが、蒼真の声の質を、華はいま、知っていた。
知っているのはたぶん、客席の千五百人の中で、自分一人だった。
千五百人の中で、自分だけが知っている、というのは、どういう意味だろう。
考えながら、華は自分の楽屋に戻った。
奈々の楽屋は、蒼真の楽屋の二つ隣だった。
宮本奈々は、自分の楽屋でメイクを落としていた。落としながら、廊下の足音を数えていた。蒼真の足音が、自分の楽屋の前を通り過ぎないことを、奈々は知っていた。
数えた通り、蒼真の足音が、奈々の楽屋の前で止まった。
ノックがあった。
「どうぞ」
ドアが開いた。
「奈々さん」
「お疲れ」
蒼真が入ってきた。
奈々はメイクを落とす手を止めずに答えた。
「ちょっといいですか」
「いいよ」
蒼真がソファに座った。
奈々は鏡の中の蒼真を見た。蒼真は、舞台挨拶の顔をまだ半分くらい引きずっていた。引きずっているのは、本人も気づいていた。気づいているが、外し方が分からなかった。
「奈々さん」
「うん」
「俺、さっきの答え、合ってましたかね」
「合ってた」
「合ってましたか」
「合ってたよ」
「……そうですか」
蒼真はしばらく、ソファに座っていた。
座っていたが、何も言わなかった。
奈々はメイク落としの綿を、ゴミ箱に捨てた。捨ててから、振り向いて蒼真を見た。
「蒼真くん」
「はい」
「そろそろ言えば」
蒼真の肩が、ピクッと上がった。
「あ、そう、来ました?」
「来た」
「奈々さん、いつもながら、唐突」
「唐突じゃない。ずっと言うタイミング待ってた」
「待ってたんですか」
「待ってた」
「……」
「で、どうなの」
「まだ、撮影終わったばかりで」
「関係ない」
「次の仕事が始まったら」
「次の仕事が始まったら、もっと言えなくなるよ」
「そうですか」
「タイミング待ってたら、一生言えない」
蒼真は、しばらく、何も、言わなかった。
言わないあいだ、奈々はソファの隣に座った。座って、自分のスマホを開いて、何かを見るふりをした。見るふりをしたのは、蒼真と目を合わせると、蒼真がもっとしんどくなる、と知っていたからだった。
「奈々さん」
「うん」
「タイミングって、なんですか」
「ない」
「ない」
「タイミングなんか、ないんだよ」
「ない、ですか」
「『今だ』って思った日は、ない。だいたい、間違える」
「奈々さんは、いつ、言ったんですか」
「私は、言わなかった」
「言わなかった」
「だから、人に、言えって言うの。自分が言えなかったから」
蒼真は、奈々を、見た。
奈々はスマホを見ていた。スマホの画面は、ホーム画面だった。ホーム画面のアイコンを、奈々は特に意味なく見ていた。意味なく見ているのを、蒼真は気づいた。気づいたが、何も言わなかった。
「奈々さん」
「うん」
「ありがとうございます」
「うん」
「考えてみます」
「考えるな」
「は?」
「考えると、考え終わるまで、動けない」
「動かないと、いけないんですか」
「動かないと、何も起きない」
「……」
「動いたあと、考えればいい」
蒼真はしばらく考えていた。
考えていたが、考えていることが、奈々の助言と矛盾していることに、自分で気づいた。気づいたあと、ふっと笑った。
「奈々さん、矛盾してます」
「分かってる」
「分かってるんですか」
「人生は、たいてい、矛盾しているから」
「はい」
「それでいいんだよ」
蒼真は立ち上がった。
「お邪魔しました」
「いいよ。あと、これ、お節介だから、忘れて」
「忘れません」
「忘れろ」
「はい」
蒼真は楽屋を出ていった。
奈々はドアが閉まったあと、ふーっと息を吐いた。
吐いた息が、メイクを落としかけの自分の顔に当たった。当たって、戻ってきた息が、軽く苦かった。苦いのは、自分が若手俳優にお節介を焼いている、というみっともなさを、自覚しているからだった。
二十歳の女優が、自分と同い年の俳優の恋愛に口を出す。あんまり、かっこいい絵では、ない。かっこよくないが、奈々はもう、それはいい、と決めていた。決めたのはたぶん、自分が何も言わなかったときの自分を、思い出したからだった。
奈々はメイクを落とす作業に戻った。
戻りながら、自分の手帳の二冊目を、ちらっと思い出した。今月、合計時間がまた伸びていた。伸びているのを、奈々は最近、誇りに思っていた。誇りに思っているのを、誰にも言わなかった。言うと、社会的に終わるからだった。
その夜。柊家のリビング。
柊凛が帰宅して、コートをソファに置いた。
「ただいま」
「おかえり」
柊遼がノートパソコンから目を離さずに答えた。華は、自分の部屋にいた。
凛は、いったんソファに座った。座って、しばらく息を整えてから、立ち上がった。立ち上がって、廊下を歩いて、華の部屋のドアを、軽くノックした。
「華」
「うん」
「ちょっといい?」
「うん」
ドアが開いた。
「映画、見てきたよ」
「あ、見たの」
華が、ドアの内側から、出てきた。二人でリビングに戻った。
「見た」
「どうだった?」
「すごかった」
「ほんと?」
「すごかった。なんか、怖かった」
「怖かった?」
「うん、怖かった」
華がしばらく考えた。
「私、怖かった?」
「怖かった」
「演技として、怖かった? それとも」
「妹として、怖かった」
「妹として」
「刃物を持って走る妹が、怖くない姉は、いない」
「あ、そういう種類の怖さ」
「そう」
「なるほど」
「途中で、一回、画面を、薄目で見た」
「薄目で?」
「うん。妹が刃物で人を斬るシーンを、まじまじと見るのは、姉として、無理だった」
「そうか」
「すごかったよ」
「ありがとう」
「すごかったし、怖かった」
「うん」
遼が画面から目を離さずに言った。
「俺、見てないが」
ソファから、凛が勢いよく振り返った。
「遼!!」
「ん」
「遼、見ろよ!」
「あとで」
「あとでっていつ」
「未定」
「未定じゃないでしょ!」
「俺、映画館、混むの嫌い」
「ネット配信されたら見るって意味?」
「うん」
「華の主演映画なんですけど!」
「家族なので」
「家族だからこそ見ろよ!」
「家族だから、後で見ても気を悪くしないだろう、と思ってる」
「思ってるんじゃないよ!」
華がソファに、ばさっと座った。座って笑った。
笑った華の顔は、舞台挨拶の顔ではなかった。今日、舞台挨拶の顔を最後に解いたのが、いまだった。家族の前で、ようやく解けた。
「お姉ちゃん」
「うん」
「ありがとう」
「何が」
「見てくれて」
「当たり前でしょ」
「当たり前じゃないよ」
「当たり前だよ」
「うん」
「次、遼を、ネット配信まで、待たせるか、それとも、家まで配信を呼ぶか、考えよう」
「家まで配信を呼ぶって、なに」
「なんでもない」
三人で、しばらくリビングにいた。
遼はノートパソコンに戻った。凛と華はソファに座って、テレビをつけたが、誰も見ていなかった。リビングは、にぎやかだったような、静かだったような、家族の時間だった。
夜、自分の部屋に戻った華のスマホが鳴った。
画面に、蒼真からのLINEが表示された。
「お疲れさまでした。改めて、よかったです」
華は画面をしばらく見ていた。
しばらく、というのが、何分かは、自分でも計っていなかった。計らなかったが、たぶん長かった。
長く見ていた理由は、文章の中の「改めて」という三文字だった。
「改めて」は、「最初は別の評価があって、それが今、変わった」という意味の言葉だった。普通の文脈では、誉め言葉としてよく使われる。改めて、すごい。改めて、いい。日常会話の中の、軽い表現だった。
軽い表現のはずだった。
だが、今夜の華には軽くなかった。
「改めて」の三文字を、華はしばらく見ていた。
見ていたあと、ようやく返信を書いた。
「ありがとうございました」
返信は短かった。短いのが、いまの華の精一杯だった。長く書こうとすると、書けなくなる気がした。書けなくなる前に、送った。
送ってから、もう一度蒼真のメッセージを見た。
「改めて」の三文字は、まだそこにあった。
あったまま、華はスマホをベッドの脇に置いた。
置いてから、天井を見た。
天井は、まだ白かった。




