表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第三部「守る人になりそうです」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

215/217

第63話「華、言う」

 (ひいらぎ)(はな)は、その日、化粧台の前で、すでに十五分、止まっていた。


 化粧は終わっていた。衣装ももう着替え終わっていた。試写会の登壇まで、あと三十分。三十分のうち、十五分を、華は椅子に座って、鏡の中の自分を、見ながら過ごしていた。


 鏡の中の自分は、今日、いつもの自分だった。


 いつもの自分のはずなのに、なんとなく、いつもの自分ではない感じがした。どこが違うかは、言えない。化粧の濃さも、衣装の色も、髪型も、いつもと同じだった。同じなのに、違って見える。違って見えているのは、たぶん、自分の側で、何かがずれているからだった。


 ずれている、という感覚を、華は最近、たびたび感じていた。


 最近、というのは、蒼真と台本相談の名で、二時間プリンの話をしたあたりからだった。あの日以降、ずれは、戻らない。戻らないどころか、少しずつ、進んでいる気がする。


 いや、こういう言い方は、自分でも、よく分からない。


 ただ、ずれている。


   


「華さん」


 ノックがあった。


「はい」


 マネージャーがドアを開けた。


「あと十五分です」


「分かりました」


「蒼真くんも、もう控え室に入ってます」


「あ、はい」


 マネージャーは、それで出ていった。


 華はもう一度、鏡の中の自分を見た。


 蒼真がもう隣の控え室にいる、と知った瞬間、鏡の中の自分の表情が、わずかに動いた。動いた、というのが、自分でも認識できた。これも、最近、増えていた。自分の表情が、自分でも分からないところで、勝手に動く現象。


 女優として、これは、わりとまずい。


 まずいが、どうしようもなかった。


   


 試写会の登壇は無事に終わった。


 無事、というのは、華が登壇中に変な顔をしなかった、という意味だった。蒼真と並んで挨拶をして、監督と並んで挨拶をして、客席に手を振って、それで、終わった。十五分くらいの登壇のあいだ、華は自分の顔を、ちゃんと女優の顔に保った。保てたのが、自分でもちょっと誇らしかった。


 誇らしかったが、登壇が終わって楽屋に戻った瞬間、保っていた顔が、ふっと解けた。


 解けたというのは、女優の顔を外した、という意味だった。


 外した素の顔が、鏡に映った。


 映った素の顔は、ほんの少しだけ、いつもより、赤かった。


   


「華さん」


「はい」


 マネージャーが入ってきた。


「お疲れ様。今日はもう上がりです」


「お疲れ様でした」


「車、十分後に来ます」


「分かりました」


 マネージャーが出ていった。


 楽屋に、華は一人で残った。


 残ったが、向かいの席に、もう一人いた。


 宮本(みやもと)奈々(なな)だった。


 奈々は今日、共演者の枠で登壇に同席していた。同席はしたが、ほとんど何も話さなかった。脇から、華と蒼真の登壇を見ていただけだった。


 奈々はいまも、ソファに座っていた。座って、台本をめくっていた。台本はすでに撮影が終わっている、MINAの台本だった。なぜ撮影が終わった台本を、楽屋でめくっているのかは、奈々にしかわからなかった。


「奈々さん」


「はい」


「お疲れ様でした」


「お疲れ様」


 奈々は目を上げずに答えた。


 奈々は、目を上げずに答えるとき、本気で台本を読んでいるのか、読んでいるふりをしているのかが、誰にも分からない。今日のは、たぶん後者だった。


 華は化粧台の前に座った。


 座って、鏡の中の自分をもう一度見た。


 鏡の中の自分は、まだほんの少し赤かった。


   


 華はしばらく鏡を見ていた。


 見ていたが、見ているうちに、自分の中の何かが、ふわっとほどけた。


 ほどけた瞬間、口から声が出た。


「好き……かもしれない」


 声は、小さかった。


 とても小さかった。


 でも、出た。


 出た瞬間、華は自分の言葉を、自分で聞いた。聞いたあと、何かを言ったことを、初めて自覚した。


 自覚した時点で、もう消せない。


 消せないが、消したかった。


 消したいが、消せない、ということが分かったので、しばらく何もしないことにした。何もしないあいだ、華は化粧台の鏡を、ぼんやり見ていた。鏡の中の自分の顔は、さっきより少し赤くなっていた。


 奈々の方を見られなかった。


 見られなかったというより、見たくなかった。聞こえていたら、終わる。聞こえていなかったら、何も起きない。両方の可能性のあいだに、しばらく、留まっていたかった。


 しばらく留まっていたが、華は覚悟を決めて、奈々の方を見た。


 奈々は台本をめくっていた。


 めくり方が、いつもと同じだった。


 いつもと同じ、というのが、こういう状況では最大の慈悲だった。


   


 奈々は聞こえていた。


 聞こえていたが、台本をめくり続けた。


 めくり続けるというのは、自分の手を、自分でコントロールしているという意味だった。コントロールしないと、たぶん、奈々は、立ち上がって、華に、何か、言ってしまう。「いいじゃん」とか、「言えば?」とか、そういう、よけいな、お節介を。


 お節介は、あとでできる。


 あとでできるなら、いましなくていい。


 奈々は二十年、業界にいる。二十年いると、自分の言葉を、何秒、いつ、誰に出すか、というタイミングが、少しずつ分かるようになる。少しずつなので、まだ間違えることもある。間違えるが、今日は間違えない自信があった。


 今日は聞こえなかったことにする。


 それがたぶん、いちばんいい。


 奈々は台本をもう一枚めくった。


 めくりながら、自分の手帳の二冊目のことを、ちょっと思い出した。柊華と水城蒼真の台本外会話時間を記録している、業務外の手帳。手帳の最終ページには、今月分の合計時間が書き込まれていた。合計時間は、今月、すでに先月の合計時間を超えていた。


 超えているのを、ふたりは知らない。


 ふたりが知らないままでいい。


 知らないまま進んでいるのが、いちばん進むのに、ちょうどいい速度だった。


 奈々はふっと笑った。


 笑ったのを、台本の陰で隠した。


   


 帰りの車の中で、華は窓の外をずっと見ていた。


 車はしばらく、東京の道を走った。窓の外を、信号がいくつか流れていった。流れていく信号を、華は数えなかった。数えなかったというのは、数える余裕がなかったという意味だった。


 数える余裕がなかったのは、自分の口から出た声を、まだ消化していなかったからだった。


「好き……かもしれない」


 あの声は、どこから来たんだろう。


 自分の口から出たのは、間違いない。間違いないが、出る予定は、なかった。出る予定がなかったものが、出た。出てしまったものは、もう戻らない。戻らないが、出した本人が、出したことを、いま整理しないといけない。


 華は考えた。


 考えたが、整理は、進まなかった。整理が進まないので、もう一段、考えた。考えたら、考えるほど、整理から離れた。離れたあと、華は、考えるのをやめることにした。


 やめたら、楽になった。


 楽になったが、楽になっただけで、整理はついていなかった。


 車は品川に向かっていた。


   


 帰宅したのは、夜の九時を少し過ぎた頃だった。


 玄関のドアを開けると、リビングから、(ひいらぎ)(りょう)のキーボードを叩く音がした。(ひいらぎ)(りん)は、自分の部屋のようだった。リビングは、遼一人だった。


「ただいま」


「おかえり」


 遼が画面から目を離さずに言った。


 華はリビングに入って、ソファにばさっと座った。座った勢いが、いつもより強かった。強かったので、ソファのクッションが軽く跳ねた。


 遼がこちらを見た。


「華」


「うん」


「どうした」


「なんでもない」


「そうか」


 遼は画面に視線を戻した。


 戻したが、キーボードを叩く手が、一瞬、止まった。家族だけが感知できる種類の、一瞬だった。


 華はそれに気づいた。


 気づいたが、気づいたことを言わなかった。


 遼も、止まったことを言わなかった。


 二人は、それ以上、何も、言わなかった。


 言わなかったが、リビングの空気の中で、何かが伝わっていた気がした。気がしただけかもしれない。気がしただけでも、よかった。


   


 華は自分の部屋に上がった。


 部屋のドアを閉めて、灯りをつけた。


 つけた灯りの下で、ベッドに座った。座ってから、自分のスマホをしばらく見た。スマホには、蒼真からのLINEは来ていなかった。来ていないのが、なぜか、ちょっとほっとした。来ていたら、たぶん、いまは開けなかった。


 華はベッドの上に、仰向けになった。


 天井を見た。


 天井は白かった。柊家の天井は、たいてい白かった。白いのに、今日の天井は、いつもより近く見えた。


 華は天井に向かって、もう一度言ってみた。


「……好き」


 今度は、「かもしれない」をつけなかった。


 つけなかったが、声は、まだ小さかった。


 でも、さっきよりは、ほんの少しだけ確かだった。


 ほんの少しだけ確かになった気持ちが、天井に向かって上がっていった。上がっていって、消えた。


 消えたが、確かに出た。


 出たことを、華はしばらく考えていた。


 考えていたら、ノックがあった。


「華」


 遼の声だった。


「うん」


「……」


「なに?」


「いや、いい」


 遼の足音が、廊下を戻っていった。


 華はベッドの上で、ふっと笑った。


 笑った理由は、自分でも、よく分からなかった。たぶん、遼が用事もないのにノックしに来たのが、いつもの遼ではなかった。いつもの遼は、用事のない部屋に来ない。今日は、来た。


 ありがたかったので、笑った。


 笑ったあと、華は、また、天井を見た。


 天井は、まだ白かった。


 白い天井の下で、華は、もう一度だけ言ってみた。


「……好き」


 三度目は、誰にも聞こえなかった。


 誰にも聞こえなかったが、自分には聞こえた。


 自分には聞こえた、というのが、いまの華にとっては、ちょうどいい音量だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ