第63話「華、言う」
柊華は、その日、化粧台の前で、すでに十五分、止まっていた。
化粧は終わっていた。衣装ももう着替え終わっていた。試写会の登壇まで、あと三十分。三十分のうち、十五分を、華は椅子に座って、鏡の中の自分を、見ながら過ごしていた。
鏡の中の自分は、今日、いつもの自分だった。
いつもの自分のはずなのに、なんとなく、いつもの自分ではない感じがした。どこが違うかは、言えない。化粧の濃さも、衣装の色も、髪型も、いつもと同じだった。同じなのに、違って見える。違って見えているのは、たぶん、自分の側で、何かがずれているからだった。
ずれている、という感覚を、華は最近、たびたび感じていた。
最近、というのは、蒼真と台本相談の名で、二時間プリンの話をしたあたりからだった。あの日以降、ずれは、戻らない。戻らないどころか、少しずつ、進んでいる気がする。
いや、こういう言い方は、自分でも、よく分からない。
ただ、ずれている。
「華さん」
ノックがあった。
「はい」
マネージャーがドアを開けた。
「あと十五分です」
「分かりました」
「蒼真くんも、もう控え室に入ってます」
「あ、はい」
マネージャーは、それで出ていった。
華はもう一度、鏡の中の自分を見た。
蒼真がもう隣の控え室にいる、と知った瞬間、鏡の中の自分の表情が、わずかに動いた。動いた、というのが、自分でも認識できた。これも、最近、増えていた。自分の表情が、自分でも分からないところで、勝手に動く現象。
女優として、これは、わりとまずい。
まずいが、どうしようもなかった。
試写会の登壇は無事に終わった。
無事、というのは、華が登壇中に変な顔をしなかった、という意味だった。蒼真と並んで挨拶をして、監督と並んで挨拶をして、客席に手を振って、それで、終わった。十五分くらいの登壇のあいだ、華は自分の顔を、ちゃんと女優の顔に保った。保てたのが、自分でもちょっと誇らしかった。
誇らしかったが、登壇が終わって楽屋に戻った瞬間、保っていた顔が、ふっと解けた。
解けたというのは、女優の顔を外した、という意味だった。
外した素の顔が、鏡に映った。
映った素の顔は、ほんの少しだけ、いつもより、赤かった。
「華さん」
「はい」
マネージャーが入ってきた。
「お疲れ様。今日はもう上がりです」
「お疲れ様でした」
「車、十分後に来ます」
「分かりました」
マネージャーが出ていった。
楽屋に、華は一人で残った。
残ったが、向かいの席に、もう一人いた。
宮本奈々だった。
奈々は今日、共演者の枠で登壇に同席していた。同席はしたが、ほとんど何も話さなかった。脇から、華と蒼真の登壇を見ていただけだった。
奈々はいまも、ソファに座っていた。座って、台本をめくっていた。台本はすでに撮影が終わっている、MINAの台本だった。なぜ撮影が終わった台本を、楽屋でめくっているのかは、奈々にしかわからなかった。
「奈々さん」
「はい」
「お疲れ様でした」
「お疲れ様」
奈々は目を上げずに答えた。
奈々は、目を上げずに答えるとき、本気で台本を読んでいるのか、読んでいるふりをしているのかが、誰にも分からない。今日のは、たぶん後者だった。
華は化粧台の前に座った。
座って、鏡の中の自分をもう一度見た。
鏡の中の自分は、まだほんの少し赤かった。
華はしばらく鏡を見ていた。
見ていたが、見ているうちに、自分の中の何かが、ふわっとほどけた。
ほどけた瞬間、口から声が出た。
「好き……かもしれない」
声は、小さかった。
とても小さかった。
でも、出た。
出た瞬間、華は自分の言葉を、自分で聞いた。聞いたあと、何かを言ったことを、初めて自覚した。
自覚した時点で、もう消せない。
消せないが、消したかった。
消したいが、消せない、ということが分かったので、しばらく何もしないことにした。何もしないあいだ、華は化粧台の鏡を、ぼんやり見ていた。鏡の中の自分の顔は、さっきより少し赤くなっていた。
奈々の方を見られなかった。
見られなかったというより、見たくなかった。聞こえていたら、終わる。聞こえていなかったら、何も起きない。両方の可能性のあいだに、しばらく、留まっていたかった。
しばらく留まっていたが、華は覚悟を決めて、奈々の方を見た。
奈々は台本をめくっていた。
めくり方が、いつもと同じだった。
いつもと同じ、というのが、こういう状況では最大の慈悲だった。
奈々は聞こえていた。
聞こえていたが、台本をめくり続けた。
めくり続けるというのは、自分の手を、自分でコントロールしているという意味だった。コントロールしないと、たぶん、奈々は、立ち上がって、華に、何か、言ってしまう。「いいじゃん」とか、「言えば?」とか、そういう、よけいな、お節介を。
お節介は、あとでできる。
あとでできるなら、いましなくていい。
奈々は二十年、業界にいる。二十年いると、自分の言葉を、何秒、いつ、誰に出すか、というタイミングが、少しずつ分かるようになる。少しずつなので、まだ間違えることもある。間違えるが、今日は間違えない自信があった。
今日は聞こえなかったことにする。
それがたぶん、いちばんいい。
奈々は台本をもう一枚めくった。
めくりながら、自分の手帳の二冊目のことを、ちょっと思い出した。柊華と水城蒼真の台本外会話時間を記録している、業務外の手帳。手帳の最終ページには、今月分の合計時間が書き込まれていた。合計時間は、今月、すでに先月の合計時間を超えていた。
超えているのを、ふたりは知らない。
ふたりが知らないままでいい。
知らないまま進んでいるのが、いちばん進むのに、ちょうどいい速度だった。
奈々はふっと笑った。
笑ったのを、台本の陰で隠した。
帰りの車の中で、華は窓の外をずっと見ていた。
車はしばらく、東京の道を走った。窓の外を、信号がいくつか流れていった。流れていく信号を、華は数えなかった。数えなかったというのは、数える余裕がなかったという意味だった。
数える余裕がなかったのは、自分の口から出た声を、まだ消化していなかったからだった。
「好き……かもしれない」
あの声は、どこから来たんだろう。
自分の口から出たのは、間違いない。間違いないが、出る予定は、なかった。出る予定がなかったものが、出た。出てしまったものは、もう戻らない。戻らないが、出した本人が、出したことを、いま整理しないといけない。
華は考えた。
考えたが、整理は、進まなかった。整理が進まないので、もう一段、考えた。考えたら、考えるほど、整理から離れた。離れたあと、華は、考えるのをやめることにした。
やめたら、楽になった。
楽になったが、楽になっただけで、整理はついていなかった。
車は品川に向かっていた。
帰宅したのは、夜の九時を少し過ぎた頃だった。
玄関のドアを開けると、リビングから、柊遼のキーボードを叩く音がした。柊凛は、自分の部屋のようだった。リビングは、遼一人だった。
「ただいま」
「おかえり」
遼が画面から目を離さずに言った。
華はリビングに入って、ソファにばさっと座った。座った勢いが、いつもより強かった。強かったので、ソファのクッションが軽く跳ねた。
遼がこちらを見た。
「華」
「うん」
「どうした」
「なんでもない」
「そうか」
遼は画面に視線を戻した。
戻したが、キーボードを叩く手が、一瞬、止まった。家族だけが感知できる種類の、一瞬だった。
華はそれに気づいた。
気づいたが、気づいたことを言わなかった。
遼も、止まったことを言わなかった。
二人は、それ以上、何も、言わなかった。
言わなかったが、リビングの空気の中で、何かが伝わっていた気がした。気がしただけかもしれない。気がしただけでも、よかった。
華は自分の部屋に上がった。
部屋のドアを閉めて、灯りをつけた。
つけた灯りの下で、ベッドに座った。座ってから、自分のスマホをしばらく見た。スマホには、蒼真からのLINEは来ていなかった。来ていないのが、なぜか、ちょっとほっとした。来ていたら、たぶん、いまは開けなかった。
華はベッドの上に、仰向けになった。
天井を見た。
天井は白かった。柊家の天井は、たいてい白かった。白いのに、今日の天井は、いつもより近く見えた。
華は天井に向かって、もう一度言ってみた。
「……好き」
今度は、「かもしれない」をつけなかった。
つけなかったが、声は、まだ小さかった。
でも、さっきよりは、ほんの少しだけ確かだった。
ほんの少しだけ確かになった気持ちが、天井に向かって上がっていった。上がっていって、消えた。
消えたが、確かに出た。
出たことを、華はしばらく考えていた。
考えていたら、ノックがあった。
「華」
遼の声だった。
「うん」
「……」
「なに?」
「いや、いい」
遼の足音が、廊下を戻っていった。
華はベッドの上で、ふっと笑った。
笑った理由は、自分でも、よく分からなかった。たぶん、遼が用事もないのにノックしに来たのが、いつもの遼ではなかった。いつもの遼は、用事のない部屋に来ない。今日は、来た。
ありがたかったので、笑った。
笑ったあと、華は、また、天井を見た。
天井は、まだ白かった。
白い天井の下で、華は、もう一度だけ言ってみた。
「……好き」
三度目は、誰にも聞こえなかった。
誰にも聞こえなかったが、自分には聞こえた。
自分には聞こえた、というのが、いまの華にとっては、ちょうどいい音量だった。




