第62話「凛の代表作」
神崎の作品の最終撮影日は、雨だった。
ロケ地は、海辺の小さな町の、廃業した美術館。神崎は美術館を借りて、内装を撮影用に変えて、二ヶ月かけて撮ってきた。今日が、最後の一日だった。
柊凛は、衣装に着替えて、エントランスで出番を待っていた。
最後のシーンは、葵——凛が演じてきた女——が、誰もいない美術館のロビーで、ようやく一人、声を出して泣く場面だった。台詞はない。泣くだけの場面。神崎の脚本のト書きには「ここで、葵は、初めて、自分のために泣く」とだけ書いてある。
凛はエントランスのソファに座って、ト書きを、もう一度、読んだ。
二ヶ月、葵を演じてきた。二ヶ月のあいだ、葵は、ずっと、誰のためにも泣かなかった。最後に、自分のために、泣く。それが、神崎の用意した着地だった。着地は分かっている。分かっているが、自分の中の何かが、ちゃんと、その着地に行くかは、別の話だった。
神崎が雨の中を歩いてきた。
「柊さん」
「はい」
「今日は、泣いてください」
「……はい」
「計算しても、しなくても、どちらでもいいです」
「はい」
「葵が泣くなら、葵が、勝手に、泣きます」
「はい」
「あなたは、葵に、譲ってください」
神崎は、そう言って、現場の方に戻っていった。
凛はト書きをもう一度見た。
譲る、というのは、どういうことだろう。考えても、たぶん、答えは出ない。考えるな、というのが、神崎の言外の指示だった。
凛は台本を閉じた。
最終シーンの撮影は、午後二時に、始まった。
ロビーには、誰もいなかった。葵だけが、立っていた。葵は、過去の自分の手紙を一通、ポケットから取り出して、椅子に座って、それを開いた。
手紙には、何が書いてあるか、視聴者には見せない。葵だけが、それを読む。
神崎の指示は、最初、これだけだった。
「カメラ、回します」
「はい」
「葵さん、好きなようにどうぞ」
好きなように、と言われた瞬間、凛の中で、いつもの計算の引き出しが、開いた。開いたが、引き出しの中は、空っぽだった。先月、神崎の現場で、すでに気づいていた。引き出しの中身は、別の場所に、移ってしまった、と。
凛は引き出しを閉めた。
閉めて、葵として、椅子に座った。
手紙を、開いた。
手紙の文面は、撮影前に、凛が自分で書いたものだった。神崎が「どんな手紙でもいい。葵が書いたものとして、用意してください」と言った。凛は五日かけて葵の手紙を書いた。書いた手紙の内容は、誰にも見せていない。神崎にも見せていない。
手紙を読み始めた。
読んでいるうちに、葵が、勝手に、泣いていた。
いつ泣き始めたか、凛には、分からなかった。気づいたら、葵の頬が、濡れていた。濡れているのを、凛は、客観的に認識していた。客観的な認識は、いつもの計算と同じ場所から来るものではない。別の場所から、来た。別の場所がどこかは、まだ分からない。分からないが、その別の場所が、葵を泣かせた。
台詞はない。葵はただ、泣いていた。
神崎の声がしなかった。
しないまま、長くしなかった。
長くしないまま、葵は泣き終わった。
葵が泣き終わって、手紙をポケットに戻して、立ち上がって、ロビーから出ていく。脚本のト書きは、そこで終わっていた。
凛はト書き通りに、ロビーから出た。
出てから、神崎の声を、待った。
しばらく、しなかった。
それから、
「……OK」
とだけ、神崎が、言った。
現場が、一瞬、止まった。それから、誰かが、拍手を始めた。それを合図に、現場のスタッフ全員が、拍手を始めた。録音、照明、衣装、メイク、助監督、ぜんぶの部署から、拍手が湧いた。
凛はロビーの外で、その拍手を聞いていた。
聞きながら、自分の頬が、まだ、濡れていることに、気づいた。
気づいたが、拭かなかった。
拭かなかったのは、たぶん、拭くと、葵の涙が、ぜんぶ、自分の涙に、変わってしまう気がしたからだった。
葵の涙のまま、しばらく、置いておきたかった。
拍手が、終わった頃、神崎が、ロビーに、入ってきた。
神崎はいつもの黒いシャツに、黒いパンツだった。雨で少し濡れていた。
「柊さん」
「はい」
「お疲れ様でした」
「……お疲れ様でした」
「いい、葵でした」
「ありがとうございます」
「あなたの葵は、たぶん、何年か残ります」
凛は、頷くつもりで頷けなかった。
頷けなかったのは、神崎が、こういう言い方をする監督ではなかったからだった。神崎は、普段、作品の評価を、口にしない。作品の評価は、観客がするものだ、と神崎は何かのインタビューで答えていた。それが、神崎の哲学だった。
その神崎が、今日、口にした。
残ります、と。
凛はそれをしばらく消化した。消化しきれなかったので、「ありがとうございます」を、もう一度、言った。
「ありがとうございます」
「はい」
神崎はそれで現場の方に戻っていった。
凛はその背中を見ていた。
見ながら、自分の頬のまだ濡れている部分を、ようやく指の背で拭いた。
楽屋に戻ると、春日芽衣が、いた。
芽衣は今日、現場の見学に来ていた。所属事務所の繋がりで、若手女優が現場を見学に来ることが、たまにある。今日の見学者は、室田組の最年少、芽衣だった。
「凛さん」
芽衣が立ち上がった。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
芽衣の目がわずかに赤かった。
凛は、そのことを指摘しないことにした。指摘すると、芽衣が、たぶん、もっと、泣く。芽衣はそういうタイプだった。
「ずっと、見てた?」
「はい」
「最初から最後まで」
「最初から最後まで」
「途中、どうだった?」
「……」
「言葉、出ない?」
「出ない、です」
芽衣が椅子に座った。座って、しばらく、言葉を探した。探したが、見つからないようだった。
「凛さん」
「うん」
「私、何もしてないんですけど」
「うん」
「ずっと、見てて」
「うん」
「拍手の前、私、たぶん、一秒くらい、息、止まりました」
「一秒」
「一秒です」
「拍手より早く?」
「早く、です」
「先制攻撃」
「先制じゃなくて、もう、息が、止まっただけです」
「うん」
「あれ、なんなんですかね」
「分からないけど、そういうもの、じゃないかな」
「そういうもの」
「うん」
「凛さん」
「うん」
「ありがとう」と凛が、先に言った。
「あ」
「いてくれて、ありがとう」
「私、何もしてないですよ」
「いてくれた」
芽衣がしばらく無言だった。
無言のあと、目が、また、赤くなった。
今度は、隠すのを、諦めたみたいだった。
「凛さん、今日のお芝居、もう、忘れたくないんですけど」
「うん」
「ずっと、覚えていたいです」
「うん」
「いいですか、覚えてて」
「いいよ」
「ありがとうございます」
「お礼、言うこと?」
「分かんないです。なんか、言いたくて」
芽衣がふっと笑った。
笑った瞬間、芽衣の目から、ようやく一粒こぼれた。
凛はティッシュの箱を芽衣の方に押した。
「使って」
「使います」
「全部使っていい」
「全部、は、使わないです」
「使えるよ」
「凛さん、笑わないでください」
「笑ってないよ」
「笑ってます」
「笑ってる」
二人で、少し、笑った。
笑いながら、芽衣はティッシュで目を押さえた。
凛は押し付けるように、もう一回言った。
「ありがとう」
「私、本当に、何もしてないですよ」
「いてくれた」
「いただけです」
「うん」
「うん」
「それでいい」
帰りの車の中で、凛は窓の外を見ていた。
雨が、まだ、降っていた。雨の音が、車の中で、小さくしていた。
今日、現場で起きたことを、凛は頭の中でもう一度再生した。
葵が泣いた。自分の意思では、泣かせていない。葵が、勝手に、泣いた。勝手に泣いたのが、よかったのか、よくなかったのか、凛には、まだ、判断がつかない。判断はつかないが、神崎の「OK」は、出た。「残ります」とも、言われた。
残る、というのは、どういうことだろう。
考えながら、凛は、もう一つ、別のことを、考えていた。
帰ったら、誰かに、見てほしい、と思っていた。
誰か、というのが、凛の中で、すぐには、決まらなかった。母は、ミラノに戻ったばかりだった。父は、ロサンゼルス。華は、自分の現場が忙しい。詩織は——詩織には、まだ、神崎の作品は、見せていない。
残る、誰か。
凛はしばらく考えて、ようやく結論に辿り着いた。
「遼か」
声に出して、言った。
言ってから、自分でも、少し、驚いた。
遼に「見てくれ」と頼むのは、初めてだった。
夜、柊家のリビング。
遼が、ノートパソコンに向かっていた。
柊華は、自分の部屋に戻っていた。母は、ミラノ。だから、リビングには、遼と、戻ってきた凛だけが、いた。
「遼」
「ん」
「今日、撮ったやつ」
「ん」
「見てくれる?」
遼の手が、止まった。
止まって、凛を、見た。
「俺が?」
「うん」
「俺に言うのは、珍しいな」
「珍しい」
「今日のは、見てほしい」
「分かった」
遼はノートパソコンを閉じた。
閉じて、凛のスマホを、受け取った。神崎が「最終シーンの仮編集だけ、家族用に渡していい」と言ってくれたものだった。仮編集なので、音楽は、まだ仮のものが入っているだけだった。映像も、最終調整前だった。それでも、葵が泣くシーンは、入っていた。
遼はヘッドホンをつけた。
画面を、見た。
しばらく、見ていた。
凛はその横顔を見ていた。見ていたが、遼の表情は、ほとんど、動かなかった。動かないのは、遼の普段だった。普段なので、凛は、判断を保留した。
映像が終わった。
遼はヘッドホンを外した。
外して、しばらく、何も、言わなかった。
言わないあいだ、凛は待っていた。
待っているうちに、遼が、ようやく、口を、開いた。
「凛」
「うん」
「これ、凛か」
「私だよ」
「そうか」
「うん」
遼はもう一度、画面を見た。画面はもう真っ黒だった。真っ黒な画面を、しばらく、見ていた。
見ていたあと、こう言った。
「……いいな」
凛は止まった。
「遼が『いいな』って言うの、初めてかも」
「そうか」
「そう」
「そうか」
「うん」
凛はしばらく遼の横顔を見ていた。
見てから、ようやく、言った。
「ありがとう」
遼が、こちらを、見た。
「珍しいな」
「珍しい?」
「凛が、俺に、ありがとうって言うの」
「言うこと、ある?」
「滅多にない」
「そうかな」
「そうだ」
「……今日は、特別」
「うん」
「うん」
凛は、それ以上、何も言わなかった。
遼も、それ以上、何も聞かなかった。
二人で、しばらく、リビングのテーブルに、向かい合って、座っていた。座っているだけだった。座っているだけで、何かが、伝わっていた気がした。気がしただけかもしれない。気がしただけでも、よかった。
数日後。
桜井詩織は、職場の昼休みに、雑誌を、開いていた。
編集部に、たまに来る、女性誌の見本誌だった。担当外の本だが、休憩中に、たまに、めくる。今日は、表紙に「柊凛、神崎作品クランクアップインタビュー」と出ていた。
詩織はそのページを開いた。
凛のインタビューが、見開きで、載っていた。写真は、化粧が、薄かった。普段の宣材より、薄かった。薄い化粧の凛は、業界用の凛、ではなかった。家で見たことのある凛、に近かった。
詩織は本文を読んだ。
最後の質問が、こうだった。
《今回の作品で、ご自身に、何か変化はありましたか?》
凛の答えは、こうだった。
《私、計算の外に、出ました》
詩織はその一文を、しばらく見ていた。
見てから、少し、笑った。
笑った理由は、自分でも、はっきりしなかった。たぶん、凛が、自分の言葉で、自分のことを、答えていたのが、嬉しかった。嬉しかったというより、いいな、と思った。
いいな、というのは、誰かが、自分の言葉を、見つけたとき、近くで見ていた人間が、思うものだった。詩織は、凛の近くにいた、とは、自分では思っていない。思っていないが、向かいのマンションの灯りを、十年以上、見てきた。それくらいの「近く」は、たぶん、近くだった。
詩織は雑誌を閉じた。
閉じてから、コーヒーをひとくち飲んだ。
冷めていた。
冷めていたが、今日のは、なんとなく、おいしかった。




