第61話「俺はどうしたいんだ」
桜井詩織は、朝、職場のコピー機を、また、睨んでいた。
一ヶ月前、遼に直してもらったコピー機が、また、止まっていた。前回は、業者を呼ぶ前に、たまたま近所の知人が機械に強くて、来てくれたことになっている。「近所の知人」というのは、編集部内の公式説明だった。実際の説明は、もう少し複雑だが、複雑なので、詩織は誰にも、しなかった。
「桜井さん、これ、また」
後輩の藤井が言った。
「うん」
「業者、呼びますか」
「呼ぶ」
「呼びますね」
「呼ぼう」
詩織は藤井に業者の番号を渡した。渡してから、自分のデスクに、戻った。
戻って、原稿を、開いた。
原稿は、今日、進まなかった。進まないのは、コピー機のせいではない。コピー機のせいではないことを、詩織は自分でも分かっていた。
昼、お弁当を食べているとき、藤井が、また、来た。
「桜井さん」
「うん」
「業者、来週まで埋まってるって」
「来週」
「コピー機、それまで、止まったままです」
「困るね」
「困ります」
藤井が肩を落として戻っていった。
詩織は、お弁当の残りを、しばらく、見ていた。
しばらく見てから、卵焼きを口に入れた。
いつもの、自分の卵焼きの味だった。味は変わっていない。変わっていないのに、今日は、なんとなく、薄かった。
卵焼きのせいではないことは、詩織にも分かっていた。
分かっていたが、それ以上は、考えなかった。
午後三時。
スマホが鳴った。
画面を見たら、遼からのLINEだった。
「いま、近く」
詩織は画面をしばらく見た。
「何しに」
返した。
「いや、なんとなく」
「なんとなく?」
「うん」
詩織は、しばらく、画面を見ていた。
遼の「なんとなく」は、滅多に出ない。遼は「なんとなく」で動かない人間だ。動くときは、必ず、目的がある。目的がないと、家から出ない。そういう兄を、詩織は、十五年以上、見てきた。
その遼が、いま、「なんとなく」で、近くにいる。
「コピー機、また壊れてる」
詩織は、書いた。
書いてから、書く必要はなかった、と思った。思ったが、もう送った。
「行く」
遼からすぐに返ってきた。
「やっぱり、いい」
詩織は書いた。
「業者、来週来るから」
もう一通、足した。
「近くにいたので」
遼は書いた。
詩織は画面を見た。
「ありがとう」
返した。
しばらく、返事は来なかった。
それから、
「……そうか」
とだけ、来た。
詩織はしばらく画面を、見ていた。
たぶん、遼は近くにいない。
遼の今日の予定を、詩織は知らない。知らないが、平日の昼下がりに遼がこの辺りにいる用事は、思いつかなかった。遼の行動範囲は、品川のオフィスと、最近は市ヶ谷あたり、と聞いていた。詩織の職場は、どちらの線上にもない。
なのに、遼は「近くにいた」と書いた。
遼が嘘をつくのを、詩織は初めて見た。十五年以上の付き合いで、初めてだった。十五年で初めてのことが、今日、画面の中に出ていた。
遼が来たのは、三十分後だった。
受付に、いつもの「近所の知人」として、入った。受付の女性が、もう、慣れていた。慣れているのが、詩織には少し複雑だった。
「お疲れ様」
「おつかれ」
遼はコピー機の前にしゃがんだ。
しゃがんで十分くらい何かをしていた。何をしているかは、詩織には分からない。分からないが、見ていた。見ていたら、藤井が来て、「あ、近所の方、また来てくれたんですね」と言って、お茶を出して、戻っていった。
遼は、お茶には、手をつけなかった。
集中している遼は、お茶を飲まない。詩織は、それも、知っていた。
「……動いた」
遼が、言った。
「ありがとう」
「うん」
遼は、立ち上がった。立ち上がって、コピー機の上の、何でもないところを軽く撫でた。撫でる必要はないが、撫でた。詩織はそれを見ていた。撫でた手が、わずかにゆっくりだった。普段の遼は、もう少し、動作が速い。今日の遼は、わずかにゆっくりだった。
「お茶」
詩織が、言った。
「ん?」
「飲んで」
「あ。ありがとう」
遼はお茶をひとくち飲んだ。
詩織はそれを見ていた。
飲んだあと、遼はしばらく何かを言いそうで、言わなかった。
「じゃ」
遼が、言った。
「うん」
「また」
「うん」
遼は出ていった。
出ていく背中が、いつもより、わずかにゆっくりだった。
遼は出版社のあるビルを出て、駅に向かって、歩いた。
歩きながら、自分がさっき言ったことを頭の中で再生した。
「近くにいたので」
あれは、嘘だった。
遼は防衛省の用事を終えて、本当は、まっすぐ家に帰るつもりだった。途中で電車を乗り換える駅で、なぜか、降りなかった。乗り換えるはずの電車を見送って、そのまま、別の路線に乗った。乗ってから、自分がどこに向かっているか、ようやく自覚した。
自覚した時点で、引き返すこともできた。
引き返さなかった。
そのまま、出版社のあるビルの前まで来て、それから、LINEを送った。
「いま、近く」。
近くだったのは事実だ。事実だが、なぜ近くまで来たのかについて、遼は、書かなかった。書けなかったというより、書く言葉を、持っていなかった。
持っていなかった言葉の代わりに、出てきたのが、「近くにいたので」だった。
近くにいた、というのは、出版社の近くにいた、という意味では、嘘ではない。嘘ではないが、最初から近くにいたのか、近くまで来たのかというのは、別の話だった。遼は「来た」のだった。来たのに、「いた」と書いた。
それは、たぶん、嘘の系列だった。
遼は駅のホームで電車を待ちながら、それをしばらく考えた。
考えても、考えても答えは出なかった。答えが出ないので、遼は、自分がなぜ嘘の系列に近いことを書いたのかもう一段、考えた。
考えたが、その答えも、出なかった。
出ないが、何かが、変わっていた。変わっていることだけは、遼にも分かった。何が変わったのかは、分からない。分からないのが、最近、増えている。
電車が来た。
遼は乗った。
乗りながら、まだ考えていた。
夜。柊家のリビング。
柊凛と柊華と遼が、ソファに、それぞれの位置で、座っていた。
テレビからバラエティの笑い声がしていたが、誰も見ていなかった。
「お姉ちゃん」
華が、言った。
「うん」
「冷蔵庫のプリン、名前書いてあった?」
「書いた」
「『凛』って?」
「『凛』って」
「念入りに?」
「念入りに」
「私のは『華』」
「念入りに?」
「念入りに」
遼は、その会話を、聞いていた。
聞いていたが、どこか、遠くで聞いていた。普段の遼は、こういうどうでもいい会話に、二回に一回くらい、ツッコミを入れる。今日は、入れなかった。
「遼」
「ん」
凛が、こちらを、見た。
「今日、しゃべらないね」
「そうか」
「うん」
「……そうかな」
「うん」
「考え事してた」
「珍しい」
「珍しい?」
「いつも考えてるけど、今日のは、別の種類の考え事」
「分かるか」
「分かるよ。家族だから」
遼は、それ以上、何も言わなかった。
言わなかったが、姉がそう言うのなら、たぶん、そうだった。家族の判定は、基本的に、当たる。当たるのが、家族の機能だった。
遼は、立ち上がって、自分の部屋に、向かった。
「遼」
凛が、後ろから、言った。
「ん」
「プリン、食べていいよ」
「俺の名前、書いてないけど」
「今日は、特別」
「……ありがとう」
遼は、台所で、プリンを、ひとつ、取った。取って、自分の部屋に、戻った。
部屋に入って、机の上に、プリンを、置いた。
置いたが、すぐには、食べなかった。
遼は自分の部屋にいた。
ノートパソコンを開いて、防衛省からのメールを、見ていた。
「次の案件についてご相談がございます。来週、お時間をいただけますでしょうか」
短いメールだった。
遼はいつもこういうメールに、即答していた。即答というのは、五分以内に「了解しました。日程は以下で」と返すことだった。それが、遼の仕事のスタイルだった。スタイルというより、習慣だった。習慣だったので、考えなくても指が動いた。
今日は、指が、動かなかった。
動かないのに、画面は、開いていた。
動かない指を、遼はしばらく見ていた。
見ていたあと、ようやく打った。
「少し考えます」
送信した。
送信してから、遼は自分が書いた言葉を見直した。
「少し考えます」
書いたことが、なかった。十回以上、防衛省と仕事をしているが、こういう返事を書いたことが、なかった。書いたことがないのに、今日、書いた。書いたあと、消そうかと一瞬思った。一瞬思ったが消さなかった。送信ボタンを押した。押した時点で、もう書き直せない。書き直せないのが、なんとなく、よかった。
ノートパソコンを、閉じた。
閉じてから、遼は机の上に両肘をついた。
肘をついて、両手で顔を覆った。
覆ったまま、しばらく、動かなかった。
動かないあいだ、遼は自分の中で、何かを、整理していた。整理というほど、整っていない。並べ直しているだけだった。並べ直しても、答えは、まだ、出てこなかった。
でも、一つだけ、見えてきたものがあった。
今日、出版社まで「来た」のは、なぜか。
答えは、たぶん、こうだった。
行きたかったから、行った。
他の理由は、なかった。コピー機を直すという目的はあったが、コピー機を直さなくてもよかった。業者が来週来る、と詩織は言っていた。業者が来るのを待てばよかった。待てばよかったのに、遼は自分から行った。
行きたかったから、行った。
他には、何もなかった。
遼は顔を覆った両手を下ろした。下ろして、机の上を見た。
机の上には、何もなかった。何もない机の上に、遼は自分の言葉を、置いてみた。
俺は、行きたいから、行った。
置いてみたら、それはちゃんと机の上に乗っていた。
もう一つ、思い出した。
二ヶ月前、防衛省の最初の案件のとき、遼は引き受けた。
ロバートに「これ、引き受けるか」と聞かれて、「やります」と答えた。
なぜ「やります」と答えたかは、当時の遼には分からなかった。仕事だから、と思っていた。仕事だから、と答えていれば、説明が済んだ。済んだので、それ以上、考えなかった。
でも、いま、考え直すと、それも、たぶん、同じだった。
行きたかったから、行った。
その「行きたい」の中身は、たぶん、いろいろあった。日本のシステムを直したいと思った気持ち。父が昔、世界を直したいと言っていた話。母が、どこかで、強い人を作りたかった話。アリアの父親に「お前ならできる」と言われた瞬間。ぜんぶ、混ざっていた。混ざっていたが、結論は、シンプルだった。
行きたかったから、行った。
遼はもう一度机を見た。
机の上には、まだ自分の言葉が乗っていた。
乗っているのを、遼はしばらく見ていた。
見ながら、思った。
これは、答えのかけらかもしれない。
かけらだから、まだ、足りない。足りないが、ゼロではない。
二ヶ月のあいだ、ゼロだったところに、いま、かけらが、一つ、ある。
遼はノートパソコンをもう一度開いた。
メモアプリを開いた。
白い画面に、こう打った。
「俺は、行きたいから、行った」
打ってから、しばらく見た。
見て保存した。
保存ボタンを二回押した。二回押しても、意味はなかったが、二回押した。
窓の外を見た。
向かいのマンションの、九階の灯りが、ついていた。詩織の部屋だった。
遼はそれをしばらく見ていた。
見ながら、たぶん詩織はいま何かを考えている、と思った。何を考えているのかは、分からない。分からないが、なんとなく、考えている気が、した。
遼は窓から視線を戻した。
戻して、机の上の自分の言葉をもう一度見た。
言葉は、まだそこにあった。
今日のところは、そこにある、ということだけ、確認した。
明日、また見ようと思った。
明日、見ても、まだそこにあるなら、それは答えのかけらだと思っていい。




