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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第三部「守る人になりそうです」

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第61話「俺はどうしたいんだ」

 桜井(さくらい)詩織(しおり)は、朝、職場のコピー機を、また、睨んでいた。


 一ヶ月前、遼に直してもらったコピー機が、また、止まっていた。前回は、業者を呼ぶ前に、たまたま近所の知人が機械に強くて、来てくれたことになっている。「近所の知人」というのは、編集部内の公式説明だった。実際の説明は、もう少し複雑だが、複雑なので、詩織は誰にも、しなかった。


「桜井さん、これ、また」


 後輩の藤井が言った。


「うん」


「業者、呼びますか」


「呼ぶ」


「呼びますね」


「呼ぼう」


 詩織は藤井に業者の番号を渡した。渡してから、自分のデスクに、戻った。


 戻って、原稿を、開いた。


 原稿は、今日、進まなかった。進まないのは、コピー機のせいではない。コピー機のせいではないことを、詩織は自分でも分かっていた。


   


 昼、お弁当を食べているとき、藤井が、また、来た。


「桜井さん」


「うん」


「業者、来週まで埋まってるって」


「来週」


「コピー機、それまで、止まったままです」


「困るね」


「困ります」


 藤井が肩を落として戻っていった。


 詩織は、お弁当の残りを、しばらく、見ていた。


 しばらく見てから、卵焼きを口に入れた。


 いつもの、自分の卵焼きの味だった。味は変わっていない。変わっていないのに、今日は、なんとなく、薄かった。


 卵焼きのせいではないことは、詩織にも分かっていた。


 分かっていたが、それ以上は、考えなかった。


   


 午後三時。


 スマホが鳴った。


 画面を見たら、遼からのLINEだった。


「いま、近く」


 詩織は画面をしばらく見た。


「何しに」


 返した。


「いや、なんとなく」


「なんとなく?」


「うん」


 詩織は、しばらく、画面を見ていた。


 遼の「なんとなく」は、滅多に出ない。遼は「なんとなく」で動かない人間だ。動くときは、必ず、目的がある。目的がないと、家から出ない。そういう兄を、詩織は、十五年以上、見てきた。


 その遼が、いま、「なんとなく」で、近くにいる。


「コピー機、また壊れてる」


 詩織は、書いた。


 書いてから、書く必要はなかった、と思った。思ったが、もう送った。


「行く」


 遼からすぐに返ってきた。


「やっぱり、いい」


 詩織は書いた。


「業者、来週来るから」


 もう一通、足した。


「近くにいたので」


 遼は書いた。


 詩織は画面を見た。


「ありがとう」


 返した。


 しばらく、返事は来なかった。


 それから、


「……そうか」


 とだけ、来た。


 詩織はしばらく画面を、見ていた。


 たぶん、遼は近くにいない。


 遼の今日の予定を、詩織は知らない。知らないが、平日の昼下がりに遼がこの辺りにいる用事は、思いつかなかった。遼の行動範囲は、品川のオフィスと、最近は市ヶ谷あたり、と聞いていた。詩織の職場は、どちらの線上にもない。


 なのに、遼は「近くにいた」と書いた。


 遼が嘘をつくのを、詩織は初めて見た。十五年以上の付き合いで、初めてだった。十五年で初めてのことが、今日、画面の中に出ていた。


   


 遼が来たのは、三十分後だった。


 受付に、いつもの「近所の知人」として、入った。受付の女性が、もう、慣れていた。慣れているのが、詩織には少し複雑だった。


「お疲れ様」


「おつかれ」


 遼はコピー機の前にしゃがんだ。


 しゃがんで十分くらい何かをしていた。何をしているかは、詩織には分からない。分からないが、見ていた。見ていたら、藤井が来て、「あ、近所の方、また来てくれたんですね」と言って、お茶を出して、戻っていった。


 遼は、お茶には、手をつけなかった。


 集中している遼は、お茶を飲まない。詩織は、それも、知っていた。


「……動いた」


 遼が、言った。


「ありがとう」


「うん」


 遼は、立ち上がった。立ち上がって、コピー機の上の、何でもないところを軽く撫でた。撫でる必要はないが、撫でた。詩織はそれを見ていた。撫でた手が、わずかにゆっくりだった。普段の遼は、もう少し、動作が速い。今日の遼は、わずかにゆっくりだった。


「お茶」


 詩織が、言った。


「ん?」


「飲んで」


「あ。ありがとう」


 遼はお茶をひとくち飲んだ。


 詩織はそれを見ていた。


 飲んだあと、遼はしばらく何かを言いそうで、言わなかった。


「じゃ」


 遼が、言った。


「うん」


「また」


「うん」


 遼は出ていった。


 出ていく背中が、いつもより、わずかにゆっくりだった。


   


 遼は出版社のあるビルを出て、駅に向かって、歩いた。


 歩きながら、自分がさっき言ったことを頭の中で再生した。


「近くにいたので」


 あれは、嘘だった。


 遼は防衛省の用事を終えて、本当は、まっすぐ家に帰るつもりだった。途中で電車を乗り換える駅で、なぜか、降りなかった。乗り換えるはずの電車を見送って、そのまま、別の路線に乗った。乗ってから、自分がどこに向かっているか、ようやく自覚した。


 自覚した時点で、引き返すこともできた。


 引き返さなかった。


 そのまま、出版社のあるビルの前まで来て、それから、LINEを送った。


 「いま、近く」。


 近くだったのは事実だ。事実だが、なぜ近くまで来たのかについて、遼は、書かなかった。書けなかったというより、書く言葉を、持っていなかった。


 持っていなかった言葉の代わりに、出てきたのが、「近くにいたので」だった。


 近くにいた、というのは、出版社の近くにいた、という意味では、嘘ではない。嘘ではないが、最初から近くにいたのか、近くまで来たのかというのは、別の話だった。遼は「来た」のだった。来たのに、「いた」と書いた。


 それは、たぶん、嘘の系列だった。


 遼は駅のホームで電車を待ちながら、それをしばらく考えた。


 考えても、考えても答えは出なかった。答えが出ないので、遼は、自分がなぜ嘘の系列に近いことを書いたのかもう一段、考えた。


 考えたが、その答えも、出なかった。


 出ないが、何かが、変わっていた。変わっていることだけは、遼にも分かった。何が変わったのかは、分からない。分からないのが、最近、増えている。


 電車が来た。


 遼は乗った。


 乗りながら、まだ考えていた。


   


 夜。柊家のリビング。


 (ひいらぎ)(りん)(ひいらぎ)(はな)と遼が、ソファに、それぞれの位置で、座っていた。


 テレビからバラエティの笑い声がしていたが、誰も見ていなかった。


「お姉ちゃん」


 華が、言った。


「うん」


「冷蔵庫のプリン、名前書いてあった?」


「書いた」


「『凛』って?」


「『凛』って」


「念入りに?」


「念入りに」


「私のは『華』」


「念入りに?」


「念入りに」


 遼は、その会話を、聞いていた。


 聞いていたが、どこか、遠くで聞いていた。普段の遼は、こういうどうでもいい会話に、二回に一回くらい、ツッコミを入れる。今日は、入れなかった。


「遼」


「ん」


 凛が、こちらを、見た。


「今日、しゃべらないね」


「そうか」


「うん」


「……そうかな」


「うん」


「考え事してた」


「珍しい」


「珍しい?」


「いつも考えてるけど、今日のは、別の種類の考え事」


「分かるか」


「分かるよ。家族だから」


 遼は、それ以上、何も言わなかった。


 言わなかったが、姉がそう言うのなら、たぶん、そうだった。家族の判定は、基本的に、当たる。当たるのが、家族の機能だった。


 遼は、立ち上がって、自分の部屋に、向かった。


「遼」


 凛が、後ろから、言った。


「ん」


「プリン、食べていいよ」


「俺の名前、書いてないけど」


「今日は、特別」


「……ありがとう」


 遼は、台所で、プリンを、ひとつ、取った。取って、自分の部屋に、戻った。


 部屋に入って、机の上に、プリンを、置いた。


 置いたが、すぐには、食べなかった。


   


 遼は自分の部屋にいた。


 ノートパソコンを開いて、防衛省からのメールを、見ていた。


「次の案件についてご相談がございます。来週、お時間をいただけますでしょうか」


 短いメールだった。


 遼はいつもこういうメールに、即答していた。即答というのは、五分以内に「了解しました。日程は以下で」と返すことだった。それが、遼の仕事のスタイルだった。スタイルというより、習慣だった。習慣だったので、考えなくても指が動いた。


 今日は、指が、動かなかった。


 動かないのに、画面は、開いていた。


 動かない指を、遼はしばらく見ていた。


 見ていたあと、ようやく打った。


「少し考えます」


 送信した。


 送信してから、遼は自分が書いた言葉を見直した。


「少し考えます」


 書いたことが、なかった。十回以上、防衛省と仕事をしているが、こういう返事を書いたことが、なかった。書いたことがないのに、今日、書いた。書いたあと、消そうかと一瞬思った。一瞬思ったが消さなかった。送信ボタンを押した。押した時点で、もう書き直せない。書き直せないのが、なんとなく、よかった。


   


 ノートパソコンを、閉じた。


 閉じてから、遼は机の上に両肘をついた。


 肘をついて、両手で顔を覆った。


 覆ったまま、しばらく、動かなかった。


 動かないあいだ、遼は自分の中で、何かを、整理していた。整理というほど、整っていない。並べ直しているだけだった。並べ直しても、答えは、まだ、出てこなかった。


 でも、一つだけ、見えてきたものがあった。


 今日、出版社まで「来た」のは、なぜか。


 答えは、たぶん、こうだった。


 行きたかったから、行った。


 他の理由は、なかった。コピー機を直すという目的はあったが、コピー機を直さなくてもよかった。業者が来週来る、と詩織は言っていた。業者が来るのを待てばよかった。待てばよかったのに、遼は自分から行った。


 行きたかったから、行った。


 他には、何もなかった。


 遼は顔を覆った両手を下ろした。下ろして、机の上を見た。


 机の上には、何もなかった。何もない机の上に、遼は自分の言葉を、置いてみた。


 俺は、行きたいから、行った。


 置いてみたら、それはちゃんと机の上に乗っていた。


   


 もう一つ、思い出した。


 二ヶ月前、防衛省の最初の案件のとき、遼は引き受けた。


 ロバートに「これ、引き受けるか」と聞かれて、「やります」と答えた。


 なぜ「やります」と答えたかは、当時の遼には分からなかった。仕事だから、と思っていた。仕事だから、と答えていれば、説明が済んだ。済んだので、それ以上、考えなかった。


 でも、いま、考え直すと、それも、たぶん、同じだった。


 行きたかったから、行った。


 その「行きたい」の中身は、たぶん、いろいろあった。日本のシステムを直したいと思った気持ち。父が昔、世界を直したいと言っていた話。母が、どこかで、強い人を作りたかった話。アリアの父親に「お前ならできる」と言われた瞬間。ぜんぶ、混ざっていた。混ざっていたが、結論は、シンプルだった。


 行きたかったから、行った。


 遼はもう一度机を見た。


 机の上には、まだ自分の言葉が乗っていた。


 乗っているのを、遼はしばらく見ていた。


 見ながら、思った。


 これは、答えのかけらかもしれない。


 かけらだから、まだ、足りない。足りないが、ゼロではない。


 二ヶ月のあいだ、ゼロだったところに、いま、かけらが、一つ、ある。


 遼はノートパソコンをもう一度開いた。


 メモアプリを開いた。


 白い画面に、こう打った。


 「俺は、行きたいから、行った」


 打ってから、しばらく見た。


 見て保存した。


 保存ボタンを二回押した。二回押しても、意味はなかったが、二回押した。


   


 窓の外を見た。


 向かいのマンションの、九階の灯りが、ついていた。詩織の部屋だった。


 遼はそれをしばらく見ていた。


 見ながら、たぶん詩織はいま何かを考えている、と思った。何を考えているのかは、分からない。分からないが、なんとなく、考えている気が、した。


 遼は窓から視線を戻した。


 戻して、机の上の自分の言葉をもう一度見た。


 言葉は、まだそこにあった。


 今日のところは、そこにある、ということだけ、確認した。


 明日、また見ようと思った。


 明日、見ても、まだそこにあるなら、それは答えのかけらだと思っていい。

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