第60話「ロバートと黒瀬」
ロバートは、秋葉原のカフェに座っていた。
一年で四回目だった。半年前に偶然、AURUMのリーダーとコスプレショップで衣装を取り合って以来、たまに、ここで会う。約束はしていない。約束はしていないが、来ると、たいてい、いる。来ない日もある。来ない日は、お互い、それで何とも思わない。
ロバートの肩書はTechVision Systems最高技術責任者だが、いまは無地のパーカーを着て、キャップを目深にかぶっている。変装の完成度は、年々、少しだけ上がっている。本人は誇りに思っている。誰にも言わないが。
今日のロバートには、伝えなければいけない話があった。
黙って待っていた。
ドアが開いた。黒のキャップ、黒のマスク、黒のパーカー。長身。
黒瀬綺羅だった。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
黒瀬が向かいに座った。マスクを少しだけ下げる。完全には外さない。秋葉原のカフェは、安全圏ということになっている。ということになっているだけで、本当に安全かどうかは、二人とも、検証していない。検証する勇気がないので、安全ということにしている。
コーヒーが運ばれてきた。
しばらく、二人で、コーヒーを飲んだ。
「最近、どうですか」と黒瀬が聞いた。
「上司が来日中です」
「ああ」
「面倒な感じです」
「あの方ですよね。例の」
「例の」
「『侍』の話の」
「そうです」
黒瀬が、少し笑った。
半年前の最初の話で、ロバートがデイビッドの「侍だ」発言を、ぽろりと話した。話した時、黒瀬は「ありがとうございます。たぶん、私のことです」と答えた。それ以来、二人のあいだでデイビッドは「侍の話の方」と呼ばれている。本人は知らない。
「綺羅さん」
「はい」
「実は、その『侍の話の方』のことで、お伝えしたいことが」
「私に?」
「あなたに、というか、AURUMに」
黒瀬がカップを置いた。
「うちの上司、コンサートに行きたいと言っています」
「コンサート」
「明後日の東京ドーム」
「……はい」
「チケットは、当然、完売しています」
「完売しています」
「事務所経由で打診しようかと思ったんですが」
「やめてください」
黒瀬が即答した。
「やめます」
「絶対にやめてください」
「絶対にやめます」
黒瀬は、深く息を吐いた。
「うちの社長、海外案件と聞くと、目の色が変わる人なんです」
「あぁ」
「コラボとか、海外進出とか、考え始めます」
「分かります」
「だから、社長には、知られない方がいい」
「では、どうするのが」
「私が手配します」
「いいんですか」
「いいです。私が一枚、用意して、こっそり渡します」
「助かります」
「ただし」
「ただし」
「ロバートさん、当日、CEOの隣には座らないでください」
「は」
「ステージから見えます。CEOの隣に、ロバートさんが座っていたら」
「座っていたら」
「私とロバートさんが知り合いだということが、ステージから、CEOに、伝わってしまう可能性がある」
「あぁ」
「私の目線が、CEOの隣のロバートさんに行くと、CEOから見ると、私が自分を見ていると勘違いするかもしれませんが」
「勘違いするかもしれませんね」
「逆もあって、私が必死に目線を逸らしていると、CEOの隣にいるロバートさんが、なぜ目線を逸らしているのか、考えてしまうかもしれない」
「考えるかもしれません」
「だから、距離をとってください」
「距離」
「二、三席、離れて座る」
「了解です」
「もしくは、当日、来ない」
「来ない、はもう無理です。付き添いなので」
「ですよね」
「ええ」
黒瀬は、もう一度、深く息を吐いた。
「ロバートさん」
「はい」
「私、ステージから知り合いを見つけると、本当に、歌詞を飛ばします」
「歌詞を」
「本気で、飛ばします」
「分かりました。距離をとります」
「お願いします」
「で、ロバートさんの上司、何のファンなんですか」
「全部です」
「全部」
「歌、ダンス、ビジュアル、ぜんぶです」
「あ、はい」
「特に、リーダーが、好きみたいです」
「私、ですか」
「あなたです」
「……」
「渋谷で、変装中のあなたを、歩き方で見抜いた人です」
「あの人、ですよね」
「あの人です」
黒瀬は、しばらく、何も言わなかった。
言わなかったが、コーヒーカップを持つ手が、わずかに、ぎこちなかった。普段の黒瀬の手は、もう少し、滑らかに動く。今日の手は、ほんの少しだけ、滑らかさが落ちていた。普段、ロバートは、人の手の動きを観察する仕事をしているわけではない。していないのに、観察してしまう癖がある。
「黒瀬さん」
「はい」
「綺羅さんでも、動揺しますか」
「動揺します」
「いつも冷静なイメージですが」
「冷静は、業務です」
「なるほど」
「業務外では、わりと、動揺しやすい方です」
「初めて聞きました」
「誰にも言ってないので」
「分かりました。墓まで持っていきます」
「お願いします」
黒瀬が、ふっと、笑った。
半年前と同じ「墓まで持っていきます」を、ロバートはまた使った。半年前のあの夜から、二人のあいだで、この台詞は通貨のような役割を果たしていた。何かを共有するたびに、片方が「墓まで持っていきます」と言って、もう片方が「お願いします」と言う。それで、その話は終わる。終わったあと、二人とも、少しだけ、楽になる。
話題は、自然に、アニメに移った。
二人にとって、アニメの話は、息継ぎだった。秘密の話を続けると、苦しくなる。苦しくなる前に、アニメの話に戻る。いつのまにか、できあがっていたリズムだった。
「あの作品、二クール目」
「来ますね」
「七話の伏線、回収すると思いますか」
「私はしない派です」
「私もです」
「あれは、二クール目の冒頭で、別の方向に展開する伏線です」
「同じ読みでした」
二人で、しばらく、その作品の構造について話した。
話しているあいだ、ロバートは、自分が、世界的IT企業のCTOであることを、忘れていた。黒瀬も、自分が、AURUMのリーダーであることを、忘れていた。忘れているあいだだけ、二人は、ただのアニメ好きだった。それが、たぶん、二人がここに来る、本当の理由だった。
気づいたら、四十分、経っていた。
同じ頃。品川の柊家。
柊凛は、ソファに座って、スマホを見ていた。台本は隣に置いてあった。今日は読まないと決めていた。神崎の現場が終わった日は、頭を空にする日と、自分で決めている。
画面に、鷹野千夏からのLINEが、点滅した。
「凛ちゃん、聞いた?」
「何」
「明後日のAURUMの東京ドーム」
「うん」
「最前列、海外のCEO来るらしい」
「は?」
「うちの事務所の友達のとこに、TechVisionから連絡来たって」
「は?」
凛は、画面を、しばらく見た。
「で?」
「いや、以上」
「以上?」
「以上」
「情報網、こわい」
「でしょ」
凛は、スマホを置いた。
ダイニングテーブルでは、遼がノートパソコンに向かっていた。
「遼」
「ん」
「明後日、東京ドーム、行く?」
「行かない」
「ないか」
「なんで」
「いや、なんとなく」
「凛」
「うん」
「何か聞いたな」
「聞いてない」
「本当に?」
「本当に。何も、知らないことになってる」
「なってるって」
「なってるの」
遼は、しばらく画面を見ていた。
画面では、コードがコンパイルを完了していた。完了の通知は、無視した。無視できる仕事を、無視できないことが目の前にあるときに、無視できる仕事として処理するのは、社会人としての基本だった。
「凛」
「うん」
「明後日、東京ドームには、絶対近づかない」
「ふーん」
「絶対近づかない」
「分かった」
遼は、ノートパソコンを閉じた。閉じてから、凛を見た。
「凛」
「うん」
「うちの会社の、誰かが、たぶん、明後日、大変な目に遭う」
「そうなんだ」
「俺じゃない」
「うん」
「俺じゃないが、俺の知っている人だ」
「そう」
「知っている人なので、心の中で、お疲れ様ですを送る」
「送るんだ」
「送る」
凛は、少し笑った。
遼は笑わなかった。遼が笑わないのは、本気だからだった。家族には、それが伝わる。
夜。ロバートは、ホテルに戻った。
部屋のドアを開けて、コートをかけて、ベッドに座った。
しばらく、何もしなかった。
今日、増えたものを、頭の中で整理した。
CEOがAURUMファンだということは、AURUMのリーダー本人にバレた。リーダーが、CEOのために、こっそりチケットを用意することになった。当日、ロバートはCEOの隣ではなく、二、三席離れて座る。理由は、CEOには言わない。リーダーがそれを望んでいるとも、言わない。
言わないことが、また、増えた。
ロバートは、ベッドに、ゆっくり、倒れた。
倒れたまま、しばらく、天井を見ていた。
天井は、白かった。世界中のホテルの天井はだいたい白いが、今日の白は、いつもよりまぶしかった。たぶん、目が疲れている。目が疲れているのは、心が疲れているからだった。
「……また、増えた」
誰もいない部屋に、ロバートは小さくつぶやいた。
つぶやいたあと、目を閉じた。
閉じた瞼の裏に、明後日の東京ドームの最前列が、勝手に、浮かんできた。最前列の真ん中に、デイビッドが座っていた。デイビッドの隣に、誰も座っていなかった。
誰も座っていない、というのが、よかった。
よかったが、その「誰も座っていない理由」を、明日、ロバートは、デイビッドに、説明しなければいけなかった。
ロバートは、目を閉じたまま、説明の言葉を、考え始めた。
考えながら、たぶん、今夜は、眠れない、と思った。
思ったが、しばらくして、眠れた。
眠れたのは、たぶん、半年前から、こういう夜に、慣れてきたからだった。




