第59話「デイビッドが来る」
羽田空港、第三ターミナル。
ロバートチェンはスーツの内ポケットからスマホを取り出した。
画面に「David - landed」と通知が出ていた。八分前。早い。デイビッドはいつも、予定より少し早く着く。十年以上見てきたが、遅れたことを、ロバートは記憶していない。
ロバートは到着ゲートの方を見た。
入国審査と税関を抜けてきた人々が、次々とゲートから出てくる。その中に、すぐにデイビッドが見えた。デイビッドは目立つ。背が高いからではない。立ち方が違うからだ。空港のロビーで普通に立っている人と、デイビッドのように立っている人を、ロバートは間違えない。
ロバートは右手を上げた。
デイビッドが気づいた。気づいたが、表情は変えなかった。表情を変えないのも、デイビッドの普段だった。
*"Welcome to Tokyo."*
(東京へようこそ)
*"Robert."*
(ロバート)
*"Yes."*
(はい)
*"I'm hungry."*
(腹が減った)
*"...we just landed."*
(……着いたばかりですよ)
*"Find me ramen."*
(ラーメン屋を探せ)
ロバートは少しだけ、目を細めた。
深度が、いつもの三倍だった。
空港から都心への車内。
運転は契約ドライバー。後部座席にデイビッド。助手席にロバート。
ロバートはスマホでラーメン屋を検索しながら、横目でデイビッドを見ていた。今回の来日の目的は、書類上は「アジア事業の現地視察」となっている。なっているが、書類というのはたいてい本当のことを書いていない。本当の目的は、書類を書いた人間が知っている。今回、書類を書いたのはロバートではなかった。
書いたのはデイビッド本人だった。
ロバートは聞いていない。聞いていないが、ロバートにはなんとなく分かっていた。今回のデイビッドは、遼に会いに来た。遼に会いに来た理由は、聞いていないのでロバートには厳密には分からない。分からないが、遼が防衛省の案件を「直した」あとに、初めて会いに来た、という事実だけはあった。
ロバートはCTOで、書類を読むのが仕事の一部だ。書類を読むと、書類に書いていないことも分かることがある。今回の書類は、書いていないことの方が、書いてあることより多かった。多いのが分かるくらい、デイビッドの書類は、行間が広かった。
行間が広い書類というのは、書いた本人の腹が広い、ということだ。腹が広い相手と十年付き合うと、聞かなくても分かることが増える。増えていくのが、ロバートの仕事の一部でもあった。
*"Robert."*
(ロバート)
*"Yes."*
(はい)
*"How is he."*
(彼は、どうしてる)
彼、というのは遼のことだ。十年付き合って、これで通じる。
*"He fixed it."*
(直しました)
*"I heard."*
(聞いた)
*"Then he said: 'I don't know what I want to do next.'"*
(そのあと、彼はこう言ったらしいです。「次、何をしたいか分からない」)
デイビッドは、しばらく窓の外を見ていた。
*"Good."*
(結構だ)
デイビッドは、そう言ったきりだった。
ロバートは、それ以上聞かなかった。聞かないのが、十年の付き合いの作法だった。
ホテルにチェックインしたあと、デイビッドは「歩く」と言った。
長距離フライトのあと、デイビッドはたいてい歩く。歩いて、その都市の空気を、足の裏で確認する。それがデイビッドの習慣だった。今日も同じだった。
ロバートは付き合った。
デイビッドのホテルから渋谷駅まで、歩いて十五分。十五分の散歩というのは、デイビッドにとっては短い方だ。長い時は、一時間歩く。今日は、たぶん時差の関係で、短くなった。
二人は、渋谷のスクランブル交差点を歩いていた。
歩いていると、向こうからキャップを目深にかぶった男が歩いてきた。マスクをつけて、サングラスもつけている。完全に変装している。完全に変装しているのが、かえって目立った。
すれ違う瞬間、その男が、ロバートを見た。
見て、軽く、頭を下げた。
ロバートも、軽く、頭を下げた。
すれ違ってから、ロバートは振り返った。男は振り返らずに、人混みの中に消えていった。
デイビッドが、ロバートを見ていた。
*"Who was that."*
(誰だ)
*"...someone I know."*
(……知り合いです)
*"Robert."*
(ロバート)
*"Yes."*
(はい)
*"You knew him from his walk."*
(歩き方で気づいただろう)
*"......"*
*"That walk was trained."*
(あの歩き方は、鍛錬してる)
ロバートは何も答えなかった。答えるとろくなことにならない、という経験則があった。
デイビッドは、もう一度、男が消えていった方を見た。
*"Robert."*
(ロバート)
*"Yes."*
(はい)
*"Was he, by any chance—"*
(彼はもしかして——)
*"......"*
*"—from that aurum group?"*
(——あのオーラムというグループの)
ロバートは、空を見た。
空は、今日も普通に青かった。普通に青いのに、ロバートには、少し遠くに感じた。
*"...he was."*
(……そうです)
*"Hm."*
(ふむ)
*"How did you know."*
(なぜ分かったんですか)
*"I told you. The walk."*
(言っただろう。歩き方だ)
デイビッドは、満足そうに頷いた。
満足そうに頷いた六十二歳のCEOは、世界的IT企業のトップだった。トップが、東京の路上で、変装したアイドルの歩き方だけで本人を見抜いた。
ロバートは、深く、息を吐いた。
(なぜ、私より先にCEOが)
ロバートと黒瀬の関係は、表向きは秘密だった。お互いに、知り合ったきっかけを、お互いの本職の人間に話していない。話すと、たぶん、お互いの本職の人間が、複雑な顔をする。複雑な顔をされるのが面倒なので、二人とも、黙っていた。
でも今、世界的CEOが、歩き方だけで、黒瀬綺羅を見抜いた。
見抜かれたのは、ロバートではない。黒瀬だった。黒瀬の方が見抜かれて、ロバートはたまたま隣にいた、という構図だった。構図はそうだが、結果として、ロバートが黒瀬を知っているという事実が、デイビッドにバレた。
バレたが、デイビッドは何も聞かなかった。
聞かなかったのが、たぶん、デイビッドの優しさだった。
優しさかもしれないし、興味がないだけかもしれない。
ロバートには、判別がつかなかった。
*"Robert."*
(ロバート)
*"Yes."*
(はい)
*"That kid had perfect posture."*
(あの子、姿勢が完璧だった)
*"...I noticed."*
(……気づきました)
*"I want to see them perform again."*
(もう一度、見たい)
*"...we're here for business."*
(……仕事で来ています)
*"Business and pleasure."*
(仕事と趣味だ)
*"...you don't have a 'pleasure'."*
(あなたに「趣味」はないでしょう)
*"I do now."*
(今はある)
ロバートは何も言わなかった。
デイビッドは六十二歳になって、新しい趣味を見つけた。趣味の名前は「日本のアイドル」だった。具体的にはAURUM。さらに具体的には、たぶんセンター。ロバートは黒瀬の知り合いだ。黒瀬の知り合いとして、これは複雑な状況だった。
*"Robert."*
(ロバート)
*"Yes."*
(はい)
*"Don't tell him I'm a fan."*
(私がファンであることは、彼に言うな)
*"...understood."*
(……承知しました)
デイビッドは満足そうに、また歩き出した。
ロバートは、五歩遅れて、ついていった。
翌日。TechVision東京支社、品川。
CEO来日のため、執務室の準備が整っていた。整っていたが、デイビッドは「会議室でいい」と言った。会議室でいいと言われても、現場の管理職は執務室を準備してしまう。それがビジネスの掟だった。掟は、たいてい、本人の希望と関係なく動く。
遼が訪問してきたのは、午後二時だった。
ロバートが会議室に案内した。会議室には、デイビッドが先に座っていた。
「お疲れ様です」
遼は、普通に挨拶した。
普通に挨拶された相手は、世界的IT企業のCEOだった。普通に挨拶した本人は、本業のかたわら防衛省を「直した」二十二歳のエンジニアだった。この組み合わせを、ロバートは何度見ても、慣れなかった。
慣れないが、これがTechVisionの日常になりつつあった。
*"Hello."*
(やあ)
「Hello」
遼は短く返した。短く返してから、椅子に座った。座り方が、デイビッドと似ている、と、ロバートは気づいた。気づいたが、口には出さなかった。
通訳役のロバートは、椅子を少しだけ後ろに引いた。会話の邪魔をしないためだ。デイビッドは英語で話す。遼も英語で答える。ロバートが訳す必要はない。ロバートはただ、立ち会いとしてそこにいるだけだった。
*"You fixed it."*
(直したそうだな)
*"Yes."*
(はい)
*"Was it hard?"*
(難しかったか)
*"No."*
(いえ)
*"Hm."*
(ふむ)
デイビッドは少しだけ、目を細めた。
*"Robert told me you said you don't know what to do next."*
(ロバートから聞いた。次、何をしたいか分からないと)
*"Yes."*
(はい)
*"Why?"*
(なぜ)
*"...I don't know."*
(……分かりません)
*"Hm."*
(ふむ)
デイビッドは、それ以上、追求しなかった。
追求するつもりがなかったわけではない。たぶん、追求しても、遼の答えは変わらない、と判断したのだろう。判断が速いのは、デイビッドの普段だった。
*"What do you want, right now?"*
(今、何が欲しい)
遼は、少し考えた。
考える時、目線をテーブルの一点に落とすのが、遼の癖だった。妹の華の、目線を斜め下に落とす癖と、似ているような、似ていないような癖だった。
*"Time to think."*
(考える時間が)
*"Good."*
(結構だ)
*"...is that all?"*
(……それで終わりですか)
*"That's enough."*
(十分だ)
遼は、もう一度、目線をテーブルに落とした。
ロバートは横で、二人を見ていた。見ていて、ある事に気づいた。デイビッドの「Hm」「Good」「That's enough」と、遼の「はい」「いえ」「分かりません」の音程が、同じだった。
二人は、ぜんぜん違う人間だった。
違う人間なのに、相槌の音程だけが、同じだった。
たぶん、本人たちは、気づいていない。
ロバートだけが、気づいていた。
気づいていたが、これも、口には出さなかった。
*"Ryo."*
(遼)
*"Yes."*
(はい)
*"What did you feel after you fixed the system."*
(直したあと、何を感じた)
遼は、また少し考えた。
*"...nothing in particular."*
(……特には何も)
*"Hm."*
(ふむ)
*"Just tired, I guess."*
(ただ、疲れたかもしれません)
*"That's the right answer."*
(それが、正しい答えだ)
*"...is it?"*
(……そうですか)
*"When you fix something for real, you don't feel proud. You just feel tired. That's the engineer's correct response."*
(本当に直したとき、誇らしくはならない。ただ疲れる。それがエンジニアの正しい反応だ)
遼は、はい、と言いかけて、いえ、と言いかけて、最後に、そうですか、と言った。
デイビッドは、また少し笑った。
*"Ryo."*
(遼)
*"Yes."*
(はい)
*"When you find what you want, come tell me."*
(やりたいことが見つかったら、言いに来い)
*"...you'll be in San Francisco, right?"*
(……サンフランシスコに、いますよね)
*"I'll come to you."*
(私が、こっちに来る)
*"...that's a long flight."*
(……遠いですよ)
*"I know."*
(知っている)
デイビッドは、初めて少し笑った。
遼も、少し、何かに気づいた顔をした。
それから、二人とも、もう何も言わなかった。
会議が終わって、遼が帰ったあと、ロバートとデイビッドは会議室に残った。
*"Robert."*
(ロバート)
*"Yes."*
(はい)
*"He's still the same."*
(あいつは、変わっていない)
*"...is that good?"*
(……それは、いいことですか)
*"It's the best."*
(最高だ)
デイビッドは、テーブルに置かれていたコーヒーを、ひとくち飲んだ。
*"He needs time. Give it to him."*
(あいつには時間が必要だ。与えろ)
*"How much?"*
(どのくらい)
*"As much as he needs."*
(必要なだけ)
*"...that's not a number."*
(……それは数字じゃないですよ)
*"I know."*
(知っている)
ロバートは、少しだけ、笑った。
久しぶりに、心からの笑いだった。最近のロバートの笑いは、たいていアリアの来日と関係していて、心が摩耗していくタイプのものだった。今日のは、違った。
*"By the way, Robert."*
(ところで、ロバート)
*"Yes."*
(はい)
*"I think I'll stay a bit longer."*
(もう少し、日本にいる)
*"...how long?"*
(……どのくらい)
*"A week. Maybe two."*
(一週間。あるいは二週間)
*"...what about your work?"*
(……お仕事は)
*"I can do it from here."*
(ここからできる)
*"......"*
*"Robert?"*
(ロバート)
*"Yes."*
(はい)
*"Why are you making that face."*
(なぜ、その顔をしてる)
*"...this is my normal face, sir."*
(……これが、私の普通の顔です)
*"Hm."*
(ふむ)
デイビッドは納得しなかった。納得しなかったが、それ以上は聞かなかった。
ロバートは、心の中で、明日からの予定を組み直した。
CEOが二週間、東京に滞在する。執務室の確保、会議室の確保、ホテルの延長、車の手配、それから、AURUMのコンサート情報の収集。最後の項目は、業務外だ。業務外だが、たぶん、これから二週間で、何度か聞かれることになる。
ロバートは、深く、息を吐いた。
(私の遠い目は、まだ深くなれるんだろうか)
答えは、たぶん、出る。
二週間のうちに、必ず、出る。
夜、デイビッドは一人でホテルの部屋に戻った。
部屋の窓から、東京の夜景が見えた。
六十二歳のCEOは、しばらく窓の外を見ていた。
仕事で世界中の都市を見てきた。ニューヨーク、ロンドン、上海、シンガポール、ドバイ、サンパウロ。どの街も、それぞれの顔を持っていた。それぞれの顔が、デイビッドにとって、勉強の材料になった。
東京は、最近、特別だった。
特別な理由を、デイビッドは、明確には言葉にしていない。していないが、感覚として持っていた。この街には、何かが、宿っている。鍛錬の文化。本物を見抜く目を持った若者。フリフリの衣装の下にある武術の体幹。CEOにラーメン屋を探させる遠慮のなさ。それから、自分のことを「変わっていない」と言わせるような、二十二歳の青年。
ぜんぶ、東京で見つけた。
デイビッドは、もう一度、窓の外を見た。
ネオンが、街の輪郭を描いていた。
ふと、亡き妻のことが、頭をよぎった。
妻が生きていたら、今日のラーメン屋の話を、面白がっただろう。CEOがラーメン屋を探させる話と、変装したアイドルの歩き方を当てた話を、夕食のテーブルで話したら、妻はたぶん、笑った。笑い方は、低い笑い方だった。妻の笑い方を、デイビッドは、まだ覚えていた。
妻が亡くなって十年。
十年というのは、長いようで短い。長いと感じる日と、短いと感じる日の両方がある。今日は、短い方の日だった。
アリアにも電話したかった。したかったが、たぶん今、アリアは寝ている。サンフランシスコは朝。アリアは朝が弱い。起こすと「パパ、なんで今」と言うのが分かっていた。
明日にしよう、とデイビッドは思った。
明日というのは、たぶん、明日の夜。アリアの夜。デイビッドの夜。同じ「夜」という時間を、別の場所で迎える。それが普通だった。普通だが、ときどき、不思議に思った。
「……また見せてくれるんだろうな、この街は」
誰も聞いていない部屋で、デイビッドは小さくつぶやいた。
つぶやいたあと、自分でも、少し驚いた。普段のデイビッドは、独り言を言わない。今日は出た。出たのは、たぶん、東京のせいだった。
東京のせいにして、デイビッドはカーテンを閉めた。
閉めたあと、机の上のスマホを取った。検索バーに、ローマ字で「AURUM concert schedule」と打ち込んだ。
打ち込んでから、削除した。
削除して、もう一度、打ち込んだ。
今度は、エンターを押した。
画面に、結果が並んだ。
デイビッドは、しばらく結果を見ていた。
見ていたあと、ベッドに腰掛けた。腰掛けて、また画面を見た。明後日、東京ドーム。チケットは、たぶん、もう売り切れている。
売り切れているチケットを、明後日までに、CEOが手に入れる方法は——あった。
あるが、それは、ロバートに言わなければいけない。
ロバートに言うと、ロバートはまた、あの顔をする。
あの顔を、明日の朝、見るのが楽しみだった。
六十二歳のCEOは、ベッドに横になりながら、少しだけ笑った。




