第64話「工房の話」
また、いつもの居酒屋の個室だった。
柊遼、福永颯、上野壮介の三人で、座っていた。三人とも、別々の大学から、別々のキャリアに向かって歩いている。歩いているが、月に一回、ここで集まる。集まる理由は、特にない。ない、というのが、たぶん、いちばん長続きする理由だった。
最初の一杯が、テーブルに、並んだ。
福永は生ビール。上野は日本酒。遼は緑茶ハイ。三人とも、頼むものが、ほぼ毎回、同じだった。同じなので、最近、店員に「いつもので?」と聞かれる。聞かれて「はい」と答えるたびに、遼は、自分が「いつも」を持っている事実に、少し、戸惑った。戸惑ったが、嫌ではなかった。
「で、遼ちゃん」
福永が言った。
「ん」
「今日、なんか言いたそうじゃん」
「分かるのか」
「分かるよ。顔に出てる」
「出てるか」
「出てる。出てるっていうか、いつも出てない人が、今日はちょっと出てるから、分かりやすい」
「ちょっと」
「俺の基準だから」
遼は緑茶ハイを一口飲んだ。
一口飲んでから、しばらく口を開かなかった。福永と上野は、それを待った。待つのは、得意な二人だった。福永は誰にでも待てる。上野は、自分が話し始めるまでが遅いので、他人が話し始めるのも、待てる。
遼がようやく口を開いた。
「工房、開こうかと思って」
福永がビールのジョッキを、テーブルに置いた。
「工房?」
「うん」
上野が日本酒の徳利を、ゆっくり傾けた。
「曹操の時代にも、工房はあった」
「いきなり曹操か」
「曹操の話じゃない。工房の話だ」
「分かった」
「で、工房って、何の工房」
福永が聞いた。
「機械を直す工房」
「機械」
「TechVisionは?」
「続ける」
「続けるんだ」
「うん」
「副業?」
「副業というか、並行」
「並行?」
「TechVisionは本業。工房は、別軸でやる」
「忙しそう」
「忙しい」
「いいの?」
「いい」
福永はビールを、もう一口飲んだ。納得したのか、納得していないのか、顔からは読めなかった。読めなかったが、それ以上は突かなかった。福永は、突かない男だった。突くタイミングは、たぶん、別のときに来る。
「壊れたら、直しに行く」
「行く?」
「行く」
「工房なのに、行くの?」
「俺が行ったほうが、早い場合がある」
「あー、出張型ね」
「うん」
「で、儲かるの?」
福永が、聞いた。
「儲けない」
「儲けない?」
「儲ける気はない」
「ボランティア?」
「ボランティアじゃない。報酬はもらう」
「もらうけど、儲けない」
「もらうけど、儲けない」
「ややこしい」
「ややこしくない。直すのに必要な分は、もらう。それ以上は、もらわない」
「あー」
「機械が壊れて、立ち行かなくなった人がいたら、直しに行く。そういう工房」
福永は、しばらく、ビールを見ていた。
上野が、徳利を、傾けた。
「人助け工房か」
「人助け工房」
「いい名前」
「名前じゃない」
「名前にしろ」
「しない」
「『柊機械人助け工房』」
「冗長」
「『柊工房』」
「短い」
「『柊』」
「もう、ただの名前」
「ただの名前でいい」
福永はビールを、もう一口飲んだ。
飲んで、ジョッキをテーブルに戻して、しばらく考えた。考えるあいだ、福永の目が少しずつ赤くなり始めた。
「遼ちゃん」
「ん」
「それ、なんか、いいじゃん」
「そうか」
「いいよ」
「ありがとう」
「いや、なんていうか、こう……」
「言わなくていい」
「言わせて」
「うん」
「俺、それ聞いて、なんか、ぐっときた」
「ぐっと」
「ぐっと」
「ぐっとくる話、したつもりはないんだが」
「ぐっとくるかどうかは、聞いた側が決める」
「そうか」
福永の目がまた少し赤くなった。福永が泣くのは、いつものことだった。福永は、街でおばあちゃんが渡る信号が赤になりそうなのを見て、別の小学生が手をつないで渡るのを見て、泣ける男だった。今日のは、別に、おばあちゃんも信号も関係ない話なのに、福永は、もうすぐ泣く。泣きそうな顔のまま、口調はチャラいまま、それが福永だった。
遼は福永の目を見た。
見て、しばらく考えてから、こう言った。
「福永」
「ん」
「泣くな」
「泣いてない」
「泣きそうだ」
「泣きそうだけど、泣いてない」
「泣くなよ」
「うん。泣かない」
福永はビールをもう一口飲んだ。
飲んだあと、目の赤みが、少し戻った。
上野が徳利を、もう一回傾けた。
「で、国防はやめるの?」
「やめない」
「やめない?」
「壊れたら、直しに行く」
「あ、それも工房の延長?」
「延長というか、同じ仕事」
「同じ仕事」
「機械を直す、という意味では」
「分かる。分かるが、それを国の機械でやるか、町の工場でやるかは、けっこう違うぞ」
「同じだよ」
「同じか」
「同じ」
上野は徳利を、テーブルに戻した。
戻して、しばらく何かを考えた。考えるあいだ、上野の口元がわずかに動いた。何か言いたい言葉を、選んでいる顔だった。
「遼」
「ん」
「お前、それ、現代の野鍛冶じゃん」
遼は止まった。
止まって、しばらくその単語を、頭の中で転がした。
「……野鍛冶」
「うん」
「言われると、変な響きだ」
「変な響きだろ」
「変だ」
「現代の野鍛冶。これ、ラジオに投稿していいか」
「やめろ」
「だめ?」
「だめ」
「分かった」
上野はメモを取るふりをして、取らなかった。たぶん、覚えた。上野は、面白いと思ったフレーズを、頭の中の引き出しに、長期保存する癖がある。長期保存されたフレーズは、いつかどこかで別の文脈で使われる。遼は、それを、何回か、経験していた。経験したが、もう、止めることは、諦めていた。
「遼」
「ん」
「曹操もびっくりだよ」
「なんで曹操が出てくる」
「曹操は、自分の領地の村を回って、壊れた井戸を、自分で直してたらしいぞ」
「本当か」
「いま、考えた」
「考えるな」
「曹操は、人助けが、好きだった」
「いま、考えたんだろ」
「ばれた」
遼はふっと笑った。
笑った遼を、福永が見た。
「遼ちゃんが笑った」
「笑ってない」
「笑った」
「うん」
「うんって」
「笑った」
福永の目がまた赤くなり始めた。
「福永、また泣くな」
「泣いてない」
「泣きそうだ」
「だって、遼ちゃんが、こう、自分のこと、ちゃんと、言ってる」
「言ってないが」
「言ってる」
遼はもう一口、緑茶ハイを飲んだ。
飲みながら、自分のことを奥に持っているかどうか、考えてみた。考えても、よく分からなかった。よく分からないが、福永がそう言うなら、たぶん、ある。家族でも友達でも、自分のことを言い当てる人間が、たまにいる。本人より、たまに正確に当てる。当てられた本人は、本人のはずなのに、後追いで「そうなのか」と思う。今日の遼は、そういう状態だった。
数日後。
TechVision東京支社、品川。
ロバートチェンが、遼の席に来た。
「柊さん」
「はい」
「ちょっと、いいですか」
「はい」
遼はロバートと、空いている会議室に入った。
「工房の話、聞きました」
「あ、はい」
「ご友人から聞いたのではありません」
「分かっています」
「上野さんが、ラジオで、話していたわけでもありません」
「あいつ、話してないですか」
「話していないと、私は信じています」
「分かりました」
ロバートはそれで、本題に入った。
「うちの社内稟議で、新設部署、上げてみませんか」
「新設部署」
「ええ。アイデアが稟議に通れば、それなりの規模の部署を新設できる仕組みがあります」
「ありますね」
「『柊さんの工房を、TechVisionの一部署として新設する』」
「あー」
「予算、人員、物件、ぜんぶ社内から出ます」
「あー」
「私が起案します。柊さんは、署名するだけでいいです」
「通りますか」
「通します」
「断言する人ですね」
「断言できる稟議しか、起案しません」
「あー」
「興味は、ありますか」
遼はしばらく考えた。
考えてから、こう答えた。
「ありがたいです」
「はい」
「でも、TechVisionの本業は、ちゃんと続けます」
「はい」
「工房は、個人で、別途やります」
「ふむ」
「すみません」
「謝らなくていいです」
ロバートは頷いた。
頷き方が、いつもより少しだけ深かった。少しだけ、というのは、ロバートが、自分の中で、ある程度予測していた答えだった、ということだった。予測していたが、聞いてみないと分からなかった。聞いて、予測通りだったので、ロバートは頷いた。
「柊さん」
「はい」
「いいですか、念のため」
「はい」
「うちで部署化したくないのは、なぜですか」
「会社のリソースで、副業をやらせていただくのは、入社一年目では、筋が違います」
「ふむ」
「TechVisionには、本業で、ちゃんと、お返ししたいです」
「分かりました」
「それから」
「はい」
「工房、儲ける気はないんです」
「儲けない」
「機械が壊れて、立ち行かなくなった人を、直しに行く。それくらいの工房です」
「ふむ」
「報酬は、もらいます。直すのに必要な分は」
「はい」
「でも、それ以上は、もらいません」
「ふむ」
「だから、TechVisionの部署にすると、たぶん、会社の規模に、合わない」
「あー」
「合わないものを、稟議に通していただくのは、心苦しいです」
「分かりました」
「お気持ちは、ありがたいですが」
「分かりました」
「柊さん、念のため、確認しておきますが」
「はい」
「個人で工房をやる場合、工房としては、TechVisionの仕事は受けられません」
「分かっています」
「社員としては、これまで通り、社内案件も、防衛省関連も、対応していただきます」
「はい」
「ただし、工房に来た仕事のうち、TechVisionに関連するもの、または競合になるものは、お断りいただく必要があります」
「分かっています」
「線引きは、ご自分で、お願いします」
「自分で引きます」
「困ったら、相談してください」
「相談します」
「ロバートさん」
「はい」
「CEOには、なんと説明されますか」
「『柊は、入社一年目なのに、会社のリソースで副業をやるのは筋が違うと言いました。それから、儲ける気のない、人助けの工房をやるそうです。会社の規模に、合わないと』」
「そう言うんですか」
「言います」
「CEO、なんと言いますか」
「あの人は、独立、という単語が、好きです」
「あー」
「『お前は独立するべきだ』『私が私だったのは、独立したからだ』『独立しないやつには、何もない』」
「言いそうですね」
「言います」
「『人助け』という単語も、好きそうですね」
「好きです。『金は後からついてくる』が口癖です」
「言いそう」
「言います」
ロバートは笑った。
ロバートが笑うのは、最近増えていた。最近、というのは、デイビッドが二週間滞在を決めて、AURUMのコンサートに行って、また増えた日々の中で、ロバートが笑える瞬間を、自分で見つけるようになったからだった。自分で見つけないと、笑える瞬間が自然には来ない。
ロバートは、会議室を出ていった。
出ていきながら、こう言った。
「CEOには、私から伝えます」
「お願いします」
「『そうか』と、たぶん、一言だけ、言います」
「予想つきます」
「予想がつくと、楽です」
「楽ですか」
「楽です」
その夜。柊家のリビング。
柊凛がソファに座って、台本を読んでいた。
柊華が、その隣でスマホを見ていた。
遼がダイニングテーブルから、二人に向かって言った。
「報告がある」
凛が顔を上げた。華も顔を上げた。
「珍しい」
凛が言った。
「えっ、珍しい」
華も言った。
「報告するときは、まとめてした方がいい」
「まとめてするって、なに」
「二度言う手間が省ける」
「あー」
「効率が悪い」
「分かった」
「で、何」
「工房、開こうかと思って」
凛が止まった。
華も止まった。
止まったあと、凛がこう言った。
「工房?」
「うん」
「機械の?」
「機械の」
「TechVisionは?」
「TechVisionで、本業はやる。工房は、別」
「副業?」
「副業というか、本業と並行で、やる」
「忙しくない?」
「忙しい」
「いいの?」
「いい」
「儲かるの?」
「儲けない」
「儲けない?」
「儲ける気はない。困ってる人を、直しに行くだけ」
「あ、そういう工房」
「そういう工房」
凛はしばらく、遼を見ていた。
見たあと、ふっと笑った。
「分かった」
「分かったか」
「分かった。遼が、忙しいって言うときは、本気なときだから」
「そうか」
「そう」
次に、華が口を開いた。
「お父さんみたい」
遼がこちらを見た。
「父さん?」
「うん。お父さんみたい」
「父さんが、工房をやっていたか」
「お父さんは、世界を直す、って、昔、言ってた」
「いつ?」
「私が小学校のとき」
「俺、聞いてない」
「華に言うときと、遼に言うときは、違うんだよ。お父さん、子供によって、言うこと、変える」
「そうだったのか」
「そう」
遼はしばらく、何も言わなかった。
言わなかったが、自分が父から何を聞いて育ったか、ぼんやり思い出した。父は寡黙だった。寡黙だったが、たまに、短く何かを言った。短く言った言葉は、子供のころはよく分からなかった。分からないまま、忘れていた。忘れていたが、いま思い出した。
「……そうか」
遼はそれ以上、言わなかった。
凛が笑った。
華も笑った。
遼もわずかに、口の端が上がった。
夜。遼の部屋。
ノートパソコンを開いて、メールを書いた。
宛先:父・海斗。
件名:工房を開こうかと思っています。
本文は、件名と同じ、一行だけだった。
送信ボタンを押した。
押してから、ベッドに座って、しばらく画面を見ていた。父からの返信は、いつも遅い。早くて翌日、たいてい三日後、ときには一週間。ロサンゼルスとの時差もあるが、それ以上に、父は、メールをすぐに返さない。
今日は、しかし早かった。
二十分後、返信が来た。
遼は画面を開いた。
本文は、一行だけだった。
《好きな方を選べ。責任は自分で取れ》
遼はその一行を、しばらく見ていた。
見てから、ふっと笑った。
笑ったのは、父の文面が、いつも通りだったからだった。父は、子供に対して、何かを「祝う」とか「応援する」とか、そういう感情のこもった言葉を、ほぼ使わない。代わりに、「選べ」と「取れ」を組み合わせる。組み合わせた結果が、父からの最大の応援だった。
最大の応援を、二行で表現する父を、遼は理解できるようになっていた。
いつ理解できるようになったかは、自分でも分からない。分からないが、今日の二行は、ちゃんと応援として読めた。読めたのが、たぶん自分が、ある程度大人になった証拠だった。
ある程度、というのが、二十二歳の自分には、ちょうどいいサイズだった。
遼はノートパソコンを閉じた。
閉じてから、ベッドに仰向けになった。
天井を見た。
天井は白かった。柊家の天井は、たいてい白かった。白い天井の下で、遼は、もう一度、心の中でつぶやいた。
「工房を開こうかと思っています」
声には出さなかった。
出さなかったが、頭の中では、はっきり聞こえた。
はっきり聞こえた言葉は、たぶん、もう答えのかけらでは、なかった。
かけらではなく、答えの半分くらいになっていた。
半分というのが、今日の遼にとっては、ちょうどいい進み方だった。




