第57話「神崎の現場」
柊凛は、朝、プリンを取られた。
正確には、取られたわけではない。冷蔵庫を開けて、自分の場所——ドアポケットの上から二段目、左奥——を見たら、そこに、いつものプリンがなかった。なかった、というのは、消えた、ということで、消えた、ということは、誰かが食べた、ということだ。柊家のプリンには名前を書く決まりがある。書いた本人がそのまま食べる。書いていないものは早い者勝ち。それが家のルールだった。凛は昨夜、ちゃんと書いた。マジックで「凛」と書いた。書いた記憶がはっきりある。
冷蔵庫の前で、凛は三秒固まった。
固まった三秒のあいだに、頭の中で、犯人候補が三人並んだ。遼、華、由紀。容疑者リストの最上段に自分の母を置くのはどうかと思って、凛は由紀を二段下げた。下げたが、消しはしなかった。
冷蔵庫を閉めて、リビングに戻った。
「お母さん」
「ん」
「冷蔵庫のプリン、知らない?」
「知らない」
由紀は新聞から目を離さずに答えた。母は演出家相手に二十二年揉めてきた人間だ。そういう人間の無表情は、凛のキャリア六年では読み切れない。
ダイニングテーブルで遼がトーストを齧っていた。
「遼」
「ん」
「プリン、知らない?」
「知らない」
「本当に?」
「俺、昨夜、十一時まで仕事してた。帰ってから風呂入って、すぐ寝た。冷蔵庫は開けてない。以上」
遼はそう言って、また画面に戻った。
凛は遼の供述を採点した。アリバイの提示が、いささか具体的すぎる。具体的すぎる供述は、容疑者の心理学において、しばしば嘘の指標とされる、と凛は深夜の刑事ドラマで何度も言ったことがある。何度も言ったが、自分の家でこれを使う日が来るとは思っていなかった。
二階から華が降りてきた。
「おはよう」
「おはよ」
「お姉ちゃん、撮影?」
「神崎さんのドラマ」
「ふーん。がんばって」
華はそう言って、冷蔵庫を開けた。上から二段目、左奥を確認した。確認の仕方が、わずかに、不自然だった。華の肩がほんの少し止まっていた。
凛は華の背中を見た。
「華」
「うん?」
「昨夜、何時頃帰った?」
「十一時半?」
「お腹空いてた?」
「そんなには」
華は目を合わせずにヨーグルトの蓋を開けた。
目を合わせない、というのは、容疑者の心理学において、しばしば嘘の指標とされる。同じ台詞を、朝、二人目に対して使う羽目になった。
でも凛は、それ以上は追わなかった。
神崎恒一の現場に遅刻するわけにはいかない。
神崎の現場に遅刻したら、神崎は何も言わない。何も言わないが、その日のシーンが、すべて、トーンが落ちる。落ちるトーンは、現場の全員が感じ取る。感じ取るが誰も口にしない。神崎の現場とは、そういう現場だ。
プリン一個と、神崎のトーン、どちらが大事かと言われれば、たぶん、トーンだ。
たぶん、というのは、凛の中で完全には決着していないということだ。
決着していないが、出るしかなかった。
タクシーの中で、凛は台本を開いた。
先月の現場で、神崎は「計算しないでください」と言った。あの日、凛は計算を捨てた。捨てて、何か出た。出たものが何だったのかは、凛には分からない。分からないまま、神崎は「もう一度、同じでいい」と言った。同じでいいと言われたのに、同じものが何なのかが、本人に分かっていなかった。
今月、凛はもう一度、神崎の現場に立つ。
立つ時に、凛は、何を持っていけばいいのか分からなかった。
計算は、置いてくる?
でも、置いてきたら、私には何が残る?
凛のキャリアは、計算の上に積まれている。台詞の長さ、声の高さ、視線の角度、間合い、相手との距離、すべて計算の結果だ。計算の結果として国民的女優になった。視聴率十五パーセント前後を六年間維持してきた。それを「置いてくる」というのは、自分の働き方そのものを、現場に置き忘れていく行為に近い。
タクシーが赤信号で止まった。家族LINEを開くと、華から一行入っていた。
《お姉ちゃん、頑張ってね》
凛は短く、《ありがとう》と返した。返してから、《プリンは?》と打って、消した。追及するのが面倒になったからではない。ここで追及して、もし華がしらばっくれたら、凛の方が傷つくからだ。傷つくのが分かっている話を、撮影前に開く必要はない。
信号が青になった。
楽屋に入ると、鷹野千夏がいた。今日は別フロアの収録で、楽屋を共有している。最近、このパターンが多い。「凛と千夏は楽屋を一緒にしておくとお互いに楽そう」という、たぶん根拠のない判断が、芸能事務所の中で公式の方針として定着しつつある。根拠はないが、結果として、凛は楽だった。
「お疲れー」
「お疲れ様です」
「今日、神崎ドラマ?」
「はい」
「先月、何言われたっけ」
「計算しないでください、って」
「うわ、修羅場だ」
「修羅場、ですか」
「修羅場に決まってるじゃん、それ」
千夏は鏡の前で口紅を直しながら笑った。
千夏の笑いは、いつも、半分は本当で、半分は冗談だ。半分が本当なので、聞く側は緊張する。緊張するけれど、もう半分が冗談なので、ぎりぎり、楽になる。
「凛ちゃんさあ」
「はい」
「先月、何か変わった?」
「……分かりません」
「また、それ」
「他に答えようがないんです」
千夏は何かを言いかけて、やめた。鏡の中の自分を見て、もう一度、こちらを見た。
「今日、終わったら、ご飯食べに行こうか」
「焼肉でいいですか」
「凛ちゃんが焼肉って言うの、めずらしいね」
「今日は焼肉です」
「了解」
千夏は出ていった。
楽屋に一人になった凛は、鏡の中の自分を見た。鏡の中の自分は、いつもより、少し顔が出ていた。普段なら気づくはずの違和感に、今日は気づかなかった。気づかなかったまま、楽屋を出るところだった。
焼肉、と自分が言ったことに、凛は自分でも少し驚いた。普段の凛は、撮影日に焼肉を選ばない。胃が重くなるからだ。胃が重くなる選択を撮影日にしないのが、自己管理というものだ。今日の凛は、焼肉を選んだ。理由は、うまく説明できなかった。たぶん、何か、油っぽいものを噛みたかった。噛んで、肉を肉として食べたかった。それが何の比喩なのかは、凛にも分からなかった。
神崎が現場に入ってきた。
神崎恒一は、五十三歳の男だ。背は高くない。痩せている。黒縁の眼鏡をかけている。服はいつも黒い。黒いシャツに黒いパンツ。それが季節を問わない。私服を持っていないのではないか、と現場のスタッフが冗談で言うが、本当に持っていないのか、それとも黒を選んでいるのか、誰も知らない。
神崎はまず、技術スタッフと打ち合わせをする。打ち合わせの内容は、毎回、こまかい。カメラの角度、照明の位置、レフ板の枚数、すべてに具体的な指定が入る。指定を出す時、神崎はメモを見ない。全部、頭に入っている。
今日のシーン12は、凛と相手役の筒井沙奈の二人芝居。十年ぶりに再会した元同僚役だ。葵(凛)は田舎で美術館の学芸員をしていて、麻里(沙奈)は東京から出張で会いに来た、という設定。
神崎は沙奈に三言、何か言った。沙奈が頷いた。
次に、凛の前に立った。
「柊さん」
「はい」
「今日は、計算してください」
——え。
凛の脳が、その台詞を二回再生した。二回目で、再生は止まった。止まったが、意味の処理は、まだ始まっていなかった。
「……あの」
「はい」
「先月は、計算しないでくださいって」
「はい」
「今日は、する」
「はい」
「逆ですね」
「逆です」
神崎はそう言って、現場の方へ向かっていった。
凛は、その背中を見ながら、台本の角を握り直した。握り直した手の力で、ようやく台本を握りしめていることに気づいた。気づいたので、力を緩めた。緩めた台本に、指の跡が、薄く、残っていた。
リハーサルが始まった。
凛は計算した。声のトーン、視線の落とし方、間合い。計算する、というのは、凛にとっては、いつもの仕事だ。先月の方が異常で、今日の方が、本来のホームグラウンドだ。
はずだった。
はずだったのに、凛は、計算する場所を、見失った。
声のトーン——どこ。
視線の落とし方——どこ。
間合い——どこ。
ぜんぶ、いつも通り、出てくるはずの場所から、出てこなかった。
「久しぶり」
「うん。元気そう」
台詞を機械的に口にした凛を、神崎が止めた。
「カット。柊さん」
「はい」
「計算してください、と言いました」
「はい」
「計算していますか」
「……していません」
「なぜ」
「分かりません」
凛は、自分の声が低くなったのが、分かった。低くなった声を、現場の全員が聞いた。
神崎は眼鏡の縁を、指で軽く触った。
「先月、計算を、置いてきましたか」
「……置いてきていません」
「では、どこに、ありますか」
「分かりません」
「分からないのに、計算しろと言われて、できていない。それは、当然です」
凛は神崎の目を見た。冷たくはない。温かくもない。ただ、見ている。柊凛という人間を、女優として、見ている。
「柊さん」
「はい」
「先月、計算を捨てたのではありません。計算が、置き場所を変えました」
「……」
「あなたの中で、計算が、別の場所に移った」
「……」
「だから今日、いつもの場所を探しても、ない」
凛は立っていた。立っていたが、足の感覚が、少し、薄かった。
「もう一度、やってください。計算は、しなくていい、しろ、どちらでもありません。あなたが、葵として、麻里に、何を、言いたいかです」
凛は、台本を、もう一度、見た。
葵は、何を、言いたいのか。
台詞は六行。「久しぶり」「ええ。東京はどう」「ふうん」「私、こっちで、楽しくやってる」「うん、本当」「またね」。字面の中には、葵の言いたいことは書いていない。書いていないものを、凛は自分で置かなければいけない。置かなければいけないが、何を置けばいいかは、台本には、書いていない。書いていないものを、凛は、自分の中から、探さなければいけない。
探す場所が、いつもの場所には、ない。
ない、ということを、凛は、ようやく、認めた。
認めた瞬間、凛の中で、台詞が、別の質感を、持った。
「久しぶり」
凛が、それを言った。
計算は、しなかった。置いてきたわけでもなかった。ただ、葵として、十年ぶりに会った相手に、「久しぶり」と言った。その「久しぶり」が、ある場所から、出てきた。場所がどこだかは、凛には分からない。分からないが、出てきた。
沙奈が、こちらを見た。
沙奈の目が、ほんの少し、揺れた。
揺れたのを、凛は、見た。
沙奈の麻里が、「うん。元気そう」と返した。その返しの質も、さっきと違った。
神崎の声がした。
「カット。もう一度。同じで、いい」
——あ。
凛の中で、先月の言葉が戻ってきた。
もう一度、同じでいい。
同じ言葉だが、状況が、逆だった。先月は「計算しないでください」の後の「同じでいい」。今日は「計算してください」の後の「同じでいい」。
神崎は、凛から、同じものを引き出した。
帰宅したのは、夜の九時過ぎだった。
千夏との焼肉は、ハラミ二人前を黙々と食べて終わった。話したのはピーちゃんという犬の話で、誰のピーちゃんだったかは、もう覚えていない。覚えていないが、凛は、笑った。計算した笑いではなかった。計算したものでもないし、置いてきたものでもない。ただ、千夏の話で、笑った。
神崎の言葉が、肉を噛んでいるあいだに、もう一度、再生された。
計算が、置き場所を変えました。
別の場所に、移った。
その別の場所が、どこなのかは、凛には、まだ、分からない。分からないが、たぶん、こういう場所と、関係があるのかもしれなかった。焼肉屋で、誰かのマネージャーが飼っているピーちゃんの話で、笑う場所。計算しなくても、自然に、声が出る場所。
たぶん、というのは、凛には、まだ、確信がない、ということだ。
ある気はする、というのを、凛は、自分の中で、認めた。
玄関を開けると、リビングのテーブルにプリンが四つ並んでいた。
由紀がこちらを見た。
「凛」
「うん」
「田中さんが、さっき、持ってきた」
「四つ?」
「私たち四人に、一個ずつ、ってことらしい」
凛はプリンを一つ取って、座った。
スプーンを口に運ぶと、味は、いつもの田中のおばちゃんのプリンの味だった。甘くて、卵の味がして、底にカラメルがある。
今日のプリンは、いつもより、ほんの少しだけ、おいしかった。
「お姉ちゃん」
華が言った。
「うん」
「朝、プリンの話、してたよね」
「したね」
「あれ、どうなったの」
「謎のまま」
「謎のまま、って」
「謎のままでいい」
「でも、犯人は誰なの」
「いない」
「いないわけ、ないでしょ」
「いない」
「お姉ちゃん」
「謎のままがいいんだよ、人生には」
華が目を丸くした。由紀が笑った。
凛は廊下の奥の遼の部屋を見た。ドアの下から、薄く光が漏れていた。いつもの光だったが、今日の凛には、ほんの少しだけ、違って見えた。
違って見えるのは、凛の方が、変わったからかもしれなかった。
計算の置き場所が変わるというのは、こういうことから始まるのかもしれない。
ハラミを二人前食べた夜に。
謎のプリンを四つもらった夜に。
誰にも何も説明しないまま、自分の中で、何かが、ずれて。
ずれたまま、明日が来る。
明日が来たら、また、神崎の現場が、ある。
ある日まで、あと、二週間。二週間のあいだに、凛は、たぶん、また、いつも通りの仕事をする。いつも通りの仕事をしながら、ずれたまま、生きる。
凛は、空のカップをテーブルに置いた。置いた音が、リビングに小さく響いた。
誰も気にしなかった。
気にしないでくれて、凛は、少しだけ、ほっとした。




