第55話「それぞれの場所」
朝、柊家のリビング。
由紀がソファに座って、コーヒーを飲んでいた。
柊華は台所でトーストを焼きながら、母の背中を見ていた。母は、いつもより少しだけ深く座っている。家を発つ日が近いと、母はこういう座り方をする。
「お母さん」
「なに」
「ミラノ、いつ戻るの?」
「来週」
「来週?」
「水曜」
「あと五日」
「あと五日」
パンが焼けた。
華は皿に乗せた。乗せながら、なんとなく、四週間って長かったな、と思った。長かったけれど、終わってみれば、そんなに長くなかった気もする。長さの感じ方は、終わる頃に必ず変わる。これも母の四週間で華が学んだことだった。
柊凛は自分の部屋で、台本を読んでいた。
神崎監督の作品。来月から本格的に撮影が始まる。台本のページを、凛はゆっくりめくっていた。最近、ゆっくりめくる癖がついた。神崎の現場で覚えた癖だ。
余白に、鉛筆で「ここで考えない」と書いた。
「ここで考えない」。神崎が現場で言った台詞。これを凛はよく思い出す。考えないで演技をする、というのが、これまでの凛の演技の作り方とは、たぶん逆だった。
ドアがノックされた。
「お姉ちゃん」
「華」
「朝食」
「すぐ行く」
「うん」
凛は台本を閉じた。
閉じながら、今朝の母のことを思い出した。深く座っていた、と華が言いそうだった。言いそうな気がしたから、凛も、リビングに行くことにした。
柊遼は自分の部屋にいた。
机の上に、空白があった。
昨日、防衛省の案件が完成した。書類を全部片付けたら、机の空白が戻ってきた。空白は、しばらく見ていなかった景色だ。
遼は空白をしばらく眺めた。
眺めながら、頭の中で、また同じ問いが動いた。「俺は、どうしたいんだ」。先週から残っている問い。今日も、ある。
「遼、朝食」
華の声がした。
「分かった」
遼は立ち上がった。立ち上がる時、空白のことは忘れた。これも遼の特技だった。
朝食。
味噌汁、ご飯、納豆、卵焼き。普通の朝食。普通なのに、由紀の口数が少しだけ少なかった。
四人とも、気づいていた。気づいていたが、誰も触れなかった。母が「なんでもない」と言うことを、家族は事前に知っていた。
「みんな、聞いて」と由紀が言った。
「うん」と凛。
「うん」と華。
「うん」と遼。
「来週の水曜、ミラノに戻ります」
「うん」
「うん」
「うん」
三つの「うん」がほぼ重なった。三人とも、知っていた。母は、知っているのに、改めて言った。
「四週間、ありがとう」
「お母さんが言うのは変だね」と凛。
「そう?」
「うちは、こっちが言う側」
「そうかしら」
「そうだよ」
由紀がにこにこした。
午前、出版社。
桜井詩織は、原稿に赤字を入れていた。
最近、赤字の量が少しだけ減った。原稿が良くなったわけではない。詩織の中の基準が、少しずつ変わってきている。
窓の外を見た。
平日の午前。何もない街の風景。何もないのを、しばらく見ていた。
由紀のことを思い出した。
先週、由紀から「ミラノに戻る前にもう一度ランチでも」とメールが来た。詩織は「はい」と返した。返してから、自分の「はい」が、最近、少し違うことに気づいていた。前の「はい」は「たぶん」に近かった。今の「はい」は、もう少し「はい」に近い。
高瀬悠斗が給湯室の方へ歩いていった。
詩織はその背中を、ちらりと見て、また原稿に戻った。視線を戻すのが、最近、軽い。
軽いことを誰にも言わない。それも詩織の選択。
昼、撮影現場。
柊華はトレーラーの陰でペットボトルの水を飲んでいた。
午前は刃物を持って走るシーン。三回でOKが出た。OKが出た時、華は自分が何をやったのか、よく覚えていなかった。覚えていないけど、OKが出たので、たぶん正しい。
「柊さん」
水城蒼真だった。台本を持っている。
「蒼真くん」
「次のシーンの台詞、いい?」
「いいよ」
二人で台本を開いた。声に出して読んだ。
「ここの『分からない』、どう言う?」
「……弱く、かな」
「弱く」
「うん」
「俺もそう思ってた」
「同じだ」
「同じだ」
しばらく台本を見ていた。気がついたら、休憩時間が十五分過ぎていた。
助監督が来た。
「柊さん、蒼真くん、そろそろ」
「はい」
「もうそんな時間?」と蒼真。
「もうそんな時間です」
「ありがとうございます」
二人で立ち上がった。立ち上がりながら、華は蒼真を、ちらりと見た。蒼真は台本を見ていた。気づかれなかった。気づかれなかったことを、華はなぜか、少し安心した。
なぜ安心したのかは、考えなかった。
午後、TechVision東京オフィス。
ロバートチェンのメール。
*"Robert. When can I come next?"*
(ロバート、次はいつ行ける?)
*"My calendar is open."*
(私のカレンダーは空いてる)
*"Tell me when."*
(いつかを教えて)
送信元はアリアマクナマラ。
ロバートは画面を見て、しばらく動かなかった。動かないまま、返信を打った。
*"Aria. You came two weeks ago."*
(アリア、二週間前に来てましたね)
*"I know."*
(知ってる)
*"Are you planning to come every month?"*
(毎月来るつもりですか)
*"Yes."*
(うん)
*"...for how long?"*
(……いつまで)
*"Until."*
(答えが出るまで)
ロバートは目を細めた。最近、目を細める頻度が増えている。三十年のキャリアで、こういう状況は初めてだった。
*"Understood. I'll arrange your schedule."*
(了解しました。スケジュールを調整します)
*"Thank you Robert."*
(ありがとうロバート)
*"You're welcome."*
(どういたしまして)
送信して、ロバートは椅子にもたれた。
窓の外で、夏の午後の品川が広がっていた。広がっているだけだった。
夕方、柊家。
台所に由紀と田中のおばちゃんが立っていた。今日のメニューは肉じゃが。由紀が肉じゃが、田中のおばちゃんがサラダ。
「あら、プリン」と由紀。
テーブルの上に、プリンが五個あった。
「五個?」
「五個」
「うちは四人だけど」
「分かってる。一個多めにした」
「なんで」
「予備」
「予備?」
「家族の一人がもう一個食べたい、って言うかもしれない」
「そういう日って、ある?」
「ある日もある」
由紀はプリンを数えた。一、二、三、四、五。間違いなく五個。
今夜、誰が予備を食べるのか。これが、たぶん、柊家の今夜の重要事項になる。
夕食。
肉じゃが、ポテトサラダ、ご飯、味噌汁。それから、プリンが五個。
「お母さん」と華。
「なに」
「プリン、五個ある」
「あるね」
「うちは四人」
「そうね」
「五個目、誰が食べるの」
「予備」
「予備、誰が食べるの」
「今日いちばん頑張った人」
「私は刃物持って走った」と華。
「私は台本を真剣に読んだ」と凛。
「お母さんはミラノの準備した」
「遼は——」と華が遼を見た。
遼は肉じゃがを食べていた。食べながら、ぼんやり聞いていた。聞いていたが、自分の名前が出たので顔を上げた。
「俺?」
「今日、何した?」
「何もしてない」
「何もしてないの?」
「昨日、終わったから」
「昨日のは?」
「昨日のは昨日の話」
「シビアだなあ」
凛が笑った。
「じゃあ、五個目、誰?」
「お母さんでいいんじゃない」と華。
「お母さん?」
「四週間、頑張ったから」
「……四週間で?」
「四週間で」
由紀が、にこにこした。
「ありがとう」
「どういたしまして」
遼はその間、肉じゃがをもう一口食べた。家族の話を聞きながら食べた。これが家族か、と思った。当たり前のことを思った。当たり前のことを当たり前に思える日は、たぶん、何かが終わった日だ。
夕食の後。
遼は台所で皿を洗った。
手伝うか、と凛が聞いた。いい、と答えた。
洗っていると、リビングから由紀と華の声が聞こえた。話の内容までは聞こえない。母と妹の声、ということだけ分かった。
洗い物を終えた。
窓の外を見た。夏の夕暮れ。遠くの建物の窓に、ぽつぽつと明かりが灯っていた。
由紀が隣に来た。お茶を淹れていた。
「遼」
「なに」
「終わったね」
「終わった」
「次は、どうするの」
「……まだ、聞いてない」
「会社から?」
「うん」
「そう」
「たぶん来週には何か来る」
「ロバートさんから?」
「たぶん」
「ロバートさんは、よく働く人ね」
「働きすぎだと思う」
「あんたが言うの?」
「……まあ」
由紀はお茶をリビングに運んでいった。背中はいつもの母。いつもの母なのに、来週ミラノに戻る。何かが少しだけ動いた。動いたが、遼は何も言わなかった。
夜、遼の部屋。
机の前に座った。
空白は朝と同じ場所にあった。場所は同じなのに、夜の空白は、朝の空白と少し違って見えた。違いの理由は分からない。
ノートを開いた。
ペンを持った。
書きたいことは特になかった。
しばらく、ノートを見ていた。書かないままペンを置いた。
「俺は、どうしたいんだ」。
今日も答えはない。急がなくていい、とどこかで思った。
窓の外で、夏の夜が広がっていた。リビングからは、まだ家族の声が聞こえている。
遼は椅子の背にもたれた。目を閉じた。
目を閉じている間に、今日見た景色が、順番に浮かんだ。母のソファ。凛の台本。蒼真と並んで歩く華(これは想像)。詩織の窓の外(これも想像)。アリアからのメール(聞いた話)。ロバートの遠い目(想像)。プリン五個。
みんな、それぞれの場所にいた。
遼の場所はここ。机の前。答えのない問いを抱えたまま。
目を開けた。
なんとなく笑った。理由は分からない。
答えのない問いを抱えたまま、笑える夜がある。それで十分かもしれない。




